彼の背後から静かに忍び寄って、「く、ろ、が、ね」とわざともったいぶらせた風に呼んでみる。


「あー?」


何とも気のない返事が返ってきた。

だけど、今はそれでもいいと思えるのだ。


「黒鋼」


もう一度。


「何だ…っと」


耳元でその声が聞きたくて、彼の大きな背中を抱き締めて肩に顎を乗せる。


「どうかしたのか」


その私の動作に異変を察知したのか、心なしか顔を私に向けて尋ねてきた。

怪訝そうに眉を眉間に寄せて、そして確かに私のことを心配しているような顔をして。

でも今は、心配なんていらないの。

ただ、


「黒鋼…」

「ああ」

「声が、聞きたいの」


あなたの声が聞きたい。

あなたの声を聞けば、嫌なことなんてすべて吹き飛んでしまうから。

だから、その声をもっと聞かせて。

低くて、力強くて、だけど優しげな声を、耳元で。


「何かあったのか」


それでも優しいあなたは私のことが心配なようで。

でも、ただ声が聞ければそれでいいという私はひたすらに彼の名前を呼び、その都度その都度できちんと返事をしてくれるあなたの声に聞き入るだけだった。


「俺に隠し事なんぞするな、おい」

「隠してないよ」

「嫌なことでもあったんだろう。お前が俺の声を聞きてぇってのは、そういうことだろうが」


さすがだ、と感心するばかりだった。

まぁ、洞察力は人並み外れている彼に隠し事など無駄に等しいのだが。


「…今は、声だけを聞きたい」


ぺたり、と甘えるように頬を彼の耳に寄せた。

伸びてきた大きな手のひらが私の頭を慰めるように撫でる。


「今度、ちゃんと聞かせろ」


こういうとき、彼も私を必要としてくれていることを実感できる。


「分かったな」

「…うん」


口調はいつも通りだけれど、声がもっと優しげになって甘さを増したとき。

私の頭を唐突に撫でるとき。

さりげなく、不自然ではなく私の願いを叶えてくれているとき。

私の胸はあなたでいっぱいになり、少しひび割れていた心が満ちていくのを感じた。


「お話しして」

「あ?」

「できるだけながーいお話。黒鋼のいた国の、おとぎ話でもいいから」


どうか今夜は、あなたの声を聞きながら眠らせて。


「…仕方ねぇな」


膝立ちでいるのも辛いから、と背中から私を離した黒鋼は自分のすぐ隣に座るように言い、目を空中に泳がせなから何の話をするか迷っているようだった。


「じゃあ、」

「うん」


夜は、長い。



(了)

 


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