novel | ナノ

柳緑花紅 壱

「でも、今日くらい泣いたっていいよね……」

 妙の涙がぽとり、九兵衛の頬に落ちた。熱いその雫は目尻から伝う九兵衛の涙の筋と合流し、下へと流れる。
 二人は泣いた。大切なものを護るとはどういうことなのか、自分はどれほどに弱かったのかを理解した戦いを終えて疲れきったかのように、或いは安堵するかのように静かに涙を流した。そしてお互いの弱さを認めることで結ばれた新たな絆の元に、ひしと抱き締め合う。
 ――ああ、これで良かったんだ。最初から、妙ちゃんとこうして向き合えば良かったんだ……。
 熱をもった目尻から新たな涙が流れ、九兵衛は悟った。これまで九兵衛は異性として妙と接し、そうすることで自分は男であると思い込もうとしていたのかもしれない。男として生きる為に“結婚”という形で妙とその人生を利用するという、利己主義に凝り固まった仕打ちを彼女にしてしまうところだった。
 僕は、なんてことを。
 この闘いがなければ己の間違いに気付くことは出来なかっただろう。だが勿論、彼女に抱いた憧れも紛れのない真実。だから今はまだ、少しだけ周りに甘えて、流れるままに涙を流す九兵衛だった。

***
「じゃあ、ね。九ちゃん、今度は是非うちに遊びに来て」

 あんなにも振り回してしまったというのに、妙は今も尚明るい笑顔で言った。二人の涙も止まり、柳生道場の門で彼女と“客人”らを見送るときだった。

「妙ちゃん、でも……」

 その言葉がとても嬉しい反面、九兵衛はこれまでの自分を顧みて心苦しく思う。妙を泣かせてしまっただけではない、彼女の弟やその仲間達を傷つけたのだ。これからどんな顔で会えばいい…。
 その心境を読んだのか妙は柔らかな笑みを湛えて友人の頬に両手を添えるとその暗く俯く顔をすっと上げた。二人の目と目が合わされる。妙の目は一片の曇りもなく澄んでいて、九兵衛はそこに困惑の表情を浮かべる自分を見た。

「九ちゃんはもう、私と一生会わないつもりなのかしら?」

 くすりと悪戯っぽく笑いながら妙が問う。勿論友人の素直な気持ちを引き出す為の方便だ。案の定九兵衛は顔色を変えて「そんなことある訳っ……!」と即答した。してすぐに彼女の策略に見事に嵌まったことに気付いて顔を赤らめる。
 妙は今度こそニッコリと笑う。

「でしょう? じゃあいらっしゃいな。皆歓迎してくれるわ」

 ね、新ちゃん。と、妙は弟の方を振り返った。二人の様子を離れたところで見守っていた新八は急に話をふられて一瞬面食らう。姉のにこにこ顔の向こうにいる不安気な表情でこちらを窺う九兵衛を見て、この娘が本当に先ほどまで自分と戦っていたのと同じ人なのかなと困惑した。また同時に彼女を安心させてあげたいという温かな感情が湧き上がった。

「あの、遠慮しないでいつでも遊びに来てください。……それと、良ければ万屋にも」

 勝手に万屋にまで誘って調子に乗り過ぎたかと新八は銀時と神楽の方をチラリと窺い見たが、二人は気にする様子もなく平然とした表情で彼らのやり取りを見ている。良かった、流石みんなの万屋だ。
 今の言葉で九兵衛の表情も随分と明るくなってくれた。

「あっ、でもウチには安いお茶しかないから九兵衛さんの口には合わないかもぶべらっ……!」

 今度こそ調子良く冗談混じりにそう言った新八に銀時と神楽の一撃が入る。
「悪かったな安いお茶しかなくてよ」という怒気に満ちた低い声と「やっぱ調子乗ってんじゃねーか新八コラァァア!」という少女の怒声が響いた。
 そのやりとりがおかしくて、沈んでいた九兵衛の表情は思わずほころぶ。直後、その懐かしさすら感じる素朴で愉快な気持ちに彼女自身が驚いていた。先ほどまでの罪悪感といつからか癖になっていた自制心が働き九兵衛は自分がこんな思いをしていいのかと戸惑ったが、隣りで彼らをいとも楽しげに眺めている友人を見て素直にこの愉快な感情を受け入れることを自分に許した。

 万屋の小競り合いも収拾がつき、いつの間にか真選組の者達は隊長だけを残しいなくなっていた。一人残った彼は恐らく、妙を待っているのだろう。

「近いうちに必ず遊びに行くよ」

 あまり引き止めるのも悪いと思い、最後にそれだけは約束しておく。待ってるわね、と妙は穏やかに答え、最後に柔らかな微笑みを向けると弟達と家路に向かい歩いて行った。まだドタバタやってるらしい遠目にみても賑やかなその集団が、やがて道を折れ視界から消えてしまうまで、九兵衛はただじっと黙って見守っていた。

『さようなら』
 でも、また会えるんだ。

 心の中で密かに呟き、感動を覚える。至極当たり前のことに思えるその事実こそが、彼女にとっては掛け替えのない、結ばれた絆の証なのである。

 晴れやかな気持ちで漸く九兵衛は踵を返し屋敷に戻る門をくぐった。と、その先の光景に思わず足が止まる。彼女の向かう先には、今のやり取りを離れたところから静かに見守っていたらしい父と祖父。そして傷を負いながらもじっと主の為に控える四天王達の姿があった。

「――…!」

 ぎゅっと胸が締め付けられ、その目を見張る。彼女と共に闘った彼らは皆土埃に塗れ、それぞれが決して浅くはない傷を負っていた。流れた血が乾き肌に張り付いている者がいる。強く打たれたのか痛々しく皮膚が腫れ上がっている者がいる。
 自分の下した命に従い闘って、傷ついた彼ら。――ならば彼らのその傷は、その痛みは、自分が負わせたものだ。拭い去れない罪悪感と自責の念が九兵衛の心を襲う。
 しかし何より彼女の胸を締めつけてならなかったのは、彼らの誰一人として責めるような目を向けず、むしろ闘いを終えた主を讃え慈しむように真っ直ぐ見つめてくれていたことだった。彼らが自分達の身体の痛みなど歯牙にもかけずにそこに立ち続け、見守ってくれていたことだった。

 何か、何か言わなくては……。

 だが言葉が上手く出てこない。決して、伝えたい言葉が無い訳ではない。彼らに対する想いが溢れ過ぎて、それらをどう口にすべきか分からなかったのだ。
 九兵衛はゆっくりと四天王に歩み寄り、彼らに向き直ると無言で頭を下げた。

「若、」

 言葉無く謝罪する主の姿に四天王は困惑し、東城が彼女に呼び掛ける。顔をお上げ下さいと頼まれても、九兵衛は頑として上げようとはしない。情けないことは承知の上だが、こうすることでしか今は彼らに自分の想いを伝えることが出来なかった。
 四天王はじっと九兵衛を見つめるばかりであったが、やがて東城から彼女に語りかける。

「若……、私達は若の志を護らんと自らの意志で闘いの道へと足を進めました。それを後悔している者など、ここには誰一人としておりません。それこそが我らの誇るべきお役目なのですから。――しかし、悲痛な運命を歩もうとする貴女に何も言わず、止めようとしなかったこともまた事実」

 そこには僅かだが、確かに悲嘆の色がこもっていた。従者としての態度を盲信する余り行かんとする道が、本当に最善のものであるかを主に問うことが出来なかったことに、彼らは責任を感じていた。


「与えられた役目をただ負うだけの心なき行いは、忠誠とは言えません。俺達が至らないばかりに貴女が傷ついてしまったことを、どうかお許し下さい」

 東城の言葉を引き継いで、北大路もまた沈痛な声音で言う。耐えきれなくなり、九兵衛は顔を上げてしまった。

「何故だ……、何故お前達が謝る。否定されることを恐れ、お前達を拒んだのは僕なのに」

 込み上げる涙を必死に抑え、苦しげに顔を歪めた九兵衛が問いかける。何故彼らはこんなにも自分を許し受け入れてくれるのか、分からなかった。
 東城はいつもの穏やかな表情で柔らかに答える。

「貴女を心から尊敬し、お慕い申し上げているからですよ。若無くしては今の私達もまた、存在し得ないのですから」

 柳生家を、否、柳生九兵衛その人を護る為に編成された“柳生四天王”という存在。敬愛する人の傍に身を置き、護りぬくことこそが彼らの誇り高き役目であり幸せでもあるのだ。

「……オレ達にしてみれば暴れて怪我すること位、何てこたありません」

 恐らくは九兵衛が負い目に感じているであろうことを察して、安心させてやるかのように南戸が請け合う。決して強がりではない。数年ぶりに主人と肩を並べて闘えたことが、彼らは嬉しかった。護るべき者の為に傷つくことなど問題ではない。それは彼らが選んだ“侍”としての生き方。

「俺達はもっと強くならなくてはいけない。柳生の御名を護るため、貴女の力となるため」

 敗北に喫し自身らの弱さを痛感した。北大路はそこから芽生えた堅い意志を九兵衛に告げる。そして西野もまた請うように言う。

「どうかこれからも若の元で剣の腕を磨き、お傍に仕えさせて下さいませ」

 修行を経てますます研ぎ澄まされた九兵衛の剣は彼らを魅了し、確固たる尊敬の念を抱かせるには十分であった。

「この柳生四天王、今一度若の従者として励むことを望み申し上げます」

 最後に筆頭である東城が四天王としての意志を表明し、彼らは改めて忠誠を誓う。
 その実直な言葉と想いが余りにも切なくて温かくて、せめて従者の前ではと堪えていた涙が遂に九兵衛の頬を伝った。

 泣いては駄目だ。せっかく彼らは自分を主として認めてくれているのに、こんな情けない姿を晒しては……。

 けれどももう手遅れで、抑えることは出来なかった。九兵衛は両手で顔を覆い、肩を震わせる。止まらぬ涙と四天王達へ向けるべき言葉が出ないことへのもどかしさで、頭が一杯になる。そうして声を殺して涙する主に東城はそっと近付き、優しく言った。

「泣いても良いのですよ。強い貴女も、弱い貴女も、全て私達が慕うべき主なのですから」
「――…っ」

 そこで漸く九兵衛はしゃくり上げ、有りのままの姿で泣いた。強き侍であろうとする、自らに課した枷を外し、柳生九兵衛そのままの姿で。そしてそれを目の当たりにし四天王達が彼女を軽蔑するはずも、当然なかった。
 ここにも、あったのだ。妙と同じく、新たに結ばれた絆。九兵衛は随分前に断ち切っていたつもりだったそれを、彼らはまだ捨てずにいて、これまでずっと絶やさずにいてくれた。今ここで、虚勢を張らずそのままの自分で向き合ってみて初めて九兵衛はそれを実感することが出来た。
 やっと、言うべき言葉が見つかった。
 しゃくり上げる声で途切れとぎれに、精一杯の思いを込めて彼らに言う。

「ありがとう……」

 至極素朴なその言葉は、だからこそ四天王達の胸に真っ直ぐ届いた。

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