ただ、そこから一歩外に出ると地獄に変わった。
家主であり、智樹に乱暴する佐野の存在にも恐れを抱いてはいたが、あまり帰ってはいないようなので主な原因ではない。
普段、この家で生活を送るにあたって智樹が一番心を砕いていたのが、佐野の部下である少年だった。

少年は智樹とは年も近いがまるでタイプが違い、脱色し傷んだ髪が印象的な“如何にも”な風貌だった。
随分、佐野に陶酔していて、従順な働きぶりからまだ新入りではあるものの身の回りの世話を任されていた。
佐野の不在時に不慣れであろう家事を懸命にこなす。
そういうところは佐野も評価しているのか、可愛がっているようだった。

そして、そんな尊敬する佐野が邪険に扱う相手がいたなら。
その相手の世話までさせられたなら。
初めこそ様子見していた少年も、佐野の智樹に対する態度を見るや否や、がらりと豹変した。

「ちっ…遅ぇんだよ!さっさと食えよ!」

ご飯時、リビングに足を踏み入れると、イライラした少年から罵倒を浴びせられる。
もう毎度のことで、ここで行動を止めればまた二言、三言詰られるのだ。
智樹はダイニングテーブルのすぐ真横の床に座った。
目の前には、犬用の給仕器に冷めきったお粥のような流動食が入っている。
そしてそれは犬の餌ではなく、正真正銘智樹のご飯だった。

「早く食えよ」

まだ慣れない扱いに戸惑いを隠せずいると、舌打ちされ、いきなり後頭部を抑え込まれた。顔面から器に突っ込んだせいで、目や鼻に流動食が入り込み、苦しさでもがいていると暫くして手の加減が緩められた。

「ごほっ……げぇっ」

やっと顔を離すと、目も開けれず息を吸おうとすれば、異物が入り込み鼻の奥がつんと痛くなった。
必死になって吐き出す。

「てめぇ!汚ぇだろうが!!」

がつんと、少年に腹部を蹴り上げられ一瞬呼吸器官が機能しなくなる。
遅れてくる痛みに悶絶していると、少年はちゃんと片付けろよと言い捨て、去り際に器をひっくり返していった。
足音が、扉の向こうに消えていき、智樹はようやく体の力を抜いた。

「うっ……ふっえ……」

と、同時に言い知れぬ感情も溢れ出した。
顔はもう、流動食なのか涙なのかわからないほどぐちゃぐちゃに汚れていたが、それを拭うこともせず、広すぎるリビングではしばし嗚咽が響いていた。



その夜、何も考えずに眠りたかった智樹だったが、無遠慮に扉を開けた佐野によってそれは叶わなかった。
仕事だ、と告げられ、おずおずと立ち上がった。寝室へと向かおうと足を一歩踏み出した時。
ぐにゃり、と視界が歪む。
次の瞬間には、天井やらフローリングやらがぐるぐる回り、そのままぷつんとブラックアウトした。

「本当にベッドに横たわる以外、何にもできないんだな。お前は」

目が覚めた智樹に、佐野がそう言い放った。
倒れた時にだけ許される客室のベッドの上で、いつも通りに施されている点滴をぼうっと見つめる。
不意に、叔父達の言葉が甦ってくる。

――役立たずだな!誰に養ってもらってると思ってるんだ!
――ロクに働きもしないで、病院なんて贅沢よ
――お前はいいよなー。学校行かずに寝てるだけなんて

(役に立たなきゃ……ちゃんと働いて……皆の役に立たなきゃ……しっかりしないと……しっかり……)

智樹が体を起こした反動で、かしゃんと音を立てて点滴装置が倒れた。
点滴針が外れて、液が流れ落ちる。

「何をやってるんだ」

呆れ返る佐野の声に、心の最後の一片がぐちゃりと潰れた気がした。

「……めん……さい……ごめ、なさ……っ」

俯き小刻みに震える智樹を佐野が訝しげに見る。

「ごめんな、さい……!ぼ、僕、役立たず……でっ全然ダメで……本当に……ごめ……なさいっ!ちゃんと、しなきゃっいけないのに……!皆の役に……っ」
「何言ってるんだ?」
「叔父さん達にも……佐野さんにも、迷惑ばっかり……かけてっ……僕なんか、し、死んだ方がいいって……わか、ってるんです……でも、怖くて、死ねなくて!」
「おい!」
「だからって、生きててもっ何にもできな……っもうどうしていいか、わからない……!わから、なっごめんなさい……!」
「もういい!……もういいんだ」

壊れたように謝る智樹を、佐野は強く抱きしめた。

「佐野、さ……っ」
「いいから、今は何も考えず寝ろ」

今まで聞いたことのない穏やかな声色が、智樹を包む。
とん、とん、と優しく背中を叩かれる。
そのリズムに合わせるように、段々と力が抜けていった。
まどろみの中、智樹はこの腕にずっと抱かれていたいと思った。




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