真夜中の追いかけっこ
※臨猫シリーズ
無機質な着信音が暗闇に響き渡る。
設定をデフォルトのままにしているからか、耳に突き刺さるけたたましいベルの音はまるで警報のようだった。気持ちよくまどろみ始めていた俺は、たまらずに毛布に顔を突っ込んで背中を丸める。
「ふぎゃっ!」
「……んあ、…悪ぃ」
何をどう勘違いしたのか。寝ぼけ面のシズちゃんは携帯と間違えて俺の尻尾をわし掴みしやがった。本人は軽く握ったつもりなのだろうが、彼の馬鹿力にかかればチビ猫の華奢な尻尾なんて毛糸を千切るようなものだ。うう。尻のつけ根が裂けるかと思った……。簡便してほしいよ、まったく。
少し毛羽立ってしまった尾の毛を丁寧に舌先で毛づくろいしていると、ぺたぺたとあちこちを徘徊していた手は、ようやくベッドの隅に転がっていた携帯に辿り着いた。のっそりと半身を起こし、大あくびをする彼の顔が、携帯ディスプレイの光で暗闇に淡く浮かび上がる。その間も着信音は途切れる事なく響き続け、コールが鳴り止む気配はなかった。
横目で時計の針を確認すると、時刻は深夜の2時を少し回った所だ。こんな時間に、知人の少ない彼に一体誰が、何の用で。


「……もしもし」
ろくに相手を確認もせずに電話口に出たシズちゃんの第一声は、あからさまに不機嫌そうだった。普段から低い声がもう何トーンか下がっている。怖い。怖すぎる。
この様子では相手が最愛の弟でもない限り、相手は血祭りに上げられるだろう。俺は無意識に小さく身震いをした。
「ん、…おう。……は?」
電話口の相手と二言三言と言葉を交わしていく内に、その声音は徐々に力を失い、とうとう最後にはぱったりと途絶えてしまった。携帯のスピーカーから微かに漏れ聞こえる相手の声は、未だ浪々と何事かを呟き続けている。
「嘘…だろ。だって……待てよ、昨日までは…――ッ」
眠気でまだよく頭が回転していないためか、それともよほど動揺しているのか。あるいはその両方だろうか。シズちゃんは先ほどから何度も同じ言葉を繰り返している。
――嘘だ。
――何で。
薄暗い部屋の中でも凍りついた彼の表情は、小刻みに震える唇まではっきりと見える。今の俺は人間の数倍も夜目の利く猫の眼を持っているのだから。暗視スコープでも通したみたいにくっきりと浮かび上がる情景。クリアな視界は、それでもどこか現実からかけ離れて見えた。
だってシズちゃんが、あの平和島静雄が――。
「嘘…だろ。臨也――……」
大きく見開いた両目から大粒の涙を一筋、零したりするなんて。




日中、あるいは終電までの時間はあれほど賑わっている池袋の町も、今は死んだように眠りについている。多くの店々にはシャッターが下り、風俗店やキャバクラの客引きの姿もまばらだ。タクシーも既に繁忙時間を過ぎたか、駅前で列を成しているだけであまり動きがない。
まるで別の土地に迷い込んでしまったかのような錯覚を楽しむ暇もなく、俺はひたすら走った。硬いアスファルトに擦れた肉球が悲鳴を上げる。ゴミ捨て場の傍に散乱していたガラス瓶の欠片で、薄い皮が裂ける感触を感じたが立ち止まらない。目の前を駆けていく男の背を追って、短い手足を懸命に動かし続けた。
(待って…待てよ――)
身軽なこの身体は、どうやら瞬発力に長けてはいても持久力には乏しいらしく、情けないことに走り出してわずか5分足らずで俺の息は上がり始めていた。
絶望――。
まさにそんな単語がぴったりな顔だった。俺は彼のそんな表情を、未だかつて拝んだことがない。
何かの見間違いかと唖然としている俺を傍目に、シズちゃんはベッドから飛び降り。取る物もとらず、着替えの時間すらも惜しんでそのまま飛び出して行ってしまった。
狭いワンルームの部屋にぽつりと取り残された俺のすぐ横で、床に放り投げられ無残に電池パックの蓋の弾け飛んだ携帯が再び鳴り出す。その音ではっと我に返り、俺は慌ててフローリングに降り立った。
開きっぱなしの携帯の脇を通り過ぎる瞬間、何気なくディスプレイに視線を落し、胸の奥にほんの僅かに芽生えた疑念――いや、不安はすぐに確信に変わる。
(シズちゃん……っ)
状況を整理する暇もなく、俺は部屋を飛び出した。


* * * 


走る、走る、走る。
シズちゃんは部屋着のままのくせに、足元はいつも履いている革靴という変てこな格好だ。何度も足を縺れさせ歩道も車道もお構いなしにひた走る様は、彼が焦っているいい証拠だろう。
(もう…だめ、限界……)
ガードレールをまたいで大通りを突っ切っていくシズちゃんの後ろ姿を見送って一旦足を止めた。
肌の表面から発汗できないこの身体では、これ以上は限界だ。体中の血が沸騰してしまいそうな程に熱くて、深く息を吸い込むと小さな肺が悲鳴を上げた。浅い呼吸を必死に繰り返して、なんとか息を整え終えた俺は再び走り出した。
まごまごしている暇はない。彼の向かう先は分かっているが、いかんせん先に目的の建物に入られてしまったらおしまいなのだ。人間の手足を持たない俺では、満足にエレベーターのボタンを押すことも、インターフォンを鳴らすこともできない。
何より、あんな顔をしたシズちゃんを一人にしておくことなんて出来なかった。
浅く途切れ途切れの息を吐き出しながら、がむしゃらに進む。傷つけた足の裏がひりひりと傷んだが、構わず走り続けた。


(……シズちゃん!)
ようやく目的の建物まで到着すると、俺の目はすぐさま見慣れた金髪を見つけ出した。マンションの入り口でぐったりと蹲っているシズちゃんの背中に、とっさに呼びかける。もちろんその声は猫の鳴き声でしかないのだけれど。か細い鳴き声に敏感に反応した彼は、びくりと肩を震わせた。
「…お前――何でここに……」
顔を上げたシズちゃんの顔にはびっしりと汗の玉が浮かんでいる。
「……ついてきてくれたのか?」
足元に頭を擦り付けると、彼は弱々しい声で呟いた。抱き上げられて腕の中にすっぽりとおさまると、シズちゃんの鼓動や体温がダイレクトに伝わってくる。それだけではない。その腕が小刻みに震えていることも、覗き込んだ表情がひどく苦しそうなことも。
何もかもがとてもリアルに感じ取れて、俺まで息苦しさに包まれた気分だった。
街道沿いに立ち並ぶ高級マンションの一角。見上げた窓はどこも明かりが消えているが、高層階の一室にだけオレンジ色の明かりが灯っていた。
小さな猫を抱えたまま、シズちゃんは無言でエントランスへと足を踏み入れる。さほど広くはないフロアの大理石製の床は、どこもかしこもぴかぴかに磨き上げられていた。
「……お前を連れてったら、新羅の奴にキレられるかもしれねぇな」
そうぼやきながらも、シズちゃんは俺を手離そうとはしなかった。まるで幼い子供が不安を紛らわせるためにぬいぐるみを抱きしめるかのように。ぎゅうぎゅうと締め上げられる身体は痛かったけれど、俺はじっと耐えた。


* * * 


「やあ、……早かったね」
恐らく玄関先で待ち構えていたのだろう。インターフォンを押すと、ロックを外す気配もなくドアはすぐに開いた。相変わらず冴えない顔をした俺たちの昔馴染は、一人と一匹を玄関先に迎え入れ憔悴しきった顔で笑った。
玄関先から部屋の奥を覗くと、リビングへと続く短い廊下には首無しの姿もある。言葉を発する事ができない――ましてや表情も、それを映し出す顔すら持たない彼女は、それでも全身からシズちゃんを労わるオーラを滲ませているようだった。
俺達は、ぱたりぱたりとスリッパを鳴らしながら歩く新羅の背中に黙って続いた。
「ところで、その猫は何?」
「……勝手に付いてきやがったんだよ」
淡白な口調で紡がれた答え。その声は、普段の彼からは想像も付かないほど低く淀んで響いた。
「君は昔から動物に好かれるね」
「……動物には、な」
白衣を纏った猫背がちな背中越しに、新羅がほんの少し笑った気配が伝わってくる。
けれど、シズちゃんは笑わなかった。
リビングの奥、普段は新羅の寝室になっているであろう部屋の前までくると、彼は少し躊躇った様子でドアノブに手を伸ばし、改めて背後のシズちゃんに視線を向けた。
「大丈夫だ。別に…もう、暴れたりしねぇよ」
「うん、分かってる。……そうじゃなくて――」
「……平気、だから」
自らに言い聞かせるように低く呟くシズちゃんを見て、新羅は小さく溜息をつく。
「静雄、君の…君だけのせいじゃないんだ。だから……」
「だから、自分を責めないでおくれよ」
消え入りそうなか細い声で紡がれたその言葉に、シズちゃんは何も返さなかった。


静寂が耳に痛い。
さすがの俺にも、もう今この状況がどういったものか理解できている。本当はシズちゃんの電話の相手を見た瞬間から、何となく覚悟はしていたつもりだ。
がむしゃらに走る彼の背を追いかけているうちに、それは確信へと変わっていった。
ただひとつ。
ひとつだけ、今の俺にも分からない事がある。


「臨也……」


通された寝室のベッドには、人間の俺が横たわっていた。




 



まさかのシリアス展開。


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