愚者のワルツ
※臨猫シリーズ
仕事から帰ったらまず冷蔵庫を開けること。
弟くんが載っている雑誌を大切に保管していること。
風呂上りに髪の毛も乾かさずに眠ってしまうこと。
そして――――。


「……ん、何だよ。寒ぃのか?」


こんな風に穏やかな声で、表情で
優しく微笑むことができるということ。




ほんの一週間程前までは汗ばむような陽気が続いていたというのに、ここ数日で季節は秋の装いに移ろい始めていた。明け方と夜はそれなりに冷え込むものの、今の俺は全身くまなく柔らかな体毛で包まれているのだ。発汗によって体温調節ができない身としては、これぐらいの気候の方がむしろ有難かった。
「ほら、こっち入れよ」
薄手のタオルケットに包まったシズちゃんの枕元に座り込むと、彼は眠気にまどろんだ声で俺に話しかけ、そっと頭のてっぺんを撫でてくれた。
何となく。ただ何となしに、シズちゃんの傍に居たくて寄り添っただけなのだが、彼はやせっぽっちな猫が肌寒いのではないかと気を配ってくれたようだ。特に寒さを感じていたわけではないが、触れ合う肌の温もりが心地良い。思わず目を細めて、うっとりと彼の手のひらに額を擦り付けた。
「……にゃあ」
シズちゃんに撫でられるのは、気持ちが良い。
「……はは、気持ちいいだろ?」
毛足にそって頭から背中までをゆっくりと行き来させていた手を止め、彼は満足そうに笑った。タオルケットの端を持ち上げて入り口を作り、俺の身体をその中にそっと押し込む。暖かな胸元に背中を合わせるようにして丸まると、彼の吐き出す吐息が耳元を掠めて少しくすぐったかった。


シズちゃんと暮らし始めてもう一週間が過ぎようとしている。
呼び名が無い事に不便さを感じたのか、彼は猫になった俺に「ノミムシ」という無礼極まりないあだ名をつけた。ネーミングセンスは最悪だが、まあそれなりに可愛がってくれているようなので良しとしよう。
彼がどんな気持ちで大嫌いな男の愛称を猫に与えたのかは分からない(多分毛色が黒だったからとか、そんな単純な理由からだろうが)
しかし、残念ながら人の言語を持ち合わせていない今の俺には、この不本意極まりない名前に異議を申し立てる事すらできやしなかった。仕方なしに、名前を呼ばれれば一応尻尾を振って返事ぐらいはしてやっている。
(……いや、違うな)
はたはたと左右に揺れていた尾っぽの止め、か細い溜息を零す。
正直に言ってしまえば、俺は彼が自分を呼ぶ声がたまらなく好きだった。この身体は不便なもので、どんなに虚勢をはろうが尻尾の動きだけは誤魔化せないのだ。シズちゃんが俺を呼ぶ声はとびきり甘くて、穏やかで、そして優しい。そんな声音で自分を呼んでくれる事が、今の俺は素直に嬉しいのだ。たとえそれがどんなに最低な名前だとしても、もはや気にはならなかった。
(……なんてザマだ)
気付きたくなかった。けれど、気付いてしまった。自分が彼に向ける淡い劣情に。


予想外に人間くさい一面を知って興味をひかれただけ。あくまでも一時の気の迷いで、元の姿に戻ればこんな感情は綺麗さっぱり消えてなくなるだろう。――そう自分を納得させてしまおうと思っていたが、結局それは無理な話だという結論に至った。
日がな一日ぼんやりと思案に耽るだけの日々は、逆に俺の頭の中をクリアにした。言い訳を考える時間は山程あったし、逃げ道を用意する事だってできた筈だ。けれど、蓋を開けてみればなんて事はない。俺の気持ちは非常にシンプルで分かり易いものだった。どんなに否定しようと、例え見てみぬフリをしようとも、うっかり掘り出してしまった自らの感情を制御する事など到底不可能で。
騙し騙し過ごしてきた8年間は、この数日であっという間に瓦解してしまったものの、不思議とそこまで絶望的な気分にはならなかった。やはり俺はどちらかとうとポジティブなのかもしれない。
二人きりの時間を共有する事でやっと認める気になるなんて。愚鈍というか……我ながら馬鹿だとは思う。
こんな姿になってしまった今、この想いをどう扱ってやれば良いのか見当もつかない。そもそも人の姿に戻れたとして一体何が変わるというのだろうか。
変化があったのはあくまで「俺の中」での話だ。シズちゃんの中で「折原臨也」が憎く疎ましい存在な事に変わりはない。こんな風に穏やかな時間を過ごす事ができるのは、今の俺が「臨也」の形をしていないからで。人間の姿に戻れば、全てが元通りになる。魔法は解け、また殺し合いの日々が始まるのだ。


だったら、この姿のまま元に戻らなければ良いのではないか――。
そうすれば、この温もりも、穏やかで幸せな時間も、シズちゃんの笑顔すらも、永遠に自分だけの物に出来るのではないか。ふと、そんな空恐ろしい考えが脳裏に浮かんでしまい、ぶるりと身震いをした。
「…あったけえ」
小さな身体を捻り潰さぬようにと優しく腕で包み込み、シズちゃんは静かに呟いた。数分と経たずに眠りに落ちた彼と共にそっと瞼下ろし、そういえば猫は涙を流して泣く事ができない生き物だったな、と俺はどこか冷静に考えていた。


* * *


がちゃり。玄関先で鍵が外される音がした。素早く立ち上がり、ベッドの上からぴょこりと飛び降りて音もなくフローリングに着地する。家主を迎えるべく、たたた、と足早に玄関先へと向かった。
「おう、ノミムシ」
靴を脱ぎ終わった足元に身体を摺り寄せると、シズちゃんは俺の頭を撫でてそのままリビングへと向かっていった。
ここ最近、仕事が立て込んでいるのか彼の帰りは少し遅くなった。日付をまたぐ前には帰ってくるが、酷くやつれた顔をしている事が多くなり、部屋に帰ってきてからは食事もとらずに眠ってしまう事もしばしばだ。
「にゃーぅ」
トレードマークのバーテン服姿のままベッドに突っ伏しているシズちゃん。枕元にのぼって、少しだけ痛んだ金髪に頭を摺り寄せると、嗅ぎなれた煙草の残り香と共に、薬品のようなものが微かに鼻腔をくすぐった。
ダルそうに腕を持ち上げて俺の頭をわしわしと撫で回すが、依然として顔は枕に埋めたままで、こちらを見ようともしない。
俺は思わず小首を傾げてシズちゃん髪の毛をちょい、と手の先で弄んだ。体調が悪くて、病院にでも行ってきたのだろうか。昔から風邪一つ引いたことがないシズちゃんが、珍しい。
「……んだ、メシか?」
「んにゃー」
違うし。これでも心配してるんだよ?
言ってみたところで彼に猫の言葉が分かる筈もないのだけれど。少しでも伝われば良いのに、と喉元に伸ばされた指をぺろりと舐めた。
(ままならないものだなぁ……)
自慢ではないが、俺は口の上手さにだけは自信がある。
男も女も、老いも若きも。言葉で相手を支配する事にかけて、俺の右に出る者はそうそう居ないだろう。唯一例外としてこの口先が通用しなかったのが、彼。平和島静雄だった。どんなに綺麗に飾った言葉も、慎重に選び抜いた台詞も、シズちゃん相手には通じやしない。
だからこそ、俺は彼の事が苦手だった。思い通りにならないこの男の事が心底嫌いなのだと。そう信じていた。シズちゃんは人間じゃないから、だから俺の言葉が通じないのだと。


「にゃあ……」
余程疲れていたのか、シズちゃんはくたりと瞼を下ろして寝入ってしまった。存外に幼い寝顔を間近で眺めていると、彼の目が僅かに赤く腫れている事に気付く。


ねえ、何があったの?
元気が無いのは体調が悪いから?
それとも、何か嫌な事でもあってうっかり泣いてしまったのかな。


馬鹿だよね。
いつだって、どんな言葉でだって伝えることができた筈なのに。こんな姿になって、君に俺の言葉が届かなくなってしまってから、ようやく気付くなんてさ。
せめて目が覚めた時に、彼が少しでも笑顔を取り戻せますように。
俺は長い睫毛にそっと顔を寄せて、腫れぼったい瞼にキスを落とした。




 



臨也さんメロメロ。


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