※死ネタ・流血有り それはとても誇らしげに、真っ赤な華を咲かせていた。あまりにも綺麗なので、高杉は華を摘もうと手を伸ばした。
「摘んではいけないよ、晋助」
その声に、触れようとした手を引っ込める。見上げるとそこには、師の穏やかな笑み。
「それは曼珠沙華といって、彼の世に通ずると云われる華。彼岸に咲く華を摘めば、連れていかれてしまうよ」
そう言って松陽先生は笑った。
その言葉は幼い高杉にはよく解らなかったが、摘めば怖いことになるのだということだけは、漠然と理解できた。
――嗚呼、そう云う事だったのか。
今になってようやくあの時の言葉が理解できる。
最後に見た師の頸からは、鮮やかな色の華が、赤く赤く咲いていた。
華と散る
その日、江戸の空が赤く染まった。
鬼兵隊による江戸城襲撃。真選組は隊の半分を京都で起こったテロに割いていたために、これを防ぎきることができなかった。
鬼兵隊の首領・高杉晋助は、その戦力を真選組によって大幅に削られながらも、江戸城天守閣へと降り立った。その横には今まで乗っていた艦が浮かんでいる。
「晋助さま、やっぱり私も行くッス」
艦の縁からまた子が叫ぶ。だが高杉は不敵な笑みを浮かべて一蹴した。
「駄目だ。ここから先はオレだけで行く」
「晋助さま、でも腕が……」
高杉の左腕は、真選組との死闘で斬りつけられた折に腱と神経をやられている。恐らくもう、動くことはないだろう。
「また子、下がるでござる」
「でも晋助さまが!」
今にも飛び降りようとするまた子を、万斉は後ろから腕を掴んで引き寄せた。
艦が城から離れていく。
「拙者たちには他にやることがあるでござろう」
また子が口を噤んだ。その体から力が抜ける。万斉は掴んだまま、ブリッジから艦の中へと向かった。
「万斉、後始末は任せた」
遠ざかっていく中、その声が確かに万斉の耳へと届いた。思わず振り向いたが、その姿はもう城の中へと消えて見当たらない。
「……晋助?」
万斉は高杉の様子にどこか違和感を覚えた。それを明確に言葉にすることはできない。だが、嫌な予感がした。
「万斉、晋助さまは……晋助さまは帰って来ますよね?」
その違和感はまた子も感じていたようで、縋るような目で万斉に不安を訴えている。
「……当たり前でござる」
彼女に告げられる言葉は、今はこれしかない。また子の不安を取り除けるのは高杉が無事に帰ってくることだけだ。
――だから帰って来い、晋助。
心の中だけで呟いて、万斉は城の方に視線をやった。
――帰って来い。主を待ってる人がいるのだから。
◆◇◆
高杉が城の中へと入ると、早速お出迎えとばかりにご家来衆が斬りつけてきた。だが実践を知らぬ侍など高杉の敵ではない。次々と襲いかかってくる侍たちを片腕でなぎ払いながら、高杉はひたすら前へと進んだ。目指すは一つ、城の隠し通路である。
案の定、そこに数人の家臣を連れた将軍が今まさに逃げようとしている所だった。高杉が剣を向けると、年老いた家臣が震える手で刀を向けた。
「う、上様、お逃げください!」
「はっ、老臣ごときがこの俺に勝てると思っているのか?」
「時間稼ぎくらいにはなろうよ」
振りおろされた刀を一太刀で振り払い、横薙ぎに相手の胴を断った。他の連中は悲鳴を上げ、体を震わせている。
将軍の喉がゆっくりと嚥下するのを見て、高杉は口角を吊り上げた。
「そなたらは逃げよ」
高杉が次の標的に斬りかからんとしたその時、凛と響く声がその手を止めた。
「私はこの者と話がしたい」
「なっ……なりませぬ! こやつは逆賊ですぞ!」
「そうです! それよりも一刻も早くお逃げ下さいませ」
「煩ェ」
邪魔だとばかりに残りの家臣も斬り捨てた。血が舞い、将軍と高杉の頬を濡らす。
「おい、しっかりせよ。おい!」
赤く染まる体を抱き寄せながら、将軍は必死に叫んだ。その指先は震え、眼には涙を浮かべている。
「残りはあんただけだぜ。将軍さんよ」
高杉は嘲笑いながら将軍に剣先を突きつけた。
「跪け。命乞いをしろ」
――そうして惨めに死んで往け。それでやっと、この戦いは終わる。
高杉は剣先で将軍の首筋を薄く斬りつけながら、一語一語はっきりと彼に告げた。
しかし、彼はそうしなかった。
「そんなに欲しいか。この命」
将軍は突きつけられた剣先を掌で握ると高杉を見上げた。将軍の白い掌から血が滴り落ちる。
声が震えていた。怒っているのかと思ったが、その瞳には悲哀の色が浮かんでいる。
「そなたは何故、この国を憎む。何故、そんなに暗い眼をしておる」
「煩ェ」
「憎いか、私が」
「煩ェっつてんだろうが!」
その口を塞ごうと高杉は彼の腹に蹴りを入れた。
将軍の体が吹き飛ぶ。口の中が切れたのか、それとも内臓を傷めたか、口角からは血がしたたっている。
それでも彼は、尚もこちらを見上げてきた。その瞳には未だ憐れみが浮かんでいる。
「そんな眼で俺を見るんじゃねェ。俺が見てェのは、テメーのそんな面じゃねェんだよ!」
刀を置き、将軍の髷を掴んで無理やり上を向かせた。痛みのせいかくぐもった声がその喉から漏れた。
もう、一息に殺してしまおう。高杉は将軍から手を放すと、うつ伏せに倒れたままの首筋に刀を突きつけた。
「伯父の……せいか……」
高杉の手が止まった。
「やはり、そうか……」
息も絶え絶えになりながら、将軍はゆっくりと目を瞑った。
「すまなかった……」
その瞬間、高杉の中で何かがはじけた。
「謝ってんじゃねェ!」
高杉は再び将軍を蹴り飛ばした。だが、彼は言葉を紡ぐことを止めてくれない。
「謝って済むこと、ではないと……分かっている……。だから、私の命で……勘弁しては、くれまいか……」
「な、に…」
「民には……民には、何の罪もない……。だから……もう――……」
紡がれた言葉に、目の前が真っ赤に染まった。何故かは分からない。だが、今までにない苛立ちに襲われていた。
「たのむ……」
そう言って伏せた顔が、誰かと重なる。遠くに置いてきたいつかの記憶。それが誰なのかは分からないけれど。
「分かった」
それが、この哀れな君主の願いならば。
その首に刀を突きつける。
「何て言うとでも思ったか」
将軍の瞳が見開かれる。末期の願いを踏みにじられ、絶望に侵された顔。
――ああ、そうだ。この顔が見たかったのだ。
高杉は刃をその首筋に埋(うず)めた。
――憐れだな――
途端、声が聞こえた。
いや、有り得ない。
高杉は己の聴覚を否定した。
首から胸元まで斜めに斬り裂いたはずだ。手応えも確かにあった。
それでも、その声が高杉の耳に張り付いて離れない。
「松陽先生――……」
あなたを奪った世界を、壊したよ。
なのに、あなたのいない世界は無くならないんだ。
「ああ」
斬り裂いたその躯は、尚も高杉を憐れんでいた。
――なんだ、同じじゃねェか。
どこかで気づいていた。彼ではない。己の刃を埋める先は、もはやどこにもないのだと。
けれども、心の中の黒い獣が鳴き止まぬのだ。全てを滅ぼせと叫ぶのだ。
あの人を殺した世界が憎かった。けれども、自分自身もあの人を殺した世界と何ら変わらないではないか。
――もう、終わりにしてはくれまいか。
憎むべき人間は死んだ。壊れた世界は再び壊れた。
だったらその後始末をしなければ。
高杉は持っていた刀を自らの首に当て、ニヤリと笑った。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
最後に見た世界は鮮やかなほどに赤かった。どこまでも赤い、曼珠沙華の色をしていた。
《終》
「おもしろきこともなき世をおもしろく」は、高杉晋作の辞世の句です。