薄墨
春の夜の、自棄に風の五月蠅い夜だった。
見世の赤格子からやんやと騒ぐ素見をチラリと見遣りながら煙管を蒸かす。
隣で年増の太鼓新造が業とらしく咳をした。
「なまえ、支度しな。」
「なんで。」
女将がガラリと金襖を開けたかと思うと、開口一番呼び付ける。
渋ってみたが意味は無く、厭々女将の後をついて二階へ上がる。
廻しが不憫然うな顔で此方を見詰めて居るのが気に食わなくて、舌打ちをひとつした。
「お待たせしました、なまえです。」
恭しく上機嫌な女将が障子を開ける。
女将の隣で三つ指をついていたなまえが顔を上げると、一人の男が静かに酌をしていた。
静々と男の隣に座ると、何かの香の香りと鉄の錆びた匂いがした。
「後は良い、酒も要らん。」
初会で女郎と二人きりになることはまず無い。
女将が食い下がらず下がって行った所を見ると、凡そ身元の確かな武士か何かだろう。
はて、何処ぞの大将でござんせう。
「君も呑みなさい。」
口を利かずに済むと思った初会は当てが外れ、只座って居ると云う訳にもいかなくなった。
小さく頷いて小さな盃を差し出すと、男は静かに注いでくれた。
序で自分にも酒を注いでぐいと飲み干す。
なまえが口を付けたのを見届けると、男の手がなまえの顔へ伸びた。
性急な大将、何れも男は皆同じ。
「なまえ、と云うのか。」
塞がれると思った唇は未だ自由で、捕まれた顎がやたら冷たいのは
此の男の体温が其れ程低いと云う事だ。
はい、と返すと男は鼈甲色の目でじろじろとなまえの顔を見た。
目付き、色、肌の湿り気、肉付き。
鑑定する様になまえの全身を一頻見定めたかと思うと、何か一人で納得して
男はまた酒を注いだ。
「合格だ、贔屓にしよう。」
其れ以上男は何も言わず、静かに酒を呑んだ。
鼻先に突きつけられていた鉄錆の匂いが遠ざかる。
「はぁ…おおきに。」
然う応えるのが精一杯だった。
手持無沙汰に三味線でもと申し出たが、男は一蹴した。
「せやかて先生、わっちは先生の事ひとつも知りんせん。」
袷にチラリと煙草が見えて、煙草盆を取り寄せた。
男は少し驚いた様に顔を動かしたけれど、笑顔を浮かべる事はしなかった。
「然うか、然うだな。」
煙草を点ける手は大きく節くれだって居る。
嗚呼此れは大将の手ではないわいな。
だから男が新撰組副長土方歳三と名乗っても、なまえは大して驚かなかった。
百姓上がりの、浪人の手だ。
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