漫ろ
休日でもいつも通りの時間に起きてしまう、几帳面な体内時計が煩わしい。
それでもいつもより30分程寝坊して、朝の暖かいシーツを堪能すると
伸びをしながらなまえがリビングへ向かった。
同じ時間にセットしたコーヒーメーカーからコーヒーを注いで、カップを片手に持ったまま玄関先の新聞受けから新聞を取りだす。
「いたッ!」
一面をさらっと流し読みしながらダイニングに腰掛けようとした瞬間、
なまえの素足が何かを蹴り飛ばして痛みが走った。
「おはよぉ。早いねぇ。」
「おはよじゃないよ。」
物音に品田が起きてくると、リビングではなまえが苛立たし気にピンク雑誌をつまみあげていた。
昨夜、新規開拓の参考にと買ってその辺に放置していた男性用雑誌だ。
「その辺に置かないでよ、こういうの。」
「なまえちゃんがぼーっと歩いてるからでしょ。」
勢いコーヒーを零して少しやけどしてしまった指を冷ましながら、なまえが雑誌をダイニングテーブルの上に放り出した。
粗暴な物言いに品田がムッとすると、なまえはしらっと明後日の方を向いた。
「辰雄って、壊滅的にデリカシーないよね。」
いつもなら淹れてくれるコーヒーは出てこないまま、なまえはさっさと身支度を整え
飲み切ったコーヒーメーカーのドリッパーを水で洗うと、出勤用のバッグの口を開いた。
その間、二人の間に会話はなかった。
「あれ、今日休みじゃないの。」
不貞腐れた声で品田が問うと、乱暴に定期を突っ込んだなまえが最後に携帯をバッグに放り投げた。
「休みじゃなくても、やることあるのよ。」
「なんだよ、せっかく休み合わせたのに。」
月のほとんどが休日のような品田からしてみれば、休みを合わせるのは簡単だった。
問題はなまえの方で、会社員を辞めて独立してからというもの
出勤しないまでも仕事を一切しない日等は、年に数日あるのがやっとだった。
「合わせるって、何よ。」
なまえが半笑いでバッグを持ち上げる言葉尻には、そういった背景が匂っていて
ただでさえ機嫌を損ねていた品田の苛立ちが募ってしまう。
「なんだよ。何か言いたいことあるなら、言えば。」
「別にない。」
相変わらず不機嫌な声でなまえが返すと、さっさと玄関へ向かって行った。
腹の虫が収まらない品田がドタドタと足音荒く、なまえの後を追いかけた。
「そりゃなまえちゃんはカッコイイ仕事かも知んないけどさ。俺だってそれなりに人の役に立つ仕事してんだから。」
専門職で資格持ち、東京の23区内に小さいとはいえ独立した自分の事務所を構える程なのだから
世間的に見てかっこ良いのは、明らかになまえだった。
そんな引け目もあってか、ハイハイと受け流すなまえに
つい語気強く迫ってしまう。
「可愛げがないんだよなぁ、なまえちゃんは。顔だって別に可愛いわけじゃ…」
右足の踵をパンプスに入れようとした姿勢のまま、なまえの後姿がぴたりと止まった。
流石に言い過ぎたかと品田は口を噤んだけれど、吐いた唾は飲めない。
「…あっそ。」
それだけ呟くと、なまえは振り返りもせずに玄関を出て行ってしまった。
重い扉が閉じられると、室内は一層しぃんと静まり返った。
「…なんだよ、腹立つなぁ。」
ぶつくさと怒りの遣り所が見つからぬまま、品田はリビングに引き返した。
キチンと畳まれた新聞の隣に、だらしなく折り目等が付いたピンク雑誌が並んで居て
その拍子には半裸の若い女が誘うような目つきをしていた。
「あの仕事馬鹿。いつか倒れても知らないからな。」
言いながらピンク雑誌を広げ、自分の煙草を手探りで探した。
ダイニングの上に合ったひしゃげたソフトケースは柔らかくくしゃりと潰れ、中が空だったと思い出す。
なまえに貰い煙草でもすれば良いと、コンビニに寄らずに彼女の家に来た夕方を思い出した。
仕方なくケースを握り潰し、ならばせめてコーヒーでも飲もうかと
なまえが綺麗に洗ったドリッパーを乾燥棚から取り出し、コーヒーメーカーに置いた。
「えーっと、何、どれ、スイッチ。」
機能美だけを追求されたようなデザインのコーヒーメーカーは、どの角度から見ても
物理的なスイッチは見つからなかった。
なまえが淹れていた様を思い出し、何やらオレンジ色のマークが光っていた気がする場所を指でつついてみたけれど
何の反応もなかった。
「コーヒーは身体に悪いからね。なまえちゃんはいつも飲み過ぎなんだよ。」
家でも品田がテレビを観ている横でノートPCを弄りながら、なまえは1時間に軽く3杯を飲んでしまう。
カフェイン中毒なのだと自嘲していた横顔を思い出しながら、品田は誰にともなく言い訳をした。
「紅茶、あったはず。」
几帳面ななまえの簡素なキッチンは、調味料ひとつとっても棚に収納されていた。
以前なまえが貰い物だと紅茶を飲んでいたのは、そんなに昔じゃないはずだ。
やっぱりコーヒー派だったと苦笑いしていたなまえの様子からしても、まだ余っている可能性は高かった。
「朝から紅茶なんて、優雅だねぇ。」
気晴らしに鼻歌でも歌いながら、品田は鍋に水を張ってコンロに掛けた。
しかしながらふつふつと気泡が立ち始めても、品田は茶葉を見つけることが出来ないで居た。
がさごそとあちらこちらを探しながら、よくわからない調味料や
日本語じゃない文字の書かれた缶等を手あたり次第に開けたり、匂いを嗅いでみたけれど
そのどれからも紅茶らしい匂いはしなかった。
「…これ、まずいやつじゃん。」
冷蔵庫を開けて卵を発見し、焼いて食う位なら出来るだろうと思ったところで
品田がぱたりと冷蔵庫を閉めた。
若い頃は『ありえねぇ』と鼻で笑いながら聞いていた、どこかの失恋ソングを
まさか今頃になって自分が追随しているとは。
この流れで朝食を作っても、絶対に不味くなると野生の勘が告げていて
仕方なく品田は冷蔵庫の中の牛乳をコップに注いで空腹を紛らわした。
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