Fall
















永年付き合った男に裏切られた。

会えば金と体を強請ってくるのは仕方ないと思っていたし、借金があるんじゃないかということも薄々気づいていた。

しかしまさかなまえ名義で9桁近い金額を拵えているとは思わなかったし

他に何人も女を囲っていたと知った時なんかは、怒りや悲しみを通り越して乾いた笑いしか出なかった。

怖い人たち、たぶん、俗に云うヤクザたちがなまえのマンションまで押しかけてきて数々の事実を突きつけながら

憐れむような猫なで声と、恫喝を繰り返すのを享受していた初夏の夕方。

風だろうが水だろうが、なんでもやってやろうと心に決めた。

外道な男が拵えた負債だけれど、見る目がなかったのは自分の落ち度。

自分のケツは自分で拭いてやろうじゃないかと歯を食い縛ったあの日から

もうすぐ5年が経とうとしている。



「今日は、遅くなりますか。」



峯の肩にスーツのジャケットを羽織らせながら、背中からなまえが問う。

一呼吸間があって、峯がほんの少しだけ振り向いた。



「いや。」



それだけ答えて峯は玄関へ向かった。

出勤する彼の背中に何も言わず頭を下げ、扉が閉まってから10秒数えて頭を上げる。

帰宅はおそらく20時頃、いつも通りだろう。

なまえは寝室へ峯の洗濯物を取りに踵を返した。



水でも風でも漁船でも、と啖呵を切ったなまえを見下ろす男たちの向こうで

濃紅のスーツを着た男がちらりと眉を上げた。

揶揄うように可哀想な奴、と嗤う男の向こうからぽつりと

それなら、良い所を紹介してやろうと口を開いたのが、峯だった。

そのまま高級そうなマンションに連れていかれ、室内をぐるりと案内されて

いくらかの金を渡すと、彼は今日からここに居ろと素っ気なく吐き捨てた。

軟禁かと訝しんだものだけど、買い物も美容院も出かけられるし

外部との連絡手段に携帯まで与えられた。

すべてを失ったと思った初夏の陽が落ちると、なまえは家政婦になった。



「いいのに、畳まなくても。」



ベッドのシーツは峯が起きた形通りに乱れてはいるけれど、その上に置かれた室内着はきちんと畳まれている。

掃除といえば汚れた室内を片付けるものだとばかり思っていたけれど、峯という男は

すぐになまえが片づけてしまう部屋着のひとつまでをキッチリ畳む男だった。

神経質なのかと云えば確かにそうだけれど、例えばなまえが熱を出して寝込んだりなんかした日には

少しだけホコリの積もった飾り棚を見ぬふりをしてくれる。

なまえは洗濯物を洗濯機に入れて回している間に、朝峯が使用した風呂を洗った。

洗剤で隅々まで洗い上げて、換気扇をつけながら乾いたタオルで拭きあげる。

何もそこまでしなくてもきっとその内乾くのだろうけれど

彼に湿った浴室は似合わない気がした。



「魚、にしようかな。」



一通りの掃除と洗濯を終えると昼を過ぎていた。

洗濯物が乾くまでの時間に買い物に出かけてしまおう。

ついでに先日出したクリーニングを受け取って、なんて考えながら冷蔵庫をのぞき込む。

彼は肉より魚を好むようだ。

葉野菜、根菜、豆腐等の蛋白質、季節の果物は欠かさず食卓へ並べた。

峯はなまえに家政婦のような仕事を強いる割に、食卓を一緒に囲むよう望んだ。

食卓に会話はほとんどなかったけれど、緊張も解けてきた夏の終わり頃

旬を終えようとしている胡瓜を残す様をなまえは咎めた。



「…お嫌いなんですか、胡瓜。」

「嫌い、というわけではない。」



言いながら彼は胡瓜の酢の物には手をつけなかった。

酢が嫌いなのかとも思ったけれど、パプリカのマリネはよく食べる。



「好き嫌いは、あんまり良くないですよ。」

「食べる必要がないだろう。」



それから峯は胡瓜の栄養素がほとんどないこと等をぽつりぽつりと列挙しながら

結局酢の物には手をつけずに食卓を終えた。

なんとなく胡瓜には栄養素がほとんど含まれていないことは知っていたけれど

なまえは次の日の朝食も、夕食にも手を変え品を変え胡瓜を供した。



「栄養も大事ですが、旬のものには意味があるんですよ。」



明らかに眉間に皺を寄せた峯になまえがぽつりと言い放つ。

片手にはよく冷えた麦茶を、夏らしいグラスに注いで渡した。



「意味か。」

「少なくとも、水分は摂るべきです。お出掛けになるのですし。」



麦茶を冷蔵庫に仕舞ったなまえが食卓に着くと、峯は不服そうに食事を始めた。

相変わらず胡瓜は見て見ぬふりをしていた。



「ククルアスコルビン酸には、癌を予防する働きがあるそうです。それから、イソクエルシトリンは老廃物の排出を促す作用があります。」



夕方、商店街へ出掛けたついでに本屋で立ち読みした大きな本を一生懸命覚えた。

どうしても胡瓜を食べて欲しいというよりは、どうしても彼を納得させたかった。

峯はすらすらと、練習した口上を言い切るなまえに一瞬目を丸くした後

消え入りそうな声で、これは嫌いなのだと認めた。












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