恋人ごっこ「もう、いいや」
「ん、何?」
「ファイと一緒にいるの、楽しくない」
ピシ。
ガラスにヒビが入ったみたいな、水溜まりに張った薄い氷を踏みつけたみたいな、そんな乾いた音が心臓に響く。
直後に襲いかかるのは痛みだ。物理的な、病的な痛みじゃない。
ズキンと一度だけ高ぶり、そしてじわじわと広がってくる痛み。
「…楽しくないってのは、つまり、」
「楽しくないの」
だって、あなたは。
「ミヤビちゃん」
「触らないで…」
だってあなたは、わたしに"あなた"を見せようとしない。
「ファイが分からないよ…」
そうしてまたわたしに手を伸ばす彼のそれを振り払い駆けるけれど、ほらね、追いかけてきてはくれない。
彼は、わたしと深く関わりあうことを恐れている。
「…ミヤビちゃん、帰ってきてないの?」
宿に帰ったファイは部屋を見渡し、気まずそうに言った。
居間にいるのは黒鋼一人だけ、そしてその黒鋼は、朝一緒に出掛けたはずのミヤビとファイが二人で帰ってきていないことに怪訝な顔をする。
「帰ってきてねぇ」
「お前ら一緒だったろ」と問う黒鋼に、「そうなんだけど……」と曖昧に答えるしかないファイ。
視線を泳がせ、どう説明したらいいのか考えているのだろう。
しかしそうしているうちにファイの背後のドアが静かに開き、ちょうどミヤビが姿を現した。
「ミヤビちゃ…、」
「ただいま」
「ああ」
するりとファイの脇を通り、さっさと自室へ入っていってしまう。
「………」
それを確認した黒鋼は、ファイに視線を戻した。
「痴話喧嘩でもしたのか」
少し声をひそめ、問いただす。
肩を落としたファイは黒鋼の向かいに座り、ため息をひとつついて「あのねー、」と、やはり笑顔を貼りつけながら言った。
その笑顔も、今となってはとてつもなく不自然な出来となっているが。
「振られたかもーー」
黒鋼がその意味を理解し「は?」と聞き返すまで、とてつもなく長い時間を要した。
「うー」
ミヤビの部屋にて。
彼女はベッドの上に寝転がり、枕に顔を沈ませながらようやく止まった涙の伝った跡を拭っていた。
コンコン
「…だれ」
突然のノックに出した声が涙にしゃがれていて、慌てて咳払いをして応急処置。
返答がないのでドアに歩み寄り、開けようとノブに指先が触れた瞬間に静かに向こうから聞こえてきたのは…。
「##NAME1##ちゃん………?」
今、いちばん聞きたくて聞きたくない声。
知らんぷりをしようと身を翻そうとすれば、「ねぇ」と再びかけられる声。
わたしもそのまま毛布にくるまればいいのに、その切なそうな声についつい立ち止まってしまう。
「ミヤビちゃん。そこにいるんでしょう?」
「…いない」
「うそ。いるでしょ。すぐそこに」
「いないもん」
「いる。オレには分かるよ。今、居留守使おうとしたよね」
かちゃり。
ゆっくり回ったドアノブが最後まで回りきり、ドアが開く音が背後でする。
きっと気まずそうな顔をしているだろう。
でも、振り向いてはやらない。
「ミヤビちゃん」
「…」
「ミヤビちゃん」
「……何」
「ごめんね」
「ッ…!!」
背中を覆い尽くす、温もり。
耳をくすぐる、ファイの柔らかい髪の毛、吐息。
抱き締められたのだと気づくのにそうそう時間はかからなかったが、許せない気持ちが心を蔓延っているからか、素直に受け入れることはしなかった。
「やめて」
「いや。こうしていたい」
「ワガママ言わないで」
「お互い様でしょう?」
そうしてさらに力を込められる。
彼からこんなにも強い力で抱き締められ、嫌だなんてワガママを言われたのは初めてではないか。
「…黒様にねー、怒られちゃった」
叱られた仔犬のような声で耳元で呟かれ、首をすぼませる。
「"お前が悪い"ってさ。…うん、オレが悪いよね」
そんな声で、そんな悲しそうに喋らないでよ。
「オレは君のこといっぱい知ってるのに、君はオレのことをひとつも知らない。そりゃそうだよね、何も教えていないもんね」
正面で向き合い、目を見つめあう。
わたしは彼の蒼い目を、彼はわたしの薄茶の目を。
そこから繋がり感じあうのは。
「今までオレ達がしてきたのはただの"恋人ごっこ"だ」
"恋人ごっこ"。
その言葉の響きが妙に芯にこだまする。
「!」
同時に背中の温もりが消え、目の前が暗くなって、感じるのはよく知っている唇の感触だ。
それは長くわたしの唇を奪っていたけれど、ふと離れ、極限に近い距離のままファイは口を開いた。
「待たせてごめんね。……これから、ゆっくり共有していこうよ?時間はかかるけれど」
いきなりのキスに赤らんだ顔のまま微かに首を縦に振るわたしをファイは優しく笑い、また唇を重ねた。
恋人ごっこもあしたまで
(了)
※お題配布元…確かに恋だった 様
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