鰹と、味噌汁とサラダと煮物を食卓に並べる。

白米は綺麗に炊き上げて、いつもの食器に盛って並べた。

ご機嫌を伺うわけではないけれど、胡瓜は出さないでおいた。



「…美味しいですか。」



無言に耐え切れずなまえが問うと、ぴくりと峯の箸が止まり無言で頷いた。

レタスを咀嚼する音すら聞こえてきそうな、重苦しい食卓をさっさと平らげて

峯はまた自室に戻っていった。

白米には手をつけなかった。



重たい気分のまま、スポンジを泡立てて食器を洗う。

不快だったのだろうか、それともただ単に仕事が忙しいのだろうか。

いつもなら峯は食事の後、珈琲を飲みながらリビングで過ごす。

音楽を聴いたり、本を読んだりするソファの中央より少し左側に腰かけて

君も飲みなさい、と珈琲を促す。

特に会話もないけれど、一日の恒例行事のひとつだったし

なまえにとっても一日のうちで唯一ゆったりできる、なんとなく幸せな時間だった。

美味しいですねと何気なく告げた夜、峯は豆の種類を問うと

次からはこれにしろと優しくない口調で告げた。



「おい。」



カチャカチャと食器を洗う音に交じって、背後から峯の呼ぶ声が聞こえる。

振り返ると、ダイニングの向こう側で峯が様子を伺うように立っていた。



「それが終わったら、来てくれないか。」



泡の立つスポンジを認めて、峯はそのまま部屋へ引き返していった。

峯の部屋へは掃除以外の目的で立ち入ったことはない。

ここへ連れてこられた日、案内された彼の部屋の大きなベッドを見つめて

きっとあそこで夜の相手をさせられるのだと思ったものだけれど

峯はついぞ、なまえにそんな関係を求めてきたことはなかった。



いや、一度だけ、ここへ来て1年が経とうかという頃にあったかもしれない。

今のように食器を洗うなまえの隣へそっと立ち寄って

蛇口から勢いよく流れる水に塗れたなまえの手を、遠慮がちに少し触った。

冷たい水が彼の指を濡らしたのを、よく覚えている。

峯の目線は横顔に痛い程感じていたけれど、握った皿から目を離さないまま

受け入れることも、拒否もしないなまえの手はそのまま握られることはなかった。

今思えば、峯がなまえに触れたのはそれが最初で最後だった。



キチンと食器を乾かして、エプロンを外すと洗濯物籠に入れた。

家政婦なんていうからにはフリフリの白いエプロンを着用するのかと思っていたけれど

彼はやっぱり地味な、機能性に特化したシンプルなエプロンを好んだ。

ついでに珈琲を持って行こうと、盆にいつものセットを置く。

ご機嫌伺いをしているのかと自答して、すぐにその考えを追い出した。

違う、ただ、仕事をしているだけ。

3度ノックすると、入室を促す声が聞こえた。



「何でしょう…。あ、珈琲も。」

「あぁ、助かる。」



部屋は広く、ベッドの他にソファもデスクもある。

かつてなまえが住んでいたワンルームがまるまる入ってしまいそうな部屋のデスクで

峯はソファに座るよう促した。

ソファに腰掛ける前にデスクの上に珈琲を置きながら、この殺風景な部屋に

花でも置いたら彼は嫌がるだろうかと考えた。



「渡すものがある。」



デスクの上の珈琲に手をつけずに、峯は紙袋をひとつソファに置いた。

なまえがのぞき込むと、束のついた新札がびっしりと入っていた。



「え…」

「君の今までの給料だ。近い内、良い部屋が見つかり次第、どこへでも行け。」



ご苦労、と言い切った峯はそれきりデスクに戻り、やっと珈琲に口をつけた。

借金のカタにここへ来たはずなのに、給料が発生するなんてありえない。

戸惑いながらなまえがデスクに詰め寄った。



「あの、でも、借金が…。」

「君に借金なんてものはない。」



外道な元彼の拵えた借金は、彼が文字通り身を削って返済したのだと峯は教えてくれた。

強調された語句に、彼はもうこの世にいないのだと知った。

いや、ある意味この世に居ないだけとも云うべきか。



「君なら、どこへ行っても困らないだろう。」



火をつけないまま煙草を指先で弄んで、遠くを見たまま峯が呟く。

それが夕方の米屋の件を指していることにすぐ気が付いてしまう程には

なまえと彼は永いこと過ごしすぎた。

無表情の峯の横顔が悲しそうだとわかる程には

なまえは彼を見つめ続けすぎた。



「…あなたは、私が好きだったんですね。」

「そんな訳ないだろう。」



夕立は、結局止まなかった。

明日晴れたら、カーテンを洗濯しようと思っていた。

明日の朝食には卵を、彼の好きな温泉卵にしようと思っていた。

活ける花はシクラメンなんかが華やかで良いだろうと、考えていた。



「知りませんでした。」



紙袋を持ち上げるととても重く、中で札束がゴロゴロと崩れ落ちた。

給料なんて呼んでいいほど、ちゃちなものじゃないことは一目瞭然だった。

そういう男なのだ、峯は。



「…そんな訳、ないだろう。」



ほんの静かな音量でぽつりと呟いて、峯は煙草に火を点けた。

朝磨いた灰皿は、昔に比べれば随分と本数が減っていて

良かったと安堵のため息を漏らしたばかりなのに。

なまえが紙袋を下げてゆっくりと部屋の扉へ向かうのを、静かに峯は見つめていた。

冷たいドアノブに手をかけるなまえの背中を、もし、と低い声が呼び止めた。



「もし、いつか、君が自分の意志で戻ってきたら、その時は、」



細心の注意を払って選ばれたような言葉を、絞り出すように峯は呟いた。

振り返るなまえと見つめ合ったまま、彼は結局続きを口にすることはなかった。

雨が窓を叩く音しか聞こえない室内で、なまえはゆっくりと扉をくぐり閉じると

静かに、静かに泣いた。















君の愛へ落ちてして








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