油断大敵。
一瞬の油断が生死の別れ道だということくらい、幾度もの死線の中で身に沁みているはずなのに。
どう考えても不意打ちに動揺してしまった自分を後悔してももう遅い。どうしてこうも自分は動揺させられてしまうのだろうと、つくづく思う。とりわけこの女の前では、不意に危機的状況に陥ってしまう。
どういうわけか、突然に。

「…な」

何言ってんだ、と言いかけたはずが上手く言葉にならずに消えていく。我ながら間抜けだ。開いた口が塞がらず、一滴の汗が首筋を伝うのを感じながら、目の前で涼しげにいる女の顔を見た。自分はこうも動揺しているというのに、顔色一つ変えず展望室の窓際で外を眺めているナミを見ると、余計に自分が腹立たしくなる。
そもそも、この態度が気に食わない。
俺はこのジムも兼ねている展望室で、いつものように体を鍛えていただけの話。そこへ突然、ナミが一人蜜柑ジュースを持って現れた。搾りたてだと言いながら渡された差し入れに喜んだのが、すでに遠い記憶のようにすら感じる。事態が急変したのはその直後。
手にしていたダンベルを置いて汗を拭き、蜜柑ジュースを受け取ってゴクリと飲んだ。筋トレのせいで熱の上がった体に、よく冷えたジュースが調度いい。差し入れありがとう、と礼を言おうとナミの方へ顔を向けたと同時に、窓際に備え付けられたソファに座ったナミが口を開いた。

「好き、って言ったらどうする?」

自分の心臓がドクンと跳ねた。グラスを持つ手に力が入る。あまりに唐突なうえに脈略の無い問い掛けに、訳も分からずたじろいだ。
動揺する、取り乱す、たじろぐ。
どれも自分の未熟さを表すようで、何よりも腹立たしい。まるでガキじゃあるまいし。何をそんなに取り乱す必要があるのだと自分に言い聞かすが、早まる鼓動を鎮めることもできず、ただ唖然としたままナミを見返すことしかできなかった。肝心のナミは視線を合わすどころか、ただ窓の外を眺めているだけ。
この態度が気に食わない。
一人で焦る俺が馬鹿みたいじゃないか、と心の中で叫んだ。

「な…何言ってんだ」

不甲斐ないとはこの事だ。やっとの思いで出た言葉がこれかと思うと情けなくて仕方ない。そもそも、何て言い返すべきかもろくに浮かばずにいた。
答えよりも疑問ばかりが頭に浮かぶ。どうしてこうも唐突に、こんな難解な問いを投げかけてくるのか。
一番重要なのは、これが本心から出た質問なのかどうかだった。
ナミの横顔からは、その答えもわからない。
このまま不毛な時間ばかりが過ぎていくのかと思われたその時、突然ナミが顔を向けて口を開いた。「だからぁ」と話し始めた口調は微かに苛立ちを帯びている。この状況の何に苛立っているのかと、また一つ疑問が増えた。

「嬉しいとか、迷惑だとか!」

どう思うかって聞いてんのよ。
今度は真っ直ぐ俺の目を見て言うナミに、不覚にも再び心臓がドクンと跳ねた。あまりに鋭く見つめるその瞳にたじろぎながら、口を開いて言葉を返そうとしたと同時に、ナミが突然立ち上がった。「もういいわ!」と言い捨てて梯子へ向かう姿を見て、ちょっと待てともう一人の自分が頭の中で喚く。
俺にも言いたいことがある。

「嬉しいに決まってんだろうが!」

展望室を出ようとするナミの手首を掴み、気付けば大声を上げていた。まるで、そうでもしなければ当の本人に届かないかのように。
ゆっくりと振り向くナミの動揺した顔を見て、ああさっきまで俺はこんな顔してたのかと妙に納得した。今度は俺の番だと知らされたようにも感じた。

「俺はお前が、好きなんだから」

大きな瞳を丸くしたまま、真っ赤な顔して俺を見返すナミを見て、自分がしたことの意味を理解した。もう後には戻れない。
まあいいか、と心の中で呟いた。

好きなことには、変わりない。













- ナノ -