「何してるの」
夜深い公園にするりと落ちたその声に、誰もが反応出来なかった。
肩を組み笑い合っていた俺達は同じ方向を見たまま固まって、世界はただただ、静寂ばかり。
「ねぇ、何をしていたの」
じゃり、と。
長い足が砂を踏む音。
「おわ?!っ、危ねっ!」
空に舞い上がったゴロー君が空中でクルリと回転し、華麗に着地する。
でも俺はたった今仲良くなったばかりのゴロー君の心配をしてあげる事も、何か声を掛ける事も、出来なかった。
体が浮いてる。
息が、出来ない。
「ん、ん!」
見上げるくらいの長身が、街灯と月明かりを背後に、視界いっぱい。余りに近すぎて見えないその表情はともかく、さらさらな感触が額と頬を撫でてる。
ああ、ひぃ君の、綺麗な黒髪だ。
口の中を荒れ狂う何かが暴れ回っていて、肺に溜まらなきゃいけない筈の酸素を奪われていく様な気がした。
爪先はみっともなくバタバタと浮いて、落とさない様にただ、妹を抱いたまま。
「…何で、流れていこうとした?」
「ぇ?」
久し振りに肺が膨らむ、呼吸が出来る。でもまだ俺には浮遊感があって。
「笹は柳とは違うのに」
紅い、眼。
どうして…だって違う。
だって、ひぃ君は俺より背が低かった。
いつもにこにこしてて、こんな、怖い顔なんか。しなかったじゃないか。
「そよぐだけなら許してあげたけれど」
「ひぃ、君」
「まさか流れていくなんて。…もう、かまぼこを嫌いになりそうだ」
泣いている様に見える目尻を撫でて上げたくても、俺の腕にはまなが眠っていた。
「あ、ああぁ兄貴?!」
凄まじい絶叫に飛び上がった俺の体は、けれどまだ宙に浮いてる。
「何で居んの?!木星から帰って来た足で本邸に戻ってただろ?!っつーか今とーるにっ、き、ききき、キッスして…?!」
「囂しい。斯くも忌々しき事柄が他にあろうか。…そなた、ようも卿の伴侶に手を出したな」
「ヒィ!ちょ!待っ」
ひぃ君、だよね。
口調も違うしとんでもなく禍々しいオーラみたいなものがふよふよしてて、もう俺、半分くらいは魂抜けてると思う。
「ななな何か判らんけどごめん!あや、謝るから!怒んないで!俺が多分きっとそこはかとなく悪かった!ごめんなさいましィ!!!」
「…謝罪は不要だ。血脈の慈悲を以て、フルボッコで容赦しよう」
「んの、ど鬼畜天然がーーーっ!!!」
あの強いゴロー君がパタッと倒れた。
辛うじて動いている指が、地面に何か書いて力尽きる。太郎、たろう?ダイイングメッセージみたいだ。
「うっうっうっ」
「ゴ、ゴロー君…」
「何処に行くの、龍君」
俺を抱いたままの長身から、目にも止まらない早さでビンタされたりお尻を回し蹴りされれば、誰でもああなる、と、思う。
可哀想だけど、助けたくても俺は。
「…おいで」
「う、ん」
「「…」」
妹は彼の右腕。俺の手首は左手に。
世界は沈黙に。
包まれて。
「かまぼこ」
「…は?」
「なだらかで丸くて柔らかい癖に、素手じゃ板から離せないんだ」
「え?」
「笹の葉はしなやかに風を受け流すけど、竹はまっすぐ、空を目指していく」
「ひぃ君」
「…龍君みたいだと、思ったんだ」
立ち止まった背中を見上げて、ゆっくり、手を繋いだまま回り込む。
「ひぃ君、は」
「うん」
「…えっと。大きく、なった、な」
ああ、もう。
こんな事が聞きたいんじゃない。
「そうなんだ、一ヶ月で20cm伸びた。暫く痛くて起き上がるのに苦労したけど、本当はまだ痛い」
「え?あ、関節?俺の時も痛かっ、」
「違う、左胸。」
ぐいっと腕を引かれて、ぽすん、と。当たる。
彼の鼓動が、頬に当たってる。
「あっ」
「…ね、痛い。俺は会いたくて死にそうだったのに、龍君は平気だったの?」
「あ、や、平…って」
声が少し低くなって、優しい余韻に甘さが滲んでいる。まるて、甘えるみたいに。とても恥ずかしくなるくらい。
「龍の文字通り俺の左胸を貫いた癖に、知らんぷりして見捨てるの」
「う…俺、見捨て…て、ない、よ?」
「ゴローと抱き合ってた」
「…え?抱き?そんな事してな、」
「してた。俺だってして貰った事ないのに。…酷い」
紅い紅い双眸と、薄い唇が近付いて来る。
それが何を示しているか判らない、なんて。言わないけど。
「どうして抱き合ってたの?ね、何で。俺は龍君の事しか考えてなかったのに。かにかま入りのかにたまも、かまぼこも食べたくなくなるくらいだったのに」
「ひぃ君」
「一目惚れが初恋なんて、酷すぎる」
どうしよう。
キスされる、と。
反射的に目を閉じたけど、大きくなったひぃ君は、俺の肩の辺りにポテッと顔を埋めただけだった。
ひぃ君の心臓の上から離すタイミングを失った俺の手はきっと汗ばんでいて、汗臭い筈だ。真夏の夜中の公園で二時間以上話し込んでたんだから。
ひぃ君みたいに良い匂いじゃない。
だけど高い鼻先をぐりぐり俺の首に押し当ててるひぃ君は、気にしてない、らしい。双子だって流石に互いの匂いは嫌悪する。
なのに、ちうちう吸い付く不埒な感触には流石に悲鳴が出た。ひぃ君の鼓膜が破れたらいけないと咄嗟に必死で噛み殺したけど、それでも「ひぁ…っ」みたいな気持ち悪い声が出る。
「やめ、」
「ん、龍君は何処も此処もかまぼこの弾力だね」
ひぃ君は、いつからこんなにいやらしい子になってしまったんだろう。俺が知らなかっただけで、やっぱり、最初からだろうか。
全く気付かなかったけど、初めてのキスも突然だったから。
「龍君、謝って」
「っや」
「いや、なの?浮気したのに?」
違う。
だって、ひぃ君が俺の鎖骨なんか噛むから、声が。
「ふ…ぅう…」
悲しくなってきた。
家族や身内以外とスキンシップするなんて事、物心つくまで遡ってみても、ない。ひぃ君が初めてでゴロー君が二番目で、だからまだ、ちっとも慣れてないのに。
言いたい事と話したい事が山程あって、だけどそのどれもがただの一割も声に出来ていない、のに。
悲しくても口下手な俺は泣き声も下手糞で、はらはら零れ落ちる涙を無言で滴らせるばかり。
「っひ、ぇ」
格好悪くもどきどきし過ぎて過呼吸とか、ひぃ君にだけは絶対に見られてたくなかった。枝に意地悪されても我慢出来るけど。
母さん以外で俺を撫でてくれる人なんか、居なかったから。
「龍君」
「っく…ひ」
「…龍君。虹が出来るよ」
困った表情でオロオロしてる大きなひぃ君は、でも声はいつも通り。声を荒げる事も俺みたいに吃る事もなく、淡々と。
物凄く落ち着いてる。
でも、その心臓の音は。
今にも爆発しそうなくらい、とても、早いんだね。
「ひぃ、ひぃ君、っ、ごめ…」
俺が傷付けて、ひぃ君に暴力を働かせてしまって、俺が、悪いのに。口下手とか人見知りとか、そんなの、理由にならないんだ。
だって俺、
「ひ、ひぃ、君、ぉ、俺、ごめんな、さ」
「………違う。どうして怒らないんだ、謝るのはお前じゃないだろう?」
「だ、って、き、嫌われたくない、の!」
だって、俺は。きっと。いつの間にか。
「ひぃ君にまで、きっ、嫌われたら、いやだっ、ひっ」
無我夢中で広い胸元に飛び込んだ。
今考えても相当パニックだったんだと思う。カチンと固まったひぃ君を見上げて、ぐっちゃぐちゃな顔の俺は。母さんから学んだ狡い手を使おうとしてる。
「おっ、…俺にとってゴロー君は友達だけど、ひぃ君、は?友達、な、だけ?」
後先なんて何も考えず、俺は。
初恋と言った彼の言葉に、ただ、縋らんばかりに。