ラ・リュシ





















昼より夜の方が過ごし易くなって来ると、元々活気のある江戸の町も一層活気付く。

ぴゅうぴゅうと寒い風に混じって響いて居た夜鳴蕎麦の音が止まる様になり

着物が薄くなり湯屋が混み、鳥が飛び、虫が這う。

埃立つ往来、草履の爪先で砂を払ったり集めたりして居たなまえが顔を上げた。



「ね、ちょいとお侍さん。」



呼び止められて振り返る、男は腰に刀を差しているけれど月代ではなくて

今流行りの浪人と云う奴だろうと云う事は一目瞭然だった。



「私は侍ではない。」



男はにこりともせずになまえへ返事を寄越すと、ふと歩調を緩めた。

井戸の側の木製の塀に背中を預けて居たなまえが、草履の砂を振り落とす。



「そんなの如何でも良いのよぅ。ちょいと頼み事があるのさ。」



男が完全に歩みを止めたのを認めて、なまえが通りを横切った。

人通りの多いこの通りには今日も商人やら奉公人やらがひっきりなしに通っていて

それでいて時折、魚の腐った様な匂いがした。

なまえが駆け寄ると、男は眉間の皺を更に深くして

彼女の着物や髪をじろりと品定めするように眺めた。



「最近ではこんな若ェ女が、堂々と身売りをするのか。」

「違いますよ、ウチはあっこの長屋でね。稼業はおっかさんと針仕事さ。」



早口で身の上を説明し、〆になまえが名を名乗る。

伝えたばかりの名を男は口の中で一度呟き、然うして自分の名を名乗った。



「町娘のなまえが、俺に何の用だ。」



生まれてこの方この町で育った、なまえは大体の町人を把握はしているけれど

後に激動の時代と呼ばれるこの頃、見知らぬ顔が増えるのも日常茶飯事だった。

時折辻斬りだ物盗りだと物騒な事件も起こるけれど、其れなりに平和なこの町で

土方は金ならないと、誰しも言う文句を口にした。



「身売りじゃないって言ってるじゃあないか。好きなひとだねぇ。」



吉原に売られるなら未だ良い方で、多くの娘達は夜鷹や湯女に身を落とすと聞く。

隣町の大きな問屋が御取潰しにあって売られていったおひいさんの話なんかを聞いたりもするけれど

なんだかなまえにしてみれば遠い世界の話に聞こえて

自分が身売りをするなんて、嫌悪感より何よりちゃんちゃら可笑しく成って来る。

なまえがけらけら笑って見せると、土方は一層眉間を深くした。



「暇潰しなら他所を当たれ。俺は忙しい。」

「あゝ、待っとくれよ。悪かったよ。」



立ち去ろうとする土方の裾を掴んで引き留める。

苛立たし気に見下ろす彼の顔をまじまじと見上げてみると、思ったより男前だった。



「土方さん、あたしと蛍を見に行っちゃくれない。」

「何故俺がお前を連れてかなきゃなんねぇんだ。」



なまえの育った長屋から歩いて多少行った川の蛍は見物だと、毎年この時期になると聞かされる。

母も昔は父と行ったものだと、菜種油の針仕事の合間に聞かされたが

なまえが蛍を見に行く事は許さなかった。



「うちはおっ父もお兄も、流行り病で亡くして居るだろう。

だから女が一人で日暮れにうろついちゃ危ないって、首を縦に振らないのさ。」



数年前に父と兄を立て続けに亡くし、それでも何とか母一人子一人で生きて来た。

まぁ似た様な家は他に幾つも知って居るし、普段は何とも思わないけれど

こう云う時程不自由を感じたりする。

土方はなまえが裾を掴むのを、振り払わないまま思案顔をした。



「だからってお前、初対面の男と見に行くのは了見できんのか。」



馬鹿正直に話せば、厳格な母の事だ屹度了承しないに違いない。

とは云え確かに日暮れの女の一人歩きが危険と云う彼女の主張も一理ある。

けれど、見たいものは見たいのだ。

つまり母に気づかれないよう首尾よく抜け出し、無事に帰宅すれば良い話で

だからこそ腕の立ちそうな男を探して声を掛けたのだ。



「後生だよ、土方さん。あたし、一遍で良いから蛍が飛ぶのを見たいんだ。」



袖をついついと引っ張って駄々をこねると、土方は呆れたように溜息をつき

何度かの押し問答の末、結局折れる事になった。

押しの強さと口の回りじゃちょっとしたもの、なまえが満面の笑みで礼を言っても

土方の表情はにこりともしなかった。












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