▼ チェズレイとクリスマスを過ごしたい @
※理由あってネームレスです。
※ゲーム本編や隠し要素、ドラマCD3作目までのネタバレを含みます。
そういえば、今、世間はクリスマスホリデー一色なのでは?
大きな木々に彩られる鮮やかな電飾たち。眺める年代様々な島の人々。…以前より増えた和服の人々だっている。
今月に入ってから外に出ればその調子だから、オフィスとはいえ殺風景な事務所にも何か飾り付けをしようかと、ナデシコさんに相談をした。
「勿論良いとも、アンの好きなように飾ると良い」と快諾を貰って、意気揚々と買い出しをこなして、少しの電飾で華やかさと、少しの手芸用わたで雪を演出した。
せっせと飾り付けに勤しみつつ、しかし仕事場でもあるわけだから、あまり浮かれすぎないように。
わたの量はこれぐらいかな、と、一度手を止めて少しを距離をとって飾り付けてる箇所を眺めていた時、いつの間にかその様子を見ていたナデシコさんが口を開いた。
「アン、急で悪いが、今月の二十日からクリスマスまでに予定はあるか?」
「はい?」
予定とおっしゃいましても、ほぼ居候の私にそんな時間はないのでは?
どこか出かけるくらいなら、ここの掃除なり事務仕事なり、なんでもやりますが?
という顔で、ついナデシコさんの方を見てしまった。
そして、楽しそうに笑われた。…いつもよりナデシコさん自身も楽しそうに見える。
「はは、すまない。少し意地の悪い質問だったな」
「その数日間に、何かあるんですか?」
「ああ、そうだな。ささやかなクリスマスプレゼントといったところだ。アンに喜んでもらえるかどうかは、わからないが」
「はぁ」
話の要領を得なくて気の抜けた返事をしても、ナデシコさんの笑顔は変わらない。
「久々の再会といこうじゃないか。ろくに手紙のやりとりくらいしかしていないのだろう?」
「………………」
ナデシコさんはやっぱり意地が悪いんだよな。
大して友人のいない私が手紙のやりとりをする相手なんて、一人しかいないことを知って言っているんだ。
私がミカグラ島に来てから、早いもので二年弱が経った。
いや、厳密に言えば来たというよりも、意識が戻ってから二年弱、だ。
私の最初の記憶は、赤ん坊の頃に母親に抱きしめられているものでも、印象的な乳児期の体験でも、些細な子供の日常でもなんでもない。
病院のベッドの上。目を覚ました時の白い壁と、薬品の匂い。
年明け早々、砂浜へ打ち上げられているところを、病院へ担ぎ込まれたという。
何故、記憶を失っているのか。私は何故、海から打ち上げられたのか。どうしてここにいるのか。私は誰なのか。
原因は結局、今の今まで解明されず、私にはそれ以前の記憶がなかった。
自身のことが、名前すらも一切わからない。挙げ句の果てには、私の身元を知っている人間が誰一人としてこの島にはいない。
やれ、恋人と心中しようとして生き残ったけど記憶を失ってしまっただの、三文小説ばりの噂を病院関係者に囁かれもした。居心地がいいってもんじゃない。
幸い、体そのものは海水を飲みすぎた以外の目立った後遺症も無く、目が覚めて一ヶ月ほどで退院するように言い渡された。
それはいい。結構なことだ。健康体であることには感謝だった。
だが、自分のことがわからない女が一人、知らない土地へ放り込まれて一体どう生活していけばいいのか。名前すらわかんないんだぞこっちは。
途方に暮れて病室のベッドで物思いにふけっていた時期もあった。だが、そんな夢想をしたところで解決はしないのだから、と開き直って自分の名前でも考えていた頃だった。
病室に、知らない男が二人、訪ねてきた。
ロングコートが印象的な犬顔の男と、それ服の意味あるのかとツッコミたくなるようなビリビリシャツを着た粗暴そうな男。
最初、私を知る人物が現れたのかと喜んだものだが、残念ながらぬか喜びに終わる。
簡単な世間話も早々に、彼らは言った。「貴女の首にあるアザについて聞きたいことがある」と。
目立った怪我がほとんどなかった私の体の中で唯一消えなかったのは、首に黒々と残るアザだった。
「本当に来ないつもりか?」
「……なんだか熱っぽくて。風邪をうつすわけにもいかないですし。すみません」
どこぞの高級レストランを参加人数分予約をしたと聞かされた時にはヒヤッとしたが、人数が一人減ったところで大丈夫だという。
予定を狂わせて申し訳ないという気持ちも確かにある。けど……。
「体調不良なら仕方あるまい。そう遅くならない内に帰ってくるつもりだが……」
言外に、お前は夕食どうするのかと聞かれている。
「そんな食欲もないですし、適当に済ませますよ。大丈夫です」
「そうか。では、行ってくるぞ。留守番をよろしくな」
「はい」
ナデシコさんは澄ました表情をしている。けど、多分、こっちが仮病であることはわかっているだろうなぁ。
上品なコートを翻して、ナデシコさんはオフィスを後にした。
ポツンと残され、一人。今のオフィスはいつも騒がしいわけではないが、たった一人しかいないやはり室内は静かだ。
このリビングに男数人が箱詰めになって騒がしかったあの日々が懐かしい。
渦中はそれが日常だったというのに、今ではすっかり懐かしむ非日常になってしまった。
彼らと顔を合わせなくなって一年以上は経ったか。
彼らを嫌っているわけでも、憎んでいるわけでもない。負の感情は一切ない。
しかし、今の私の心境としては、あまり会いたくなかった。それが本音だった。
仮病を使ってまで、避けるくらいには。
来たるべき十二月二十日。
今日の昼を過ぎた頃には四人全員空港に到着するそうだ。
かの大事件に関わった者で、再会のディナーを催している。
会いたいか、会いたくないかで言えばもちろん会いたい。
ただでさえそれぞれが忙しく世界中を飛び回っている中、全員が同じタイミングでミカグラに集まり休暇を過ごせるなんて、今後いつそんな機会に恵まれるかわかったもんじゃない。
今日のような日が来ることを待ち侘びてすらいた。
それなのに、やっぱり、私は彼らに会いたくない。会うべきでは、ないとわかっている。
私はくだんの大事件に関わったようで、実際のところは関わっていない。
彼らが接触してきたきっかけこそ、私の首にあるアザが事件の重要な手がかりではあった。
そのネズミ型のアザが一体何なのか。真相がわかっていく過程で、私すら違和感に気づく。
私の首にあるアザは、決してネズミ型ではなかったのだから。
捜査や潜入の進捗を傍らで見ていた。自分に手伝えることは、彼らの日常をサポートする家政婦のような働きだけ。歯痒くはあったが、なんの取り柄もない一般人の私には最大限の協力だった。
身寄りがないうえに怪しさすらある私を、家政婦として雇ってくれたナデシコさんには頭が上がらない。
そうして近くで事件の真相を見守っていく中で、私は一切の手がかりにもならなかった。
……事件にはまったく関係のない、ただ首にアザがあるだけの記憶喪失の女というだけの話だ。
別にそのことを責める人は誰もいない。そんなことを思う人たちではない。
私が無関係のただの怪しい記憶喪失ということだけがわかって、だが、それ以上でもそれ以下でもない私を、ただただ一人の人間として接してくれていた。
そうして、私は何もしないまま、何も知らないまま、事件は彼らの手によって幕を閉じた。
未だに私は、自分が何者なのかわからないでいる。
しかし、どうしようもない。どうしようもないから、その後もずっとナデシコさんの元で世話になり続けている。
彼らのおかげで、傷付きもしたミカグラ島の住人たちが新しい一歩を懸命に踏みしめるこの場所で、私は日々をのうのうと過ごしている。
こんな自分が、目標を持って直向きに歩き続ける彼らに向ける顔なんてあるのか?
一度でもそう思ってしまったら、とてもじゃないが、彼らに会おうとは思えなかった。
この後の数日間はオフィスで寝泊まりするらしいから、再会がたった数時間後回しになるだけの逃避だったとしても。
リビングから自室に戻り、机の引き出しに入る数枚の手紙を取り出す。
華美な黄金の装飾が描かれている深い紺の封筒。その端に、差出人の名前だけが滑らかな筆跡で記されている。文字すら、彼の端麗な容姿を表しているかのようだ。
中には、彼の近況やこちらの様子を気遣うような内容の便箋が、一度に三枚ほど。
文字の読み書きもおぼつかなかった頃に比べて、今では比較的流暢に読めるようになった。
あの人の野望や行動などを踏まえると、彼の活動を形に残しておくのは様々な危険がつきまとうのでは、と心配してしまう反面、どうしても、捨てられないのだ。
手紙に触れる。当たり前に、紙の手触りが指先に伝わる。
彼が、わざわざ私のために、時間を割いて、綴ってくれた言葉を。なかったことには、したくなかった。
読み返すわけでもなく、机の上に広げた手紙を、眺めていた。
そして思い出すのは、手紙の内容ではない。数ヶ月前に個人端末のメールフォルダに届いた、彼の用心棒からの近況報告。
彼の故郷にて、彼にとっては大きな大きな心の棘が、取り除かれた。と。
詳細な内容はかなり濁されて書かれていた。それが、彼の身に降りかかった暴力の苛烈さを意味していた。
またこの人は、自らの心身をどん底に傷つけてまで野望への一歩を踏み出している。
……そんなことは、手紙の中にはたった一文字すら書かれていなかった。絶対に、彼にとっては大きな心境の変化だっただろうに。それを、私にはまったく……。
これは、明確な線引きだ。
彼のパーソナルスペースには入り込んでくるな、という。はっきりとした。
私なんぞに知らせる必要は、微塵もないんだ、と。
本人の優美な筆跡で知らされなかったという事実に、まず感じたのは寂しさ、悲しさ。そして、一抹の安心感だった。
ああ。私は彼にとって、特別でもなんでもない、とるに足らない存在なのだ。
彼にとって私は、そこらを歩く関係値の存在しない他人との距離感となんら変わりのない人間。
だから、もはや接点の薄い彼らを羨んで、自分を惨めに感じなくて良いのだと。
それまでは、手紙が来るたびに彼の仮住まいだという某国へと返事を送っていた。が、その事実に気づいてからは、書くことをやめた。
顔を合わせなくなってから、早ければ一ヶ月に一通ほどのペースで送られてきていることにも、違和感はあったのだ。多忙なはずなのに、その割に手紙の量が多過ぎる。
性格に難ありまくりなのに律義者だと称される彼のことだ。こちらが返事を書くなんてことをするから、律儀に書いてくれているのだ。
私は、彼の性分を利用して与えられる手紙を、大事に、大事に保管している。
食欲がないのは本当なので、夕食を摂らずに自室にこもっていた。
その内、みんなここへ帰ってくるであろう。……やはり顔を合わせるのが気まずかった。
嘘のつもりだったのに、本当に体が重くなってきた気がする。病は気からというけど、思い込みだけで具合が悪くなるのは勘弁してほしい。
あらゆることへのやる気が皆無になってしまったので、机の上に手紙を放置してそのままベッドへ横になった。
部屋の電気を全て消してしまえば、病んだ女の部屋の完成だ。
寝るにはずいぶん早い時間だし、眠気もない。布団にもぐりこんでも結果は同じだった。
ふと、扉の先の先で、複数の人の声が聞こえる。
……帰ってきた。みんな。揃って。ああ、みんないるんだ。扉の先に。全員無事で。
目頭が熱くなる。顔を合わせてすらいないのに。感情が重過ぎるだろ。
でも、今の私は風邪をひいている設定なので、体を起こそうとは思わなかった。
明日、朝、目覚めたら、このネガティブな気持ちが消えて無くなっていて欲しい。
彼らと顔を合わす時は、笑顔でありたい。
短い期間だったけど、家を守る者として。そこだけは。
涙を瞼の裏に閉じ込めて、寝返りをうつ。体を壁側に向けた。
その瞬間、何故か視界に入る部屋の壁に、扉から漏れた光の筋が当たった。扉が開かない限り、この部屋に光が入るなんてあり得ないのに。
なんで!? と驚く間もなく、反射的に目をつむる。心臓が緊張で高鳴る。
背後で扉の閉まる音もする。そして人の気配も。
……そういえば、長らく自室の鍵を閉めるという習慣がなかったせいで、さっきも鍵を閉めた記憶がない。
だからといって、腐っても女性の部屋に無断で入るか!? ノックも無しに!?
体が少しの怒りで震える心地だったが、そんなことしたら死活問題だ。今の私は具合が悪くてベッドですやすやなのだ。
気配は、ベッドの脇にある机の明かりを付けた。部屋の壁がほんのり明るくなったのを薄目で確認する。
「鍵をかけていないだなんて、女性ともあろう貴女が、不用心ですよ」
そうは言うけども勝手に開けて入ってきたのは誰だー! と、叫びたい。
でも、それ以上に。
「体調が芳しくないと聴きました。あァ、なんと、間の悪いお人だ……」
久しく聞いていなかった声。
この声の主は、紛れもない、男性の声。その割に艶やかな音。……チェズレイさんだった。
「寝込む程に症状が重いわけではないと、ナデシコ嬢は仰っていましたが、いかがです?」
寝たふりをしていることはバレてないはずなのに、まるで私が起きているかのように話しかけてくる。
本当は狸寝入りがバレているのでは。怖い。今はその鋭い洞察力をしまってほしい。私は寝てますよー。
そして、彼の指が私の頭部にゆるく触れた。流れるような指先で髪をすかれる。
熱すぎない人の温もりが、私の体の一部に触れている。その相手がチェズレイさんだと思うと、そわそわする。緊張のために忙しない鼓動が、別の意味を持ちそう。
な、な、何してんだこの人!? 人の寝込みに!!
脊髄反射で体が強張るが、仕方ないだろう。こっちがどんな気持ちで享受してるか、察しないチェズレイさんが悪い。
「我々の個室、先程あがりましたよ。随分と、綺麗に清潔になさって頂いていたようで。痛み入ります」
ああ。そうですね。当然ですよ。それが私の仕事なので。
唯一、貴方に、貴方たちにこんな私がほどこせることなので。
彼らがこの島を去ってからも、彼らが生活していた個室が綺麗さっぱりなくなるわけではない。いつ、彼らが帰ってきても大丈夫なように、清潔に保っておくことなど、私からしてみれば造作もないことだった。
チェズレイさんの指が、ついに離れていってしまった。……しまった、ってなんだ。そんな、残念がってるみたいに。
「…………」
ふと、近くにあったはずのチェズレイさんの気配が遠のいた。そして、しばしの沈黙。
果たして、この人が寝ている妙齢女性の部屋に勝手に立ち入った理由が未だにわからないのだが、そんなことはどうでもいいから早く出ていってほしい。何考えてるんだ本当に。
少し間を置いてから、チェズレイさんはまた私に近づいたらしかった。
「明日には、久しぶりにその明朗な表情を私に見せてくださいね」
貴女とは、直々にお話したいことが、これには書ききれない程にあるんですよ。と。
チェズレイさんと出会ってから、最も近い距離で彼の声が耳に吹き込まれた。
心臓が暴れまわって、つい肩を震わせてしまった瞬間、再びチェズレイさんの指先が髪に触れ、耳元へ髪をかけられた。
そして。
は? 何? 今の音。めっちゃ耳元で鳴ったけど?
混乱から体を起こしそうになるのを堪えながら、必死に噛み砕く。今、私の聴覚に伝達された音は、一体誰がどうやって発した音なのか。
チェズレイさん、今、私の耳元というかこめかみ辺りにキスしました?
そう聞けたらどんなに良かっただろうか。
脳内が大混乱、パニックで思考がぐるぐるしている内に、原因の男はいつの間にか部屋を出ていったようだった。
なん、だったんだ。今の。全部。どういうこと?
誰もいないことをいいことに、被っていた布団をめくり上げて上体を起こす。
また、ただの病んだ女の部屋と化していた。
そうだ。いつの間にかまた真っ暗な部屋に戻っている。机の明かりが消えていた。
唇を落とされた部分に手が伸びる。ここから体全身に熱が注ぎ込まれたような感覚。
音もやばかったけど、チェズレイさんの唇、柔らかかったな……。
そこまで思い出してから、恥ずかしさに脳が焼き切れそうになったので、また布団を被って丸まった。
寝込みになんてことをするんだあの男。一体どういうつもりなんだあの男……!
悶々としている内に、いつの間にか意識を手放して、眠ってしまったようだった。
夢を、見ている。
懐かしい景色。これは、私の過去の記憶だ。
オフィスに置いてあったピアノ。それを巧みに弾くチェズレイさん。
それを見ていて、私は懐かしい感覚が湧き起こった。記憶がほとんどないというのに。ピアノを弾いている姿を見て、懐かしく、感じた。
あれ? 私も昔、うんと幼い頃に、ピアノに触れていた気がする。と。
朧げな記憶な上に、チェズレイさんのように人を惹きつけられるような技術もない、と思う。だから、誰もいないタイミングを見計らって、こそこそと鍵盤に触れていた。
白い鍵盤に、指を沈ませる。押す。音が出る。振動に体が震える。
この鍵盤にはこの指を。こっちを奏でた後にあっちを。右の手と左の手で、別の動きをする。
記憶というには不鮮明で、頭の奥底にあるのかもわからない。でも、指は動いたし、ピアノは鳴った。
曲名もわからない、短いが一曲をたどたどしくも弾き終えた頃。背後から手を叩く音が聞こえた。
「貴女も嗜みがあったのですねェ。驚きました」
こんな、子供の方が上手く弾けそうなレベルで、演奏と言うにはお粗末なものを上手い人に聞かせてしまって、恥ずかしさで顔が熱くなりながらも、私は嬉しかった。
思い出せなかった記憶が、思い出せるかもしれない。
記憶を思い出したというより体が覚えていた、という方が近いのかもしれない。
でも、私には、思い出せないだけでちゃんと過去の記憶が残っていたのだ。
恥ずかしさで赤くなった顔が見られたくなくて、手で顔を覆った。
頬どころか、目頭さえ熱かった。
チェズレイさんの手が私の肩に触れた。初めて、この人に触れられた気がする。
まだ、夢を見ている。
これも、過去の記憶。
長かったようで、でも実際のところは一年も経っていない、そんな戦いに遂に決着がついたらしい。
決戦の地となったあの場所で。海のど真ん中で。これまで決して渦中には立ち会わなかったというのに、こういう時だけ私はそこで、みんなと共に立っていた。
彼らのためなら、私一人の命くらい、犠牲になったって構わないと思っていた。
どうせ生きていたって、存在しているんだかよくわからないこの人生。もし、命に価値が見出せるのであれば、私の場合はその働きではなく、燃え尽きる瞬間しかないだろうと。
だけど結果的に、私は生き延びていた。彼らを生かすためになげうったこの命は、私よりも重い覚悟を背負って命を賭した彼によって助けられたようだった。……そのことがわかったのは、少し先の話なのだけども。
「私は、貴女のことを少々見くびっていたのでしょうね」
メテオフロートの最上階で。潮風を全身で受けながら。
あらゆる安堵感から身体中の力が抜けてしまって、その場にへたり込んでいた私を、チェズレイさんはしっかりと腕を掴んで起こしてくれた。
「見くびるも何も、私にはあんなことしかできませんよ」
「ええ。そうでしょうね。しかし、」
いつの間にか汚れていたらしい私の頬を、チェズレイさんの手が強く拭った。
ああ。今、手袋してないのに。それじゃあ手が汚れてしまう。
「自らの命をいとも簡単に手放す判断ができるとは、考えもしなかったのですよ」
「あの時は、それが最善だと思ったので」
「よりにもよって貴女には、そのような選択をさせたくはなかったし、そんな姿を見たくはなかった…」
頬に触れていた手は、いつの間にか背中に回されていた。そして、そのまま体同士が密着していた。
抱きしめられている。チェズレイさんに。体の凹凸がすべて噛み合うように。
とくとくと控えめな心臓の音が聞こえる。私のも、チェズレイさんのも。
生きていることの証明。死んでいないことの証明。二人とも。死ななかったんだ。
「私が囮になるところ、見たくなかったんですか?」
「……ええ」
首元からくぐもった声が聞こえる。吐息が肌に触れて生暖かかった。
「でも、ちゃんと私を囮として活かしてくれたんですね」
「……ええ」
あの瞬間、何が最善で何が合理的だったか。
私は足りない頭で導き出したし、チェズレイさんだって容易くわかっていた。だから、私は囮になったし、チェズレイさんは私を囮にした。やっぱり、私は死ぬ覚悟だった。
そうか。どんな時でも最善を選べる冷静なチェズレイさんは、効率やらを度外視して私が死んだら悲しかったのか。そうか。
胸の奥が熱い。苦しい。喉の奥が詰まる。言葉をかけたいのに、何も出てこない。
宙ぶらりんだった両腕を、チェズレイさんの背中に回した。そして今、力の入る目一杯でこの人を抱きしめた。強く。離せないように。離れないように。
「私の決断を、無碍にしないでくれて嬉しいです」
「お許しください。そんな決断を貴女にさせてしまった私を」
「許しだなんて、そんな」
私は、どういう形であれ貴方の力になれたことが嬉しいというのに。
口から言葉ではなく、目から涙が出る。止まらない。
「…あァ、まったく、貴女は本当に…」
優しい、優しい匂いがする。鼻を掠める。初めて嗅いだわけではないけど、こんな密な彼の香りは初めてだ。
チェズレイさん、香水とかつけてるのか。つけてそうだな。
爽やかなような、甘いような、ハーブの匂い。どぎつくなくて、好きだなあ。
息遣いで温まっていた首元が、少し寒くなった。チェズレイさんが離れたのだ。
頬に、綺麗な長髪が触れる。視界がチェズレイさんの目元でいっぱいになる。
あ、これ、キスしちゃう距離感だな。と、思ったのも束の間、ゆっくりと、優しく、唇同士が触れ合った。予期していたのに、顔を背ける意思は微塵もなかった。
意識が浮上する。ああ、夢から覚める。
朝がきた。
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