13、約束

この町は掃き溜めだ。誰かが灯した明かりが、明日また灯ると約束することなど出来無い。人は皆、その日その日を精一杯に生きていくのがやっとだった。

だのに。

ネズミは大袈裟なため息をついた。

「だって、昨日約束しただろ? 明日なら良いって」

「約束? あんたが勝手にそう思っただけだろ」

背中にぴったりと合わされるのは紫苑の胸。その両腕はネズミの体へと回されて、強く、けれど優しく抱き寄せてくる。そして、もどかしげにネズミの返事を待っていた。ネズミが頷けば、紫苑の指は直ぐにネズミのボタンを外すだろう。

昨夜、ネズミは重なるアンコールに応え、帰りが遅くなっていた。銀貨を弾む算段をつけ、一曲余計に歌ってもきた。だから疲れていたのだ。恵まれた食生活を送っている訳ではないから、舞台に上がれば一晩で体重が落ちることも珍しくない。シャワーで汗を流すのがやっとだった。

「だから僕は我慢したんだ」

異質な世界に放り込まれ、男二人で生活するようになったから、他への捌け口が無い。そんな理由では済ませられないくらい、紫苑がネズミに向ける執着は強かった。沙布に対して鈍感というより朴念仁に近い男であったのにだ。

「紫苑、あたってる」

「それが何? 僕は、今にも君をめちゃくちゃにしてしまいそうなんだ」

ネズミの腰に押し付けられる紫苑の昂りは、二人の衣服を通しても伝わってくる。ネズミは観念すると肩の力を抜いて、紫苑の胸へ体を凭せかけた。

「約束はどうかは別として、確かに俺が言い出したことだし、無事『明日』が来た訳だしな。好きにしろ」

「嬉しいよ、ネズミ」

紫苑はネズミの体をさらに強く抱き締めると、ベッドへと誘った。深い色の髪がシーツへと広がる。灰色の切れ長の目が紫苑を見上げる。紫苑は薄く開かれたネズミの唇を塞ぎ、ゆっくりと歯列を割った。

「ネズミ、ネズミ、」

熱に浮かされたように紫苑が名前を呼ぶ。魂の奥底から湧く声音が耳元で響くたび、ネズミはきつく目を瞑った。

考えたことも無かった自分という人間の価値を、この汚れた土地で復讐の為に生きてきた自分という人間の価値を、紫苑と同列に置く訳にはいかない。

普段は決して言葉にしない想いが零れそうになり、腕で顔を覆って背ける。けれど紫苑の眼差しで射抜かれ、唇でほどかれ、肌で温められると、彼の純粋さに縋ってしまいそうになるのだ。汚れた自分を忘れそうになる。

「本当の俺は、あんたと約束を交わせるほど、綺麗じゃない」

そんな一言すら、喘ぐ吐息へと変わっていく。

「好きだ、ネズミ」

優しい声が響く。体の奥を割り開いていく熱を感じながら、流れる涙の意味だけは隠しておきたかった。




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