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一体、私の喉を締め上げているこの腕は、つい先ほどまで丁寧に包帯を巻いてくれていた人と同じ腕なのだろうか。医術を施してくれているときはこのうえなく繊細で優しく見えた指が、今、強く荒々しく私の皮膚に食い込んでいる。ああ、それより強く私の心にすら突き刺さるのは、この人の、眼だ。





「取り消せ」

セシルを壁際に追い詰め、細い喉元をその大きな手で締め上げつつ、口付けるのかというくらいに顔を寄せながら彼は言い放った。セシルは何かしらの声を発しようとするのだが、容赦ない力加減に、喉から出てくるのは掠れた細い呼気のみ。言いたくても言えない状況を分かっているのかいないのか、彼の力は緩むことはない。なんとか締め付けの隙間から酸素を求めるが、どうしたって十分な量は取り込むことができず、次第にぼうっとし始めた彼女の脳裏になぜか響くのは、少し前に彼から聞いた言葉だった。

――俺と来るか?

セシルが解放されたのは本当に突然だった。艶のあるテノールが降り注ぎ、土と血にまみれた顔を上げれば、黒い革靴、薄い色のデニム、派手な色のパーカー、それに愉快そうに笑みを浮かべた彼がいたのだ。もっとよく見ようと上体を持ち上げようとすると胸に激痛が走り、思わずぐうと苦しげな声を漏らすセシルに、先日出逢ったあの白熊が寄ってくる。白熊の手を借りて辺りを見れば、胴体と手足が切り離された無残な姿で地に転がる自らの主人が見えた。血が流れていないことなんてその時は気づくわけもなく、あ、死んだ、とセシルは思い込んだのだった。

「ベポが世話になったそうだな」
「……?」
「お前を助けろと言ったのはベポだ。半分はベポに感謝しな」

食材を買いに行くとき道に迷った白熊を案内し、地響きかと思うほどの腹の虫が鳴り続けていた彼に、持っていた弁当をあげたのは先日の話。そのため決まった食事の時間を過ぎてしまい主人が激怒したことも、夜通し折檻され続けたことも、朦朧とする意識のまま機嫌の直らない主人に連れ回され、些細なミスのせいで人前で思い切り胸を蹴られたこともセシルにとってはいつものことで。だから何に"感謝"したらいいのかよく分からなかったけれど、こういう場合何と言うのが適切かは理解していたので小さく「ありがとうございます」と呟けば、浮遊感とともに白熊にほお擦りされた。見た目ほど柔らかくない白熊の毛がチクチクと頬に刺さったが、不快な感触ではなかったのでされるがままになっていると、ベポに抱き上げられたセシルを眺めていた彼は言ったのだ。まるでその辺に散歩に行くような調子のあの一言を。





かくして仕えるべき主人を失った奴隷がどこぞに戻れるわけもなく、セシルは彼についていった。というよりは身体が動かなかったので連れていかれたと言ったほうが正しいが、元より法が及ばぬ身であるので彼らが海賊であるということは全くと言っていいほど気にならなかったし、無闇に殴られたりしない点では前の主人よりもはるかに気楽な身分であったといえる。もっとも怪我は思ったよりも酷く、しばらく安静を要するハメにはなったのだが。更に、少しでも回復したら男所帯での性奴隷か、さもなければ死ぬほどこき使われることを覚悟していたのに、クルーたち、特にベポから至れり尽くせりの介護を受けたのもセシルには予想外だった。完全に治ってから酷く扱ってやろう、という下心からでもないようなのが彼女には心から不思議でならない。

そして、ようやく完治したというタイミングでセシルは船長に激怒されているのだった。

「だっ……て……」

言葉を絞り出そうとしているらしきセシルの姿に、ローは喉から手を離した。彼女が酷くむせているのには構わず、沈黙を守ったまま彼はセシルの手首を捉え、冷えた壁に押し付けた。

「別に、生きたくて生きてるわけじゃないんです。ずっとそうでした」
「セシル」

再び同じ台詞を繰り返したセシルに、ローは彼女の手首の血が止まるかと思うほど強く握りたてる。海王類に遭遇しようと敵襲があろうと何だろうと淡々としていた彼のむき出しの感情に触れたセシルは、奴隷時代の刷り込みもあって、ひっ、と喉の奥で悲鳴を上げた。殴られる、いや殺されるかも、まあそれでもいいかと思いながらも瞳を開けられずにいると、意外なほど柔らかい、低い声音が耳朶へ染み込んでくる。

「死んでもいいと思えるヤツなら、あそこで見捨ててる。現にあのまま放っておいたら、お前は死んでた。ひでェ怪我だったからな」
「だったら、どうして生かし」
「俺が、生かしたいと思ったからだ」

どくりと血がざわめいた。掴まれた手首から、はっきりとした脈拍の高まりが彼に伝わり始める。ローは手のひらに強い脈動を感じつつ、なおも力を緩めない。開いた瞳は、だが伏せたまま、セシルは訥々と思いを口にし始めた。

「奴隷にもお優しいんですね。新しいのを買えば、もっと安く済むのに」
「阿呆か、お前」

は?
単純な疑問符を口にしかけて、セシルは慌てて呑み込んだ。主人に逆らうのはご法度だし、何より明らかに口答えしすぎた。だが、彼女を見下ろすローの瞳は先ほどより幾分か優しい。呆れの色を滲ませつつ真っ直ぐ見つめてくる眼が無性にセシルの鼓動を速くする。最初よりは慣れたものの、彼と目を合わせることすらセシルには一苦労なのだ。彼の眼差しは強すぎるから。

「お前のことを奴隷だなんて思ったことは一度もねェ」
「え……。じゃ、なんで私を……」

ベポが。
握る力は弱めないまま、彼が囁いた。

「お前の弁当が美味かったと」
「あ……」

思い浮かぶのは、あの優しい白熊だけではなかった。主に調理場担当の奴隷だった過去を生かして得意な料理を作れば冗談かと思うほど大いに喜び、気配りの行きづらい隅をちょこっと掃除すれば心から感謝してくれ、口々に「助かってよかったなぁ」「怪我はどうだ」と声をかけてくれるクルーたちとの日々。そして、必要なこと以外はあまり喋らない船長に治療される、夜更けの穏やかなひと時。望んでも得られないから、いつしか望むことすらやめてしまった温かなものが、確かにここにある。

「俺が誘った。つまりお前は、もう、うちのクルーだ」
「え」
「あいつらもそう思ってる。お前が治ったら正式な入団祝いの宴会するんだってキャスが言ってたぞ。完治するまで酒は飲めねェしな」

押し殺し続けた感情が堰を切って溢れ、涙となって流れ出た。ローは涙の一筋が零れたとき両手の力を緩めたが、泣き止まないセシルを見て、ゆっくり自分の腕の中に巻き取った。指跡の付いた手首を二三度擦れば、しゃくり上げながらセシルが訴える。

「痛い、です」
「ああ、そうだろうな」

2人の言う"痛み"が意味するものは全然違うのだが、会話としては成り立っているのでよいのだろう。年齢の割りには肉の薄いセシルの体は誂えたようにローの胸にすっぽりと収まって、後から後から溢れ出る涙は彼の洋服をしとど濡らした。ぱさついた髪の毛を何度も撫でる彼の手はセシルを泣き止ませるには逆効果だが、彼は手を止めはしない。これが彼なりの謝罪の仕方だと彼女が気づくのは、もう少し後のことだ。

「ごめん……なさい」
「次に同じセリフ言ったら許さねェぞ」
「はい」
「……まあ、コックが1人じゃ足りねェと思ってたところだし」
「はい」
「"アレ"、もう一度食いてェし」
「はい。……え? "アレ"って……」


玉子焼き。


ベポからもらった、と目をわずかに逸らしてローが呟く。確か白熊にあげた弁当に入れていたのは、幼いころ母から習った甘い甘い玉子焼き。意外すぎる答えにセシルはつい微笑んだが、彼は見逃さず、無言で彼女の頬を思い切り引っ張った。そのどこか心地よい痛みに、セシルはまた「ごめんなさい」と囁き、清らかな涙を流す。

Cry with Pain(×Law)

→Stardust is my tears T(×Law)
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エネル企画「ごめんなさい。」提出
りょう様、素敵な企画をありがとうございました

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