文章 | ナノ


▼ チェズレイとクリスマスを過ごしたい A

 おはようございます! すごく小っ恥ずかしい夢を見てましたね! やだもう!
 思春期の頃とかにいやらしい夢を見ると、こんな気分になるんだろうか。いや、私は思春期の頃なんて覚えてないんだけど。あはは。はぁ。
 真っ暗だった病んだ女の部屋には、窓から朝日が差し込む。気分も昨晩よりは明るい気がする。
 時間を確認すれば、早起きでもなければ寝坊というほどの時間ではなかった。
 流石に、これから数日間部屋にこもって顔を合わせないというわけにはいかない。
 腹をくくって、ちゃんと会おう。
 みんな、また無事に会えるとは限らないのだから。


「アン! 久しぶり! 風邪ひいてるって聞いたけど、気分はどうだ? 顔色は……悪くなさそうだけど」

 自室から出てリビングへ向かうと、身支度を終えたらしいルークがいた。

「ルークは元気そうで何より。…今日は昨日より気分がいいかな」
「そうか、なら良かった! 僕たちもまだ数日間滞在する予定だし、どこかで埋め合わせしよう」
「うん。そうだね」

 キッチンに立ち、冷蔵庫から水を取り出し、コップに注ぐ。そして飲んだ。

「お、嬢ちゃん。おはよう」

 今度はモクマさんがリビングへ降りてきたらしい。

「おはようございます。ご無沙汰しています」
「うんうんおはよう。大丈夫? しんどかったらいつでも言うんだよ。張り切って介抱するからね」
「あはは。そんな深刻な感じじゃないので、大丈夫ですよ。ありがとうございます」

 砕けた調子で言うモクマさんを見ていると、顔を合わせていなかった時間がまるでなかったかのようだ。
 ……もしかしたら、モクマさんには気付かれているのかもしれない。四人やスイちゃん、シキくんとは、一線を引いている気持ちが。この人は聡いから。

「アン。僕らこれからランチに行こうかと思ってるんだけど、君もどうだい?」

 あ、だから外に行くような格好してたのか。

「あー、いや。やめておこうかな。まだ食欲が戻らないんだよね」

 嘘である。今にも空腹でお腹が鳴りそうだ。

「そうか、残念だ」
「まあ、おじさんたち好みの店に若い嬢ちゃんを連れ回すわけにもいかないしね」

 二人はリビングから玄関へと向かう。
 一応、見送りのつもりで付いていった。

「いってらっしゃい。ルーク、モクマさん」
「はい、いってきます」
「いってくるよ

 ああ、懐かしいな。こうやって、いつも彼らを見送っていた。
 二人は私に変わらない笑顔を向けて、昼食に向かっていく。一度開いた扉が閉まる。
 と、思ったら、モクマさんが踵を返して戻ってきた。

「ん? モクマさん、忘れ物ですか?」
「アンちゃんさ、色々と思うところがあるのかもしれないけど、早めに会ってあげてね」

 一瞬、なんの話かと思考が止まったが、すぐに気づけてしまった。
 しかし、つい咄嗟にとぼけた表情を作ってしまう。反射的にそうしてしまったけど、悪手だった。これではあからさまにごまかしていることがバレバレだ。

「……誰にです?」
「はは。…これはおじさんのお節介だけどね、お前さん、自分が思っている以上に嘘やごまかしが得意ではないよ」
「………………」

 耳が痛い。何も言い返せずに、そして誤魔化すこともせずに苦虫を噛んだような表情を隠さなかった。
 誰に、なんて。浮かぶのは一人の顔しかないのに。

「嫌な気分に、させちゃってますかね」
「いんや。少なくとも、それで傷つくような可愛らしい心は持ち合わせちゃいないさ。俺も、あいつらもね」

 気まずいながらに、モクマさんの表情を伺う。モクマさんからの眼差しは優しかった。

「ま、人にはそれぞれ進むペースっちゅうもんもあるわけで、急かすつもりもないんだけどね

 軽い調子で、モクマさんは私の肩を数回叩いてきた。痛くはないが、いたたまれなかった。

「ただ、さ。みーんながお前さんのペースを待ってくれるとは、思わない方が良い」

 じゃ、そろそろいってくるねー。と。こちらの反応を聞かずに、出ていってしまうのだ。


 リビングに戻って、考える。私の何がそんなにうじうじさせているのか。
 そんなこと言ったって、そういう方向に考えちゃうんだからしょうがないじゃん?
 自己肯定感の低さなのか、劣等感の表れなのか。すべては自分に自信が持てないからなわけで。そしてモクマさんにはそれを見抜かれていて。
 いつも率先してヘラヘラしているように見えるのに、こういうところちゃんと見ててずるいんだよなーこの人。

「はーあ。お腹空いたなー」

 ソファーにふんぞり帰りながら、空腹を訴えて鳴いているお腹の辺りをさすった。
「ならドギー達と飯行きゃよかったじゃねぇか」
「うわぁ!」

 頭上の高い位置から低い声が飛んできた。驚いてソファーから少しずり落ちてしまう。

「びっくりしたぁ…。急に現れないでよアーロン」
「あ? お前がふぬけて気配すら察知できねぇだけだろ」

 気配て。そんな野生動物的な第六感をただの一般人小娘が持ってるとお思いか?

「うっさいなぁ。もう」
「はっ! うじうじ悩んでるテメェよりよっぽどうざかねぇや」

 この人たちは、揃いも揃って、こっちの気も知らずにズケズケとものを言う。
 そんなにわかりやすいか? そんなにうじうじしてるように見えるか?

「……うるさいよ、本当に」
「…………」

 気持ちが落ち着かない。心がずっとざわざわしている。図星を突かれて当たってしまった。
 これ以上話していてもアーロンにやつ当たりをしてしまいそうだったので、何も言わずにソファーから立ち上がる。

「…お昼、適当に作るけど、食べる?」
「あ゛?」

 ガラの悪い声しか出さないのは想定内だったので、返事もせずにキッチンに向かった。
 味付けの濃い肉でも出しとけば文句言わずに食べるでしょ。数日前の夕食に残ってしまった生姜焼きが眠っていることを思い出したので、それと野菜を適当に炒めてしまおうか。
 軽く手を洗って調理器具を出し調味料やら材料を冷蔵庫を出していく。
 いつの間にかアーロンはこちらを追いかけてきていたようで、キッチンの入り口に腕組んでこちらを見ていた。

「……んないつだかの残りもん程度の量で俺の腹が膨れるかよ」
「文句言う人にはあげませーん」
「すぐ出るから食わねぇ。俺はろくな料理ってもんが出来ねぇからな」
「は、なんの話?」

 残り物の野菜を適当にザクザク切っていた手が止まる。

「はぁ、適材適所って言うだろうが。馬鹿かテメェは」
「だから、なんの話だってば」

 アーロンはこれみよがしに頭をガシガシかきながらスタスタ歩いていってしまう。

「おーい、無視かー?」

 再度言葉を投げかけても、なんのリアクションも返ってこなかった。

「…いってらっしゃーい!」

 なんだったんだ。今の。
 こっちの神経を逆撫でするだけして、自分は料理が出来ないって。脈絡が無くて、意味がわからない。
 でも。と、包丁を握りしめながら思う。
 適材適所。アーロンと私では、出来ることも得意なことも違って、アーロンにできて私はできないこともあるし、逆も然り。
 もしかしてあの人、私のこと励まそうとしていたのかな。

「はは。素直じゃないねー」

 誰も聞いてないのをいいことに、声を出して笑ってしまう。
 昨夜、チェズレイさんにかけられた言葉も思い出す。部屋を綺麗にしていてくれてありがとう、と。これも、適材適所なのかもしれない。
 アーロンも別に察しが悪いやつだとは思ってはいないけど、やっぱりモクマさんが言う通り、私はあまりごまかすことは得意じゃないんだ。バレバレみたいだ。
 昨日の夜から、不自然に避けている言動をとっていたことから、すべて。
 やっぱりすごいなぁ。あの人たち。洞察力というか。私にできないことをなんでもできちゃうのかもしれない。
 …適当に作った生姜焼き入り野菜炒めは美味しかった。食べさせる相手が自分しかいないのが残念なほどに。


 今朝見た夢を思い出したから、というわけではなかったのだけども、昼食の後片付けを済ませた後、私の足はリビングのピアノに向かっていた。
 素人と寸分違わぬ程度の私が座るには、贅沢すぎる立派なグランドピアノだ。
 ここの雑用を任されているとはいえ、流石にピアノの調律なんてできるはずもなく。年に一度、プロに頼んでいた。
 そんな頻繁に弾く場面があるわけではない。チェズレイさんがミカグラを去ってからはなおのこと演奏させる機会もなかった。が、せっかく立派なものだしと、ナデシコさんが調律用の予算をあらかじめ組んでいた。用意されたお金を使わないわけにもいかず、申し込みの電話をし、ここに来てもらってから日が浅い。
 鍵盤から少し椅子を離して座る。多分、幼い頃はもっと近くに座っていたんだろうな。覚えていないけど。
 目をつぶる。そして開く。記憶の奥底にある動作を呼び起こして、音を奏でる。
 やっぱり指もリズムもたどたどしくて、何度も同じところを間違えては戻るを繰り返す。さながら、壊れたレコードのようだった。
 ずいぶんと時間をかけて、ようやく一曲を弾き終わる。不恰好だけど。なんとか。
 ピアノが弾けることを思い出したあの日以来だ。鍵盤に触れ、弾くことは。
 幼い頃の私は、過去の私は、熱心にピアノの練習をしていたのだろうか。わからない。わからないけど、体が、指が覚えているということは、つまりそういうことなんだろう。
 記憶は相変わらず戻らない。しかし、なぜかできたことはこうやってピアノを弾けたこと、料理や掃除や事務作業の飲み込みが比較的早くて、今ではすっかりそれが生業になったこと。
 過去の私が経験していたことが、思い出は戻らないのに体現できているというのは、なんとも奇妙な感覚だった。自分が自分でないかのような。自分ではない何かの体にいるような。
 なんて。あまりに非現実的な妄想を本気にしているわけではない。私は私だ。
 …まだ、別の曲が弾けた気がする。
 適当な鍵盤を沈めて音を出しながら、記憶の海に浮かんでいそうな曲を探した。
 没頭、していたんだと思う。背後に人が立つ気配なんて、まったく気にしていなかった。

「おはようございます。体の具合は、…その様子を見るに快調のようですね」

 チェズレイさんだ。自室からリビングに降りてきたのだろう。
 反射的に指は止まり、背後を振り返る。久々の、一年半振りの対面。昨日の夜をノーカンにすれば。

「お、はようございま、…す…………」

 彼の顔を視界に入れて、いつもとは違う様相に思考が一瞬止まった。

「チェズレイさんって、眼鏡、かけるんですね」

 お綺麗なお顔には、見慣れない眼鏡があった。細い銀のフレーム。洗練されたデザインが似合っている。

「古傷の影響で片目の視力が悪いもので。話したことありませんでしたか」
「はい。まったく。初耳です」

 そう言うと、何故か楽しそうに私の横に腰を下ろした。近い。狭い。いい匂いがする。
 椅子の端へ体を寄せて座り直せば、更に近づいてくる。なんで。近いってば。
 あからさまな密着につい怪訝な顔でチェズレイさんの顔を覗き込んだ。楽しそうに、嬉しそうに目を細めている。…綺麗なお顔だ。と、いっつも見るたびに再確認する事実と共に、その時に気づいた。
 チェズレイさんは古傷と言った。その古傷は、確かに彼の左目の周囲にアザとして残っているようだった。
 どうして、今の今までこんなにむごい傷跡に気がつかなかったのか。普段の彼の顔を思い出して、すぐに納得する。そうか。彼はいつも化粧をほどこしていたんだ。

「…もう、痛くないんですか」

 色が毒々しくて心配になる。指を伸ばしかけたが、止めた。止めることができた。触れて、一体なにをどうしようというつもりなのか。

「ええ、痛みはありません。ただ、そのせいでこちらだけ視力が悪いんですよ」

 なるほど。いつもはコンタクトなのだろうか。今は完全オフなのか、それで眼鏡をかけている、と。

「それにしても、さすがチェズレイさん。眼鏡も似合いますね」
「ふふ、ありがとうございます。もっと近くで見て頂いても構いませんよ」
「そ、れは、遠慮しておきます。心臓が持たないので」
「そうですか。それは残念です」

 全然残念そうな声色ではない。

「…今日はいつもより、起きるの遅かったんですか?」

 お昼近くになってからリビングへ降りてきたことは珍しかったように思う。

「昨夜、お酒を少し頂きまして、なかなか寝付けなかったんですよ」
「へぇ、珍しいですね。久々のミカグラにテンション上がっちゃったんですか?」
「半分正解です。モクマさんと、シキの成人祝いをしていたもので」

 なるほど。シキくんが二十歳を迎えてから数年経つから、納得した。

「……ところでチェズレイさん」
「はい、なんでしょうか」
「近くないですか?」
「そうでしょうね。近づきたくてここにいるもので」

 言い終わらないうちにチェズレイさんの腕が私の腰に回された。近い。近い。近いというか、近い。
 顔との距離も近くて、ちょっと見れない。そう思ってうつむきかけたら、チェズレイさんの髪が私の頭部に触れたらしい感触が。近すぎる。髪の毛が絡み合う距離感に無性に照れた。

「こうして私の腕で捕まえておかないと、貴女は離れていってしまうでしょう?」
「いや、あの、離れないので離してください…」
「いいえ。離しませんよ」

 声をひそめて言うから本当に心臓に悪い。ただでさえ忙しない心臓が爆発しそうだ。

「貴女は本当に意地が悪い。昨日の私が貴女との再会をどれほど待ち望んでいたか、知っていて避けるのですから」

 手持ち無沙汰な私の手をチェズレイさんに握られた。がんじがらめにも程がある体勢…。

「そ、そんなに私に会いたかったんですか」
「あァ。この期に及んでそのようなことをおっしゃるのですね。あれだけ手紙に愛をしたためたというのに」

 思い出される、便箋の内容。確かに臭すぎる熱烈な言葉が並んではいた。いたけどさぁ。

「…リップサービスかと。なんか、こう、社交辞令的な」
「おや。しかしその表情。まったく社交辞令だとは思っていないようだ」

 指先がすくわれて、チェズレイさんの口元へ。リップ音と共に指先から身体中へ熱が広がる。ゾワゾワと鳥肌までたってしまった。

「ふふ。林檎のように真っ赤になってしまって」

 この距離では不要ですね。と、チェズレイさんはせっかく似合っていた眼鏡を外してしまった。そして、今度は顎をすくわれる。親指で下唇をなぞられ、声が出そうになったのを我慢できた私をほめてほしい。

「昨夜はしたくてもできなかった場所へ、口付けをしても?」

 ずるい。ずるくないか。ここまでなんの確認もなしに腰は抱くわ密着するわ指先にキスするわ好き勝手してたのに。

「なんでそれだけ聞くんですか。意地が悪いのはそっちですよ…」
「愛する人から口付けを請われたい男心ですよ。貴女も不快ではないのでしょうが、私は貴女の気持ちを言葉でお聞きしたいのです」

 チェズレイさんからは再三、主に手紙のやり取りでとんでもない砂糖を吐きそうな言葉をたくさんもらった。でも、私には同じことはできなかった。恥ずかしいという感情が大部分を占めていた。でも、いつしか、気づいてしまったのだ。
 私はこの人のことを、あまり知らない。左目を怪我していたことも、実は視力が悪いことも、今知った。そして、数ヶ月前に故郷で起こったことは、未だに彼の口から聞いていない。知らされていない。
 私は、チェズレイさんを大切に思っている。彼らには感謝してもしきれない。大切な人たちだ。その中でもチェズレイさんは一際特別な人になってしまった。
 でも彼は、自分のことを、あまり私には教えてくれない。

「…数ヶ月前に色々あって大怪我したことも教えてくれない人とは、キスしたくないです」
「…………」

 真っ赤な顔をしながら、私はなにを言っているのか。
 滑稽だとしても、口はへの字に曲がってしまった。
 チェズレイさんは困ったように微笑んだ。そんな顔をさせたいわけではないのに。

「…そろそろ禊を済ませる頃合いなのでしょうね」
「はい?」

 小声でそう呟いてから、彼はこれまでの拘束が嘘かのようにするりといとも簡単に離れていった。

「禊って…どういう…?」
「昨日も言ったでしょう。貴女には、話したいとことがたっぷりあるんですよ」

 どうぞ、と手を差し伸べられたので、あまり深く考えずにその手をとる。しまった、と思った時にはもう遅い。うやうやしくエスコートされ、あれよあれよとリビングのソファーに座らされた。

「コーヒーでも淹れましょう。お待ちください」
「あ、それなら私が…」

 言いかけたのを手で制されてしまい、口をつぐんだ。諦めて、ソファーに深く腰を下ろす。
 わざわざ飲み物を用意してくれるということは、飲み物が必要になるほど私とたくさんお話をしてくれるということだ。
 彼の口から出た禊、という言葉について、まだピンとは来ていない。一体どんな話をされてしまうのか、期待と少しの不安感からソワソワする。
 大人しくしていると、視界の端に何かがチカチカと明滅した。テーブルに置かれたタブレットのライトだ。
 先程までは置かれていなかった。おそらく、これはチェズレイさんのものだろう。勝手に触っていいのか迷ったが、緊急の連絡だと急いだ方が良いと判断し、キッチンに立つチェズレイさんへ持っていった。

「チェズレイさん、なんか光ってるんですけど…」

 ちょうど戸棚から豆を出していたチェズレイさんが、こちらとタブレットを一瞥。

「あァ……どうしてそう……間が悪い……空気の読めない連中だ……」

 苛立たしげに目を細めていらっしゃる。
 持ってこない方が良かったのかと肩を縮こませていたら、今度は微笑まれた。

「すみません。急用が入ってしまったので、語らいはまた次の機会でも?」
「あ、いや、どうぞ。いつでも大丈夫なので」
「恐れ入ります」

 柔らかく頭を撫でられたかと思ったら、持っていたタブレットはいつの間にかチェズレイさんの手にあった。

「お仕事ですか?」

 咄嗟に疑問が口を出てしまったが、おいそれと人に話せるようなことではないのかもしれないと後悔。

「そうですね。故郷での一件の、残党狩りの準備とでも言いましょうか」

 そう言うと、チェズレイさんは足早に自室へ戻っていった。
 故郷での一件の残党狩り。この件はもう解決したと、モクマさんからの連絡には書いてあったけど、まだ何かあるんだろうか。と、彼らの本職に関しては私がとやかく考えてもわかるはずがないので、考えるのはやめた。
 今日はもう時間がとれないだろうな、と予感して、用意だけされたコーヒー用の各種道具たちを片付けていると、身支度を整えた見慣れた格好のよそ行きのチェズレイさんが顔を出す。

「埋め合わせは必ず。それまで逃げないで、お利口に待っていてくださいね」

 語尾にハートマークでも着きそうなほど、でろでろに甘い声で言われた。

「…善処します」

 できる限り。なるべく。努力はします。
 腰の引けた私に微笑んでから、では、とチェズレイさんは玄関へ向かった。
 しかし、すぐに立ち止まる。どうしたのかと目線を向けていたら、一瞬思案顔を浮かべてから私を見つめて、数秒。

「……私には、言ってくれないんですか?」

 一瞬、なんのことだと思った。でも、習慣とは恐ろしい。すぐに思い至る。
 おそらくこの世で一番、彼らにその言葉をかけていた。

「いってらっしゃい。チェズレイさん」
「はい。いってきます」


***


 その日の夕方頃だったか、ちょっとした事件が予期されたので、まさかのホリデー中だというのに彼らは出動、もといナデシコさんにこき使われた。
 幸い、そこまで大事にはならなかったようで被害は最小限に食い止められ、彼らの早めの帰宅時間は死守されたのだった。
 あとで聞いたところによると、水面下でスイちゃんが大活躍だったそう。かっこいー!


 見慣れたものの実際に目にするのはしばらくぶりである仕事着とも呼べる潜入服を着た彼らとナデシコさんは、全員揃っての帰宅だった。

「おかえりなさい! 夕飯もお風呂の準備もできているので、お好きな方からどうぞ!」
「ただいま。アンのその台詞、懐かしいな」とルーク。
「うんうん。こうしてこの後、一番広いシャワールームの取り合いになるんだよね」

 無性に楽しそうなモクマさんは、素早い動きで皆の間をかいくぐると、

「おっ先ー!」

 と、軽やかな足取りと華麗なウインクでシャワールームへ颯爽と向かった。

「ふっざけんなおっさん! こっちは真っ昼間から汗水垂らしてたんだぞ! 譲れ!」
「いやーんアーロンってば。じゃあおじさんと一緒に背中流しっこ、する?」
「んな気色悪ぃことするか! 譲れっつってんだよ!」

 アーロンは怒号を飛ばしながらついて行ってるけど、本当にそのまま一緒に入るつもりなのだろうか。広いとはいえどう考えても男二人には狭いあの浴室に…。

「まったく騒がしいな」

 そうこぼすナデシコさんも、表情は柔らかかった。

「アン、着替えたらすぐに行くよ」
「はい」

 そのまま自室へ向かったルークとナデシコさんを見送ってから、ご飯を再度温めようかとキッチンへ向かう。
 と思ったら、すぐに腕を引かれて肩を抱かれた。匂いでわかる。昨日今日とで嗅ぎなれてしまった。犯人はもちろんチェズレイさんだ。

「無事に帰りましたよ」

 何か言うことがあるだろ、と、目が口ほどにものを言っていた。

「…はい。おかえりなさい」

 いってきますとおかえりなさいの強要がすごい。しかもこの人、周りに人がいなくなったのを見計らって声をかけてきた。くっつくことに余念がないじゃん。

「夕食後の貴女の時間、予約できますね?」
「……うう、はい」
「よろしい。あとで急に風邪気味になるのは許しませんよ」

 存外強い力で抱かれていた肩から解放され、体をチェズレイさんの方へ向きなおされた。対面している体勢だ。
 間髪入れずに前髪を上げられ、額へ唇を寄せられる。なんでよ!? そんな流れじゃなかったじゃん!

「では、私も着替えてきましょう」

 楽しそうに、平然と、チェズレイさんは去っていく。
 このキス魔! 鎮まれ心臓! うわぁ!


***


 夕食を済ませ後片付けをし、自分もお風呂に入っていたら時刻はあっという間に21時を過ぎた頃合い。
 夕食時、私の隣の席に平然と座るチェズレイさんに「どうぞ、急がずバスタイムをお過ごしください」と耳打ちされ、お言葉に甘えてのんびりと過ごしてしまった。
 …今更焦ったところで仕方ない。不思議と腹をくくっていた。

「あれ、ルーク」

 お風呂からリビングへ行くと、ルークがいた。携帯を片手に神妙な表情をしている。

「難しい顔して、どうしたのさ」
「いや、うーん。そんな大したことではないのかもしれないけど、アン、相談に乗ってくれないか」
「私でよければ」

 聞く姿勢をとるつもりで、ルークの向かいに座った。

「…夜遅くに、女性にメールを送るのって、どう思う?」

 まさかルークの口から女性関係の話題が出てくるとは思わず、驚いてしまった。

「あっ、やっぱりまずいかぁ。明日の朝にすべきかな…」

 驚きによる沈黙を、否定的に受け取ってしまったらしい。

「ああごめん。いや、内容と間柄によると思うけど…、誰におくるの、恋人?」

 知らない間にルークに恋人できてる、と謎に感動しながら、ついにやける。

「違う違う! …アンなら知り合いだし良いかな。スイさんだよ。明日一緒に映画に行く約束をしたんだけど、待ち合わせ時間をどうしようかっていうメールを送りたくて」
「あー…」

 なるほど。スイちゃんね。ふーん。
 この二人、いつの間に映画デートの約束なんてこぎつけていたのかと、やっぱりにやついてしまった。ごめんルーク。面白がってるわけじゃないから許して…。

「遅くにごめん、とかから始めれば別に大丈夫じゃない? そんな知らない仲でもないだろうし」
「そ、そうか。よし。ありがとう、アン」
「いえいえ」

 微笑ましい。そして清い。別に二人の関係が男女間のあれこれに直結しているとは思っていないけども、はたから見ている分には心が洗われるようだ。

「おや。リビングにはボスもいましたか」

 リビングの扉が開き、チェズレイさんが入ってきた。

「ああ、チェズレイか。アンもいるし、良かったら少し話して行かないか?」

 多分、チェズレイさんは私と話に来たんだろうな。けど、ルークがいる手前、はっきりそう言うわけにもいかないだろう。
 これはまた流れるか最悪自室まで呼ばれるかなーと曖昧に笑っていたら、チェズレイさんは顔色も変えずに、ソファーへ近付いてきた。

「魅力的なお誘いですが、ボスはもう、ベッドに入る時間ですよ?」
「うっ、まだ、九時だぞ…?」
「ふっ、冗談です。…喜んで」

 よ、よかった。冗談だった。ルークを体よくリビングから追い出す文言かと思った…。
 そして、夕食時よろしくやっぱり私の隣へと平然と腰を下ろした。
 もうこのまま三人で話すつもりなら、そんな身構えなくても良いのかもしれない。

「こうして夜にこの三人でいると、催眠療法をしてもらってた時のことを思い出すな」

 うんうん。懐かしい。確かに、あの頃は私もルークも、チェズレイさんの催眠療法に施してもらった。
 最終的には個別にやっていたけども、ルークには多少の成果があったにもかかわらず私にはほとんど効果が無くて、どうしたものかと思案した夜もあった。

「あ、私お茶入れてきますね」

 きっとこの三人なら長くなるだろう。積もる話がそれぞれあるだろうし。
 そう思い、キッチンに立つ。この時間のコーヒーは、まずいか。紅茶とか緑茶とかで良いかな。でもカフェインが…。でもまぁまだ九時だし、いいのかな?
 色々考えた結果、結局カフェイン少なめと謳われる茶葉を選び、準備を終えてリビングに戻る。
 チェズレイさんとルークは、会話に花を咲かせているようだった。
 ティーカップをそれぞれの前に置く。いつもはルーク用の砂糖をいくらか用意するのだが、夜だからやめた。きっとその意図にも気づいてくれるだろう。

「…さて、温かい飲み物も用意してくださったことですし、ではそろそろ、本題に入りましょうか」

 朗らかに話していたチェズレイさんの声色が、少し変化したのがわかった。

「え?」とルークは困惑気味だ。
「私に聞きたいことがあるのでしょう? だからこの席へ誘ってくださった」

 …それは、私とルーク、どちらに言っているのだろう。察せなくてチェズレイさんの表情を伺うが、わずかな笑みを浮かべているだけでちっともわからない。

「はぁ、相変わらずもろバレだなぁ」

 あれ、ルークもそのつもりだったのか。
 談笑するつもりだった心が、そうでもないことに気づいてソワソワし出す。
 私の緊張を察してか、チェズレイさんは座り直すと見せかけて私に若干近づいた。言外に、逃げるな、と念押しされた心地だ。
 ルークは言葉を続ける。

「…ええと、君が、話したくなかったら、もちろん断ってくれて良いんだけど。あと、アンにも聞かせたくないとか、アンが聞きたくないなら、この話はここで終わるんだけど」
「あ、私のことはお気になさらず。チェズレイさんの一存にお任せします」
「ええ。私も構いません。彼女にはもう隠し事をしない心算ですので」

 そうなの? という気持ちでチェズレイさんを見た。少し眉尻を下げた笑みを向けられた。
 やっぱり、多少…というには大きな程度を私には隠していた自覚もあったんだ。そして、もう教えてくれても構わないと、そう、思ってくれてるのか。
 昼間からそういう会話をしていたはずなのに、実感は今ようやくともなった。どうしよう。にやけ顔を抑えきれないかもしれない。そんな空気ではないから、シリアスな顔を貫くけども。

「そうか。うん。よし。…チェズレイ、君の、お母さんについて聞きたいんだ」

 チェズレイさんのお母さん。
 彼の口から、彼の仕草やものの考え方から、なんとなくは知っている、きっとチェズレイさんにとって、チェズレイさんの生き方において、大きな大きな存在。
 そしておそらく、数ヶ月前に彼の故郷で起きた例の事件は、きっとチェズレイさんのお母さんが絡んでいる。
 ルークも知らない。私も当然知らない。気になる事柄だけど、紐解くのが難しい彼の根幹に関わるであろう重要かつナイーブであろう話題だから、ずっと聞けずにきた。

「ええ。構いませんよ」
「えっ、い、良いのか?」
「良いんだ…」

 ルークの驚く声色と、私の脱力した声はほぼ同時だった。

「いや、アンならともかく、僕まで聞いていい話なのか?」
「だって…ねェ? 母と子の話をするのに、ボスほどふさわしい相手はないではありませんか」
「え、なんで?」
「…さぁ?」

 本気でわからないという表情でこちらを見られても困る。私だってわからないよ。

「ふふ。なんでも、です」

 お母さんの話題が出たからなのか、この時のチェズレイさんの表情は、慈愛に満ちた母親のような笑顔だった。私にはそう見えた。


***


 チェズレイさんのお母さんのお話。それは数ヶ月前、彼の故郷ヴィンウェイで起こった事件とも密接に関わっていた。
 結局その顛末にチェズレイさんどころか彼ら四人は関わったらしく、ルークからの言葉も交えて、諸々を聞いた。
 そして、話題は彼のお母さんへ。彼の口から話される思い出は、愛おしくもあり、そして虚しくもあった。ルークと同じく、私も母の愛情は思い出せない。でもきっと、思い出すから辛いこともあるのだろう。
 幼いチェズレイさんの気持ちを想像したら、自分の幼い頃すら思い出せないのに、涙がこぼれそうだった。でも、それはあまりにも無神経だから、必死に堪えた。彼が、話すことに集中して私の顔を見ていなかったことを祈る。ブサイク極まる顔だろうから、流石に見られたくはない。
 チェズレイさんの語り口は、まるで子守唄のようだった。内容が内容なだけに、決して眠くはなれないのだけど。
 そうして、彼はすべてを語り終えた。
 その話の流れでルークへの退行催眠をほどこすことになった。ルークの根幹に関わる話題に、私はその場で見守ることを遠慮した。
 ルークは、別に構わないと言ってくれたけど。あまり、他人に見せるようなことでもないし。
 その場から、チェズレイさんから一時的に離れはするが、もう彼を避けようとか、そういう気持ちは一切なかった。
 チェズレイさんが、なんでも話して良いと言ってくれた。そして、話してくれた。彼が向き合ってくれているのに、自分の弱さをひけらかしてそこから逃げることは、もう私にはできない。
「私の部屋で待ってます」
 リビングを去り際に、言った。言葉そのままの意味合いで言ったつもりだ。しかし、大胆な言葉選びをしてしまったことは自覚している。だから、言われたチェズレイさんの反応が見れなくて、早々に自室へ引っ込んでしまった。
 部屋に戻ってから、ティーポットやらの片付けを忘れてしまったことを思い出したけど、引き返すわけにもいかない。恥ずかしいことを言った手前、戻ろうとは思えなかった。明日やるからいいんだ…。


 自室に戻っても何をするというわけでもなく、机備え付けの椅子に座って、時が過ぎるのを待っていた。
 幾分もしないうちに、扉がノックされる。…昨日はしなかったのに、今日はするんだ。

「どうぞ」
「失礼します」
「…昨日もノックしてくれて良かったんですけどね?」
「おや? 昨日の貴女は体調があまり良くなく早めに就寝なさっていたのでは?」
「あー……」

 しまった。墓穴を掘ってしまった。意地悪をし返すつもりが、慣れないことはするもんじゃないな。
 しかし、本当に律儀なことに、チェズレイさんは部屋の入り口に立ちっぱなしだった。

「どうぞ、気にせず好きなところに座ってください。と言っても、私がここにいたらベッドくらいしか座るとこないんですけど」

 ベッドを勧めたものの、不思議と動かない。
 あ。もしかして、他人のベッドとか衛生的に嫌だったりするのか?

「ごめんなさい。他人のベッドとかあまり触りたくないですかね」
「いえ…そういうわけではないのですが、貴女が良いと言うのであれば」

 そう言うと、彼はやっと腰を落ち着かせた。
 私の部屋、私のベッドにチェズレイさんが座っている。見慣れない、妙な光景だ。
 少しの沈黙。

「咄嗟に私の部屋でって口をついちゃいましたけど、チェズレイさんの部屋の方が良かったですか?」
「いえ。貴女の口から私室へのお誘い、非常に刺激的でしたよ」

 そういう話題に持っていきたかったわけじゃないのに…。嬉しそうな表情をしないでほしい。

「…良い時間ですし、扉の施錠も済ませました。邪魔するものは何もないでしょう」

 鍵閉めたっていつの間に…! スマートに器用に、なんでもできてしまうのかこの人は。

「さて。貴女に直接お話したい私の身の上は、あらかた終わりましたが…。一つ、謝らないとならないことがあるのです」
「謝らないといけないこと?」

 長い足に肘をついて手を組んで。たったそれだけなのに様になる座り方で、神妙な面持ちのチェズレイさんは続ける。

「ええ。…禊、ですよ。貴女へのね」

 長い髪をかき上げてから、ため息を一つ。どうしてか、チェズレイさんが緊張しているようにも見えた。

「先ほど話題に出ましたが、過去に貴女にも退行催眠をほどこしたことは、覚えていますか?」
「もちろん。…結局、めぼしいものは何もわからなかったわけですけど」
「……それが、大変言いづらいのですが、……嘘なんですよ」
「はい?」

 ついに、チェズレイさんと目線が合わなくなってしまった。彼が視線を逸らしたのだ。

「あの時、私は咄嗟に嘘をつきました。何もわからなかった、とね」
「それは……つまり……」

 幼い頃の記憶がなかったルーク。つい一ヶ月前に目を覚まし、それ以前の記憶がまったく無かった私。程度は異なるものの根本は同じだろうと、チェズレイさんはルークでは一応上手くできたそれを私にもほどこしてくれた。
 私といえば施術される側とはいえ、目をつぶって身を任せるだけのもので、特に苦労もしなければ苦しみも痛みもなかった。感覚的には半分意識が浮上した状態で夢を見ているような心地だった。
 チェズレイさんは、そんな状態の私へ上手く語りかけ、過去を引き出そうとしてくれた。しかし、催眠が終わり目を覚ました私には、力及ばず何もわからなかった、としか告げられなかった。

「…あの時、催眠を受けてた時、私は何かを言っていたんですか?」
「そうです。かなり断片的で、単語を呟く程度ではありましたが」
「そう、だったんですね…」

 私の中に、記憶は残っていた。目が覚めたあの瞬間から生まれたとか、そんな御伽噺のような存在ではまったくなく。きちんと、幼少から育って今の私になっていたのだ。
 あんなに知りたかったはずなのに、不思議と、そこまでの嬉しさはなかった。

「私は、何を言ってたんですか?」
「……これは、私の憶測を多分に含みます。加えて、あまり聞いて気持ちの良いものではないかもしれません」
「だから、チェズレイさんは、私には黙っていたんですか」
「いいえ。…いや、そういった気持ちもありました。が、大半は、私のエゴですよ」

 チェズレイさんは完全に項垂れてしまっていて、こちらからは表情が見えない。いつもはあんなに凛々しくしゃんと立っているというのに、今はこんなにも背中が丸い。

「貴女の過去がわかってしまったら、私は用済みでしょう。…離れて行ってしまわれるかと」
「……ええ? 本気で言ってます?」

 私が、チェズレイさんのことを、自分の記憶を知るためだけに利用して近づいていると思っていた、と。
 そんなわけあるか。そんなこと、一度だって思ったことはない。神に誓って。
 私は椅子から立ち上がって、項垂れるチェズレイさんの足元へひざまづいた。
 上質なカーテンのように彼の顔を隠す髪を、なるべく優しくかきわけて耳にかける。
 今にも泣き出しそうな美丈夫の顔がそこに。悲しそうな表情なのに、私の心はキュンとした。どんな表情も、彫刻のように美しく、様になる。

「ねぇ、チェズレイさん。私、今、嬉しいんですよ。なんでかわかりますか?」

 涙を流しているわけではないのに、涙を拭うように頬を撫でた。
 ああ、お風呂上がりとはいえあまり清潔な手ではないから、彼には触れない方が良かったかと思ったけど、縋るような手つきで手を握られた。そして、頬擦りをされる。
 節目がちな瞳が美しい。そういえば、チェズレイさん今、手袋つけてないな。

「私に過去の記憶が存在したことよりも、チェズレイさんがひた隠しにしてきたことを洗いざらいお話してくれたことが、たまらなく嬉しいんです」
「…あァ、まったく、貴女は本当に、私を喜ばす言葉をすぐ言う」

 気恥ずかしかったので、少しだけ。唇の端に、唇を寄せた。

「ね、お話してくれませんか。私が何を言っていたか。顔を上げて」

 愛する男の聞き心地の良い声で自分のルーツを知れるなんて、そんな贅沢、ありませんよね?


***


 チェズレイさんの口から語られる私の過去とは、確かに、あまり幸せなものではなかったのかもしれない。
 金持ちでもない。貧乏でもない。中流階級の平凡な両親の元へ長女として生まれ、弟妹は複数人いたらしい。あまり広くはない家で、家族全員で仲睦まじく暮らしていたそうだ。
 幼い頃は母からピアノを習い、楽しそうにしていた。母は音楽関係の職に就いていたのだろう。
 休みの日には家族全員でお出かけもした。手のかかる幼い弟妹を、私は母と一緒に面倒を見ていたそうだ。
 家族全員が日々笑顔だった。絵に描いたような幸せな家族団欒。
 しかし、私が学生もそこそこという年齢で母が急逝。死因まではわからないものの、家での幸せな雰囲気は様変わりした。
 母の稼ぎで成り立っていた家計が崩壊。父はやさぐれ酒に溺れ、子供に暴力を振るうのが日常茶飯事。…私の首のアザはおそらく、父によってつけられたものなのだろう。
 私は長女として弟妹を庇いながら家事をこなし、数年後に就職。時間も給料も全て搾取されるような環境で過ごしていた。
 心身ともに摩耗していた中、呆気なく暴走する車にはねられる。
 痛みに蝕まれ意識が薄れる中、何かまばゆい光に包まれたところで、記憶はピリオドをうった。


***


「…貴女はことあるごとに、母と父の名前であろうものを呼んでいました。その声色から察するに、あまり貴女に伝えるべきではない、と」

「そう、ですか……」
 すべて聞いた今でも、正直なところ実感は皆無だった。こうして聞いたからといって、記憶がよみがえるわけでもないらしい。

「その話を聞く限り、私は多分、今の方が幸せなんでしょうね」
「……それなら、良かった。本当に。そう思えているのであれば」

 すくう様に下から抱き上げられる。そのまま二人でバランスを崩し、ベッドになだれ込んでしまった。
 体が密着して心臓の鼓動が互いに伝わる。服越しなのに、体の熱すら伝播しそうだ。
 ベッドの上でこの体勢は、いくらなんでもまずいだろう。私は有無を言わさずにチェズレイさんの腕の中から抜け出そうと試みる。いつものごとく阻止されるかと思いきや、意外にもすんなりと抜け出せた。
 体を起こしてからチェズレイさんを見ると、そのまま力なく横たわっていた。なんだかさっきからふにゃふにゃだ。手を伸ばし、上半身を起こさせる。

「…でも、なんで目が覚めた時、波打ち際にいたんでしょう。車にはねられた直後なのに」

 そもそもどこの国で生活していたのかも、流石にわからない。まさか車にはねられた拍子にそのまま海へ飛ばされた、なんてことも可能性は低いだろうし。

「…これは、推察どころか妄想の域であることをご留意いただきたいのですが」

 チェズレイさんは足を組んで、楽な姿勢をとって話し始める。

「ミカグラ島の沖、メテオフロートのある位置に何があるのか。厳密に言えば、過去にそこへ何が落ちてきたのかを踏まえると、少々話が見えてきませんか?」

 ミカグラ島沖。メテオフロート。ミカグラ島に近い海に落ちてきたものといえば、思い当たるものは、それはもう一つしかない。

「……アマフリ隕石ですか?」
「ご明察。因果関係こそわかりませんが、アマフリ隕石の異常なほどのエネルギーが、空間そのものに作用したとすれば、辻褄は無理やり合わせられるかと」
「うーん、なるほど」

 どこかで日常生活を送っていたはずの私が、どうしてアマフリ隕石が関係ないであろう土地で因果に巻き込まれたのか。まぁそもそも本当にアマフリ隕石に関わりがあるのかさえわからない。
 私の過去が少しわかったところで、何が変化するわけでもないらしかった。

「…ご気分はどうです? 優れませんか?」

 少し考え込んでいると、チェズレイさんに心配された。

「あ、いえ。意外と、特に何も思わないなーとか考えてました」
「ふふ。やはり貴女は存外に図太い神経をお持ちなようだ」
「それ、褒めてます?」
「おや。最大限の褒め言葉ですよ。私としてはね」

 悪戯っぽく笑われたので、声を出して笑ってしまった。


***


 夢を見た。かと思った。
 半分以上眠っているような、浮遊感に体が包み込まれているような夢心地で。
 まだ重い瞼を開ければ、目の前には絵画の中にいる美女と見まごう整った顔立ちの男が、油断している顔ですやすやと寝息を立てている。
 綺麗な顔だな。好きだな。
 素肌に触れたくて、体をよじって彼へと近づく。
 朝の空気は冷たいが、彼の近くは、ぬくもりはこんなにも温かい。
 少し、脳が起きてきた。昨夜は二人であれこれと話し込んでいるうちに、どちらともなくベッドへ寝そべり、そしていつの間にか眠っていた。
 あんなに穏やかで混じり気のない入眠は、久々だったような気がする。
 同じベッドで共に寝た間柄なのだから、もう多少の密着くらい許されるだろう、と。
 彼の首筋に擦り寄る。調子に乗って体にも腕を巻きつけた。薄い体。しかし私よりも体格がしっかりしているのだから、ちゃんと男の人なんだなぁ。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 つむじの辺りで、いつもより幾分か気怠げなチェズレイさんの声がする。…寝起きの声を聞いたのは初めてだったので、少しドキドキした。

「おはようございます。快眠でしたよ。チェズレイさんは?」

 寝起きの顔すら美しいに決まっているから、と拝む気持ちで彼の顔を見ようとしたら、残念ながら頭の後ろと腰に手を回され抱きしめられてしまい、未遂に終わった。

「…久方振りに夢を、見ていました。貴女と初めて口づけを交わした時の」

 それは夢というより、過去の記憶なのでは?

「あァ、また貴女に、キスを贈りたい…」

 独り言程度の声色で囁かれた。聞こえてますよー。でも…。

「…寝起きのキスはやだなぁ」

 衛生的に。

「ふふ。私もです。…起きましょうか」


 この後、私の自室から出てきた瞬間のチェズレイさんをアーロンが見かけてしまい、とんでもない形相で睨んだ挙句に大騒ぎしたのは、また別の話。


***


 彼ら四人がミカグラ島へ到着したのが十二月二十日。
 そして、私がうじうじしながらも最終的にチェズレイさんからお話を聞けたのが、二十一日。
 二十二日、午前中はクリスマス前の最後の買い物へ向かい、午後は急ぎの用事もなくずっとオフィスにいた。チェズレイさんと。二人きりで。夕方頃まで。うん。まぁ。そんな、わざわざ言うほどのことはしてないというか。うん。うん。
 二十三日は、散歩がてら出歩いていたところ、アーロンに恨みを持つらしい残党のさらに残党の事件に巻き込まれて、チェズレイさんと共に狭いコンテナに閉じ込められる事態になってしまった。数時間幽閉されて不便なだけで、実害はほとんど無かったのが救いである。
 来たるクリスマスイブ、二十四日。夕方頃から支度を始め、みんなでメテオフロートへ出発した。
 途中で本人へのサプライズとしてスイちゃんとも一緒に、偶然にも彼らのチーム名を冠するミュージアム内を探索した。次期に一般開放されるというこの場所も、彼らの過去の潜入先だ。
 ミュージアムでは、巡回ルートが二種類用意されている。私たちもチーム分けをして、それぞれのルートをまわった。
 その際、モクマさんのナイス采配でルークとスイちゃんを同じルートへ向かわせることに成功した。私はニッコニコだ。
 しかし、喜んでいるのも束の間、私は問答無用でチェズレイさんと同じルートをまわるように言われた。それ自体は全然構わないんだけど、私もそういう枠なのかと呆けてたら、アーロンにバカにされた。なぜ。
 貸切状態のミュージアムを満喫しながら、最上階、メテオフロートを目指す。その道中、思い出をたどっていたシキくんも迎えに行った。
 そして再び集った皆で、夜から日付が変わる頃まで、盛大にクリスマスを祝う算段だった。
 こんなに楽しくて、騒いで、浮かれていたクリスマスは、初めてだ。
 だから、私も少し、調子に乗っていたんだと思う。


***


 大勢の声でカウントダウンが始まり、海上に集う人々の歓声に包まれる。
 ついに、クリスマス当日。真冬の海は風が強くて冷たい。しかし、不思議とそこまで寒く感じないのだから、人々のぬくもりというものは底知れない。


「チェズレイさん、私のお話にお付き合いしていただけませんか」

 人混みを眺めながら、マフラーに顔をうずめる。
 同じように観衆を眺めるチェズレイさんは、私の言葉にこちらを見てくれたのが、視界の端に映った。

「貴女のお話なら、いくらでも」
「ありがとうございます」

 夜空を見上げた。街の灯りから離れた海上だからか、普段見上げるものよりも星々の瞬きがまばゆい。

「私、首にアザがあったおかげで皆さんと知り合えました。私は何もできなかったけど、皆さんで大きな事件を解決して……そしてミカグラ島を離れて、それぞれやりたいこと、やらなきゃならないことをやって」
「私から言わせれば、貴女は決して何もしていないわけではありませんでしたが。謙虚な貴女はそう言うのでしょうね」
「謙虚、というか、卑屈、なんですよね。皆と私は違うから、やることもやらなきゃならないこともないんだーってうじうじして。で、勝手に劣等感に負けて、皆と合わせる顔ないー、会えないーってなって」
「仮病を使ってまでして、空港にすら迎えに来ないとわかった時は、そこら辺の人間をだれかれ構わず締め上げるところでしたよ」
「やめてください」

 冗談だとはわかっているけども、無差別に催眠をかけてぐちゃぐちゃにするくらいこの人にはわけないから恐ろしい。

「自惚れではなく、貴女は私のことを好いているとわかっていたので、避けられるのは断腸の思いでした。ここ数ヶ月は手紙の返信もありませんでしたし、どこぞの男になびいてるのかと、気が気じゃありませんでした」

 いや確かに、私はチェズレイさんのこと好きですけどね?
 肯定するのも癪で、睨むようにチェズレイさんを見たけれど、やっぱりチェズレイさんはいたずらが成功して喜んでいる子供のような無邪気な笑顔を向けるのだ。

「…チェズレイさん以上の男性が、いるわけないじゃないですか」
「ふふふ。貴女は見る目がありますねェ」
「恐縮です」

 話を戻しますよ。

「…どうしてそんなうじうじしてしまうんだろう、ってここ数日考えてたんですよ。で、多分何もすること、…趣味とか、そういうやりたいことがないから、うじうじ考え込んじゃうんだなって結論付けたんです」
「建設的な姿勢ですね。それで? 何かやりたいこと、見つかったんですか?」

 もったいぶるわけじゃないけど、一度口を閉じた。そして、チェズレイさんに視線を向ける。一瞬だけ。
 瞬間しか視界に写していないのに、胸焼けするくらい甘い眼差しを向けられていた。大概、この人も私のこと好きすぎるよね…。

「…ピアノを、ちゃんと弾けるようになりたいなって思ったんです。それには、先生が必要だなって」
「おや。偶然にも、ピアノが達者で先生になりえそうな人材を、私はよく知っているのですよ」
「あはは。そうですよね。ただ、それだけじゃなくて」

 まるでピアノの先生になりえそうな張本人を尻目に、私は本題を口にした。

「…私、ミカグラを出て、色んな国を見てまわりたいって思ったんです。まだ、ここの国しか知らないから」
「女性の一人旅ですか。数年前より、何某の活躍により世界的に治安は良くなっているでしょうが、少々危なっかしいですね」

 ピアノを教わりたいのも、世界中を見てまわりたいのも、確かに本心だ。でも、本音はもう少し別のものだった。
 それを、チェズレイさんに直接打ち明けるのは気恥ずかしかったので、周りくどい言い方を選んだ。…この人なら、察してくれるに違いないのだ。

「ボディガードなど、お付けになられるのでしたら、賛成ですよ。世界旅行」

 これは。もう。わかってるじゃん。この言い方は。完全に。
 今度は睨むようにどころか睨みを効かせてチェズレイさんを見た。まーた、いたずらっ子の微笑みを浮かべている。

「…言ってくれないんですか。チェズレイさんの口から聞きたいんですけど」
「ふふ。良いでしょう。可愛い恋人の頼みです」

 前触れなく、マフラーを掴まれた。そして引き寄せられた。また近くでチェズレイさんの匂いがする。
 頬に彼の髪が触れた。こそばゆい。それ以上に、吐息のかかる耳が熱い。

「私は、同じ場所に長いこと滞在できる立場ではないので、世界中を連れまわしますし、私の近くにいるということは、それなりのリスクと隣合わせです」

 言葉の重みをひしひしと感じる。真剣な紫紺の眼差しで。

「それでも、貴女だけは私の手で守り抜きたい」

 肩を掴まれる力強い手。この人の強さは力の強さではないのに、こんなにも頼もしい。

「私と共に、来ていただけますね?」
「はい。喜んで」

 断るはずがない。こちらから誘い水を向けたのに。互いにわかっていたはずだ。絶対に断らないことを。
 なのに、言葉にして確かめ合うと、こんなにも嬉しい。
 歓喜の感情を言葉で伝えたい。なのに、うまく言葉が紡げなかった。
 もどかしくて、でも感情の高ぶりのままにチェズレイさんに抱きついた。

「これからも、よろしくお願いします」
「ええ。こちらこそ。末永く」


 この時、私たちは完全に二人の世界だったが、蓋を開けてみれば周囲で皆見守ってくれていたらしい。
 顔見知りたちは私以上に喜びそして祝福してくれたが、ついぞアーロンだけはずっと微妙な顔をしていた。

「そいつと一緒になる女の気がしれねぇ!」

 と大声で言い放ち、ルークに怒られていた。
 ルークは怒ってくれたけども、反応があまりにもアーロンらしくて私は笑ってしまった。なお、チェズレイさんの虫の居所は悪い様子だった。
 というかちょっと待って欲しい。一緒になる、って、そんな、ただ同行を決めただけの話なのに本当に大袈裟だなぁ。


 祝福ムードが落ち着いてきて、そろそろ夜更けだしと帰り支度をし始めた頃合い。
 そういえば、と私がしばらく疑問に思ったことを口にした。

「チェズレイさん。しばらく前からずっと、手紙でもアンって名前で読んでくれなくなりましたよね」
「おや。お気づきでしたか」

 あ、そう言うということは、やっぱりわざと呼んでないんだこの人。

「チェズレイさん直々に名付けてくれたのに、なんで呼ばなくなったんですか?」

 記憶がなくて名前すら思い出せなかった私に、濃茶の髪と瞳を持つことから同色の宝石、アンバーの名を借りてアンと名付けてくれたのは、他の誰でもないこの人なのに。

「…退行催眠の際、貴女が自身の名前を口にしていたからですよ」
「えっ、そうなんですか!?」

 やっと自分の名前がわかるのか! すごい!
 多分、いや絶対に過去の出自を聞いた時より何より驚いたし喜んだ。
 というかチェズレイさん。この期に及んでまだ話してないことあったんですか。

「貴女自身は聞き覚えも実感もないでしょうが……そうですねぇ。今度、褥でお教えしましょう」
「しとね?」

 って、どういう意味だ?
 首を傾げている私に、チェズレイさんは満面の笑みで答えてくれた。

「ベッドのことですよ。また、次の機会に、ね?」
「ぴゃ!?」

 そ、そ、そ、そういう意味ですか!? 驚いて裏返って変な声出ちゃったじゃん。

「チェ、チェズレイさんって、意外とすけべですよね…」
「ふふ。ありがとうございます」
「いや、褒めてないんだけど…」

 ところで、私たちはこれを、公衆の面前でやっているのである。恋は盲目である。

「いやぁ、見せつけてくれるねぇ、お二人さん!」

 弾む声のモクマさんの声に、ようやく見られていることを自覚して顔がゆでだこになったのは言うまでもない。


 メテオフロートからオフィスナデシコへの帰路で、私は今後のことを考えていた。
 お世話になった人、お世話になる人に、今後私がどうするかを説明しないといけない。
 オフィスナデシコから出るから、きちんと辞表を書かないといけないな。あとちゃんとナデシコさんには今までのお礼もしないと。…ナデシコさん、あの場で聞いてて笑顔で見守ってくれてたけど。
 チェズレイさんと共に行動するということは、モクマさんとも一緒に動くということで。この度はお世話になりますと挨拶をしないと。…モクマさん、あの場で聞いてて笑顔で大はしゃぎしてたけど。


 もしかして、大勢の知り合いの前で恥ずかしげもなく話してたあれ、公開プロポーズの類だと思われてないか?と気づいたのは、クリスマスも終わってミカグラを発つ時である。
 私の心配を知ってか知らずか、チェズレイさんには微笑まれた。顔がいい。
 ま、いいか。


***


 時は少し遡る。
 十二月二十三日。
 アンとチェズレイが事件に巻き込まれコンテナへ幽閉され、紆余曲折を経て助け出された後の、一幕である。


 別段と外傷も内傷がないことを、チェズレイはわかっていた。が、はたから見れば幽閉された内部のことは自分とアン以外に観測しようがない。したがって、本当にアンの身が無事なのかどうかは、説明のしようがないのだ。
 念のため病院へ搬送されることになったアンは、事実健康体そのものなので、迎えにきた救急車を帰し、自らの足で病院へ向かった。
 そういう自立しているところを、チェズレイは好ましく思うのだ。


「いやぁすまんすまん。ナデシコちゃんに頼まれ事してて、駆けつけられなくて」
「新人警察官の前でのスピーチですか。酸いも甘いも苦いも辛いも経験した貴方にはうってつけでしょう」
「ありゃ。…もしかして怒ってる?」
「いえ。私の落ち度でもありますし、結果として彼女は一切無傷なので。実際、そう大事になるような事案では無かったのですよ」
「そうかい? ま、お前さんがアンちゃんをみすみす傷つけるってこたぁないんだろうけどさ」
「そうですね」
「…………」
「おや。なんですかその目は」
「いんや。あれだけ、自分は彼女に相応しくない、彼女を濁らせるのが怖いとかほざいてた若造が、言うようになったなぁと思っただけだよ」
「……貴方がおっしゃったんでしょう。女性は強いし、彼女もそんなにやわじゃない、と」
「そうだっけかねぇ? おじさん忘れちまったなぁ。…まぁでも、チェズレイ。腹が決まったようで、安心したよ」
「…お気遣い、痛み入ります」
「ま、いざとなったらおじさんがお姫さん二人を守り抜くから、そこは安心してちょうだい」
「願ってもない提案ですが、遠慮しておきます。…彼女は、私自らの手で守りたいもので」
「ヒューヒュー。お熱いねぇ!」



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