ハナ
帰宅ラッシュ真っ只中の時間帯に、駅の改札口で立ち止まれば迷惑にしかならない。当然後ろから次々と来る人たちに舌打ちをされるが、それを耳にとらえていても俺は動けなかった。
視線の先に立つ、何の変哲もない無地の黒いキャップを目深に被った、Tシャツにデニムという軽装の男から目を離せない。
「なんで……」
キャップの下から見えた切れ長の瞳は、鋭く俺を射抜いていた。
男は今をときめく超人気お笑い芸人『ハナミズキ』のミズキ。一年前の今日、俺から一方的に別れを告げたコンビの相方だった。
*
*
「お前、マジで何考えてんだよ……」
なんとか止まった時間を無理やり動かし慌てて改札口から離れる。変装していても目立つ風貌の男をそのままにしておけず、渋々ではあるが自身のアパートまで元相方のミズキこと水樹を連れて帰った。
水樹の容姿はモデルだとか俳優だと言われた方がしっくりくるほど整っていて、とてもお笑い芸人をやっているようには見えない。だがこう見えて彼は生粋のお笑い好きで、その考え方はかなりストイック。やりたいのはお笑い一本なのだと、他の芸人たちなら喉から手が出るほど欲しがるドラマや映画出演のオファーを全て断っている。
だからその顔をテレビで見かけるのは専らネタ番組ばかりで、メディアへの露出度はあまり高くない。
「どういうつもりだよ、お前!」
頭を抱えて叫ぶ俺に、水樹はいつもの澄ました顔で言う。
「お前が言ったんだろ」
「はぁ!?」
「ちゃんとよく考えろって、花が言ったんだ」
その台詞に俺は今度こそ言葉を失う。まさか、コイツ……。
『よく考えろって、どのくらい?』
『はぁ? そんなん知るかよ! 一年くらいじゃねぇの!?』
「だから一年考えた。でもやっぱり、俺の考えは変わらない」
「考えって、だからってお前……」
【人気お笑い芸人『ハナミズキ』のミズキさんが、本日付で所属事務所を退職し、芸能界からも引退するとの発表がありました。一年前に相方のハナさんが引退されてから、コンビ名をつけたまま一人で活動されていましたが、まさかこの人気絶頂のいま───】
テレビをつければ、どの局も水樹の話題でもちきりだった。
水樹とはお笑い養成所の同期として出会い、俺はピン、水樹はコンビで活動していた。
性格的にはかなりの変わり者ではあったが彼の作るネタは本当に面白くて、彼の人気は相方が決まっているにもかかわらず先輩や後輩からも自分とコンビを組もうと誘いがかかるほど凄かった。
しかしなかなか彼にしっくりいく相方は見つからず、組んでは解散し組んでは解散しを繰り返す。そうして水樹は確かに疲れて、病んでいった。
そんなある日再びコンビ解散を迎えた水樹の表情に俺は、彼が芸人になることを辞めてしまうかもしれないという焦りにかられた。
せっかく神に与えられた凄い才能をもってるのだから、絶対に諦めないで欲しい。そう思った俺は、意を決してそれを彼に伝えにいった。水樹と会話したのはそれが初めてのことだった。
延々と作るネタの精度の凄さを本人に語り尽くしたあと、一言も言葉を発していない水樹に気付き血の気が失せる。
『ごっ、ごめんな! 勝手にベラベラしゃべって! でもどうしてもこれだけは伝えたかったんだ! じゃ、じゃあな!』
そう言って慌てて彼の前から去ろうとした俺の腕を、水樹が掴み引き留める。
『俺と組んでくれないか』
『えっ!? いやでも、俺はピンで……』
『俺の人生にはお前が必要だ。この先もずっと、俺と一緒にいてくれ』
その日俺はイエスと答えるまで延々と口説き落とされ、彼と組みたいと列をなす奴らを一瞬で飛び越して水樹の相方になった。そこから、俺たちは凄い速さで成功への階段を駆け登っていくことになる。
はぁーっと重いため息を吐いて頭をかかえる俺に、水樹はまるで駄々をこねる子供を見るような目を向けて言う。
「もう今更何言っても手遅れなんだ、悩むなよ」
「お前なぁ……」
「あ、俺もここに住んでも良いか? 実は今日から無職で更に宿なしなんだよ」
「お前なぁ!」
丁度一年前、俺はコイツに別れを告げた。苦しんで苦しんで、苦しんだ末の決断だった。瑞樹に話す前に事務所に話をつけて、もしも水樹がゴネても話を押し流せるように先に準備していた。
案の定水樹はゴネたし、お前が辞めるなら自分も一緒に辞めると言い出した。でもそれでは俺が辞める意味がなくなってしまう。
俺は、なんの足枷もなく水樹に活躍して欲しかった。
コンビを組んだ当初から、水樹の隣は誰になっても成立する、水樹が凄すぎてキュウリやナスでも相方が務まると芸人仲間から俺は揶揄されていた。
賞レースで準優勝してからはそれが顕著で、スタッフにもファンにも『じゃない方の奴』や『相方の才能のお陰で食ってる奴』なんて言われ、コンビ名にガッツリ名前が入っているにもかかわらず俺自身の名前を覚えてもらえない。
『キミだれやっけ?』
『ミズキのバーターか!』
そんな弄りとも嫌味ともとれる言葉を本番中に吐かれることも少なくなかった。だがそんな空気の中それでもまだ耐えていられたのは、水樹が俺を必要としてくれて、相方は俺じゃないとダメだと言ってくれていたからだ。
必要とされていると思っていた。水樹さえそう思ってくれていれば、それで俺は隣に立っていられたのだ。でもあっという間に仕事は水樹のピンばかりに変わっていって、単体で出た大喜利でも活躍する相方の姿に自分の必要性を感じられなくなった。
給料はピンの仕事もコンビの仕事もふたりで割っている。
『本当にすまん……俺、全然稼げてないのに』
給与明細を見て言った俺に、水樹がとどめを刺した。
『気にすんな、これからも俺が稼いでやる』
その言葉がどれだけ俺を絶望させたか、水樹は知らない。その言葉が、芸人を辞める決意の背中を押したことも。
俺は寄りかかり楽をしたかったんじゃない。俺は水樹の……相方の隣に堂々と立っていたかったのだ。
「信じらんねぇよ。お前がこんなに考えなしだとは思わんかった」
「一年も考えたんだ、考えなしなんかじゃない。大体、花が分からずやなんだ。俺はお前じゃないとダメだと最初から言ってたし、それに承諾したのは花だろ」
「あの頃とは状況が違うだろ!? それに相方が欲しいなら、水樹と組みたい奴なんてほかに幾らでもいるじゃねぇか!」
「他と組んでなんの意味がある? それこそ何度言ったらわかるんだ」
「だから……!」
何度言われたって、俺じゃなきゃいけない意味なんて少しも理解できなかった。だって俺のように相槌を打つ奴も、ツッコミを入れるのも、タイミングを練習すれば誰にでもできる。俺にしかできない価値なんて少しも持ってやしないのだ。
「お前の言ってること、全然分かんねぇよ……俺以外とでも、いや俺以外とだったら今度こそ賞レースで優勝できるだろうし、水樹の力があればお笑い界で絶対トップになれるんだよ!」
でもそこに、俺は必要ないのだ。水樹は俺以外とだって売れることはできるし、むしろここまで来たら一人でもずっと成功していくだろう。だが俺はそれでは嫌なのだ。
コンビを組んだのなら、相方ありきでありたい。でもその力が自分に無いことなどちゃんと自覚している。だからこそ……だからこそ苦しみ抜いて水樹の隣の席を空けたのに。
「分かってくれよ、もう俺にはお前の相方を務めるのは無理なんだ。これ以上俺は自分のことを嫌いになりたくないし、お前の足枷にもなりたくない!」
そう叫んだ俺に、水樹が珍しく声を漏らして笑う。
「なるほど、そこからか」
「なにが?」
「花は最初から間違ってる」
「だから何が!?」
流石にイラついて声を荒げた俺の頬に冷たい手が添えられ、気づけばそっと唇を重ねられていた。
触れるだけで離れたそれを思わず目で追う。まるで金魚になったみたいに言葉が出ないままハクハクと口を動かす俺を、近いところで止まった綺麗な顔がジッと見下ろしていた。
「……な、っ」
「お笑いの相方が無理なのはもう分かった」
「じゃあ、」
「でも俺が望んでるのはそういうことじゃない」
そう言ってもう一度ゼロ距離にしようとする水樹の顔を両手で押しとどめる。
「待て待て待て待て待て! なにすんだ!?」
「五年前、俺は花にプロポーズしてる。それを承諾したくせに、今更俺を拒絶するとか酷すぎる」
「は!? いやおまっ、プロポーズてコンビの」
「コンビはオマケでついてきただけだ。ちゃんと俺は、俺の人生に花が必要だって言った」
「え、そんなこと言ったか!? 言った気がする……いやいやいやでもそんなん分かるわけないだろ!? 大体お前お笑いにめちゃくちゃストイックでそれ以外のことなんて……うわっ!?」
───ガブッ
綺麗な顔を押し退けていた手はしっかりと水樹に外され、喚く口は喰われるようにして塞がれた。
「ンう"ーー!?」
さっきの触れるだけの優しいものとは程遠い、獣のような荒さで口内までしっかりと荒らされ、解放されたときにはもう息も絶え絶えになっていた。
「お笑いは好きだ。でも人生に必要なものではない。五年前、花が疲れ果ててた俺に話しかけてくれたあの日、俺の人生に必要なものが見つかった」
「は……?」
「俺の面白い面白くないの価値観、やりたいこと、やりたくないこと、楽しいこと、楽しくないこと、伝えたいこと全てを俺のネタからあんなにも正確に読み取ってくれたのは花だけ。花に惚れるのは、あの日話した十五分で十分だった」
「ホレ……」
「心底惚れてる」
しっかりと俺を見つめるその切れ長の瞳は、五年前のあの日の色をしていた。俺の顔は熱が出たみたいに真っ赤に染まる。
「ま、まじか」
「まじです」
「あれがプロポーズとか……普通分からんだろ」
「伝わってると思ってた」
「伝わるわけねぇわ」
「今はもう伝わっただろ? 俺は花に人生の相方でいて欲しいんだ。一緒にいられないなら芸人をやってたって意味がない。一緒にいられるなら、どんなことだってやっていける」
俺は深く深く息を吐く。信じられないことが起きてる。まさか日本中の女性や、はたまた同性すら虜にするような容姿をもつやり手の男が、まさかオマケにもならないような男の元に落ちるだなんて。
「水樹さ……」
「ん?」
「俺が昔給与明細見て謝った時、俺が稼いでやるから気にすんなって言ったの覚えてるか?」
「んー? ああ、確かに言ったな」
「あれってもしかして、相方として俺が必要無いって意味じゃなくて」
「嫁を養うのは夫の務めだろ」
「嫁じゃねぇけどなー!?」
信じらんねぇー! 俺の悩みって一体なんだったんだ……。苦しみのとどめを刺した言葉がまさか愛の言葉だったなんて、誰が思うだろう。俺は今度こそ全身から力が抜けて床に大の字になって寝転んだ。
「分かった。もう水樹に芸能界に戻れなんて言わない」
「それは良かった。この一年地獄だったからな」
水樹にとって必要のない世界にいることは、それは確かに地獄だっただろう。水樹の為だと言いながら俺は自分のためだけに動き、結局水樹を苦しめたのかと思うと情けなくなった。
「水樹、悪かった」
仰向けに寝そべったまま、潤む瞳を腕で隠して言う。その上に、俺を閉じ込めるように水樹が覆い被さる。
「分かってくれたならそれでいい」
俺に重なった水樹の手が俺を抱きしめる。まさか、人生の相方として求められてるなんて思いもしなかった。考えもしなかった。驚いた。
「これから、ちゃんと考えるから」
「えっ」
せっかく真摯に向き合おうとしているのに、水樹の口からは驚きと不満が混ざった音が出た。
「えって何だよ」
「…………もうゴールインしたと思ってたんだけど」
そう言って、俺の服の裾から手を差し入れてこようとした男の頭を加減なく叩いた。
「いでっ」
「言っとくけど! 俺はお前を恋愛対象として見たことは一度もねぇからな!!」
「ゲーーーーッ」
げーて! これだから性別関係なくモテまくってきた奴は嫌なんだ。受け入れられるのが当たり前だと思ってる。
「オラ、どけ変態! 勝手に触んな!」
いつの間にかしっかりと服の中に入っていた不埒な腕を引き抜いて、自身の体の上から水樹を押し退ける。無造作に床に転がった水樹は、だけどとても嬉しそうだった。
「とりあえず、仕事と家が見つかるまではここに居ていいから」
「ありがとう花。一緒に暮らそうって言ってもらえるように、頑張って口説くから」
「は!?」
ふわりと柔らかく笑う水樹に思わず不整脈を起こす。
「落ちるのも時間の問題かな」
「ふざけんな、難攻不落の花様をナメんなよ!」
そうして俺のハリボテ防御壁は、見事半年もかからず落とされるのである。
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