壁に激突した容器は床に転がり、中に入っていた煮物を無残に吐き散らしていた。
忍(しのぶ)は急いで、それを片付けようとしゃがみ込んだが容器を投げた張本人が制止した。

「早く帰れよ、うぜぇな。一、二度相手にしただけで調子に乗るんじゃねぇ!」

ゴミが散乱している部屋の主――四條蛍(しじょうけい)は鬱陶しそうに金茶色の頭を掻いた。
忍は慌てて煮物を容器に詰めると、逃げるように部屋を出た。
エレベーターは使わず、脇の非常階段から一気に駆け下りる。
勢いのまま暫く走り、マンションから随分離れた場所でピタリと足を止めた。
同時に、頬を静かに涙が伝う。

(駄目だ。泣いちゃ駄目。もう泣かないって決めたのに)

袖口で強く涙を拭うと、今度は力強く歩みを進めた。
その小さな身体には、大きな決意が秘められていたのだ。

四條は誰とでも寝る――忍がその噂を耳にしたのは半年前だった。
実際、構内では入れ代わり立ち代り、様々な男女を侍らせていた。
叶わぬ想いを抱いていた忍は、三ヶ月前、ついに切なくなりその身を四條に捧げたのだ。
それが悲劇の始まりだとも知らずに。
二度目となった行為は、関係を結んでから一月経ってからだった。
呼び出され、部屋を訪れるとすぐに押し倒された。
その性急さに喜びを感じ、乱暴な扱いですら愛しいと思った。
そうして繋がり、絶頂を迎えようと高まっている時だった。

「何、してるの?」

そこには寝室のドアを開けて青褪めている、四條の恋人が立っていた。



次の日、忍は大学で三時限目の講義が終わるとすぐさま、ある人物に会いに行った。
正門から構内の中心まで太く延びている道――通称いちょう通りを抜け、教務課や研究室が入っている三号館を目指す。
三号館の前は大きな広場になっており、昼休みになると多くの学生がごった返している。
そこでなら、目的の人物も見つけ易いと踏んだのだ。
予想通り、三号館の掲示板前にその人物を見つけた。
声を掛けると相手は眉を顰め、人気のない教室へ促された。

「何度も言ってるけど、僕にその気はないよ」

一ヶ月近くほぼ毎日、訴えかける忍の話を聞き終えると、目の前の男は端整な顔を歪ませた。
淡い栗色の髪を指で梳くと、頭を下げる忍に溜息を吐いた。

「わ、わかってる!でも、一目でもいいんだ!ちょっとだけでもいいから、四條くんに会ってほしい。最近はご飯もほとんど食べてないんだ。講義にも出ていないみたいで……」
「悪いけど……僕、もう良い人がいるんだ。蛍とは別れたんだし、今更関係ないよ。君、蛍が好きなんだよね?君が何とかしてあげれば?」
「あ!待って!多奈川くん!」

多奈川岬(たながわみさき)は振り返ることもなく去っていった。
見送った背中が、己が犯した過ちをまざまざと見せ付けられたようで忍は胸が切り裂かれる思いだった。
肩を落としながら一人暮らしのアパートに帰ると、洗面台で顔を洗った。
目線を上げれば鏡に映る特徴のない顔。
思い出される多奈川の美しい顔と重ね合わせて、吐息を漏らした。



四條は百獣の王を彷彿させる、そんな男だった。
切れ長で力強い目元もそうだが、常に美しい男女を侍らせている面でもライオンその者だった。
四條蛍とは、それほどまでに良い男だったのだ。
背丈が高く、目鼻立ちが整っているばかりか、どんな髪型や格好だって似合ってしまう。
現に、緩くパーマを当てた今の髪型は周りの女には好評を博していた。
センスの良いブランド物を着れば、鮮麗されたモデルのようだった。

そんな男を本気にさせたと衝撃を与えた人物こそ、多奈川だった。
男くさい四條とは反対に中性的な、けれど美しさを持った男だ。
すらりと伸びた手足は指先まで麗しく、まん丸とした大きな瞳が印象的で、目を伏せた時の長い睫が色気を引き立てた。
染めていないにも関わらずその柔らかな髪は、薄いブラウンで、白い肌によく映えていた。
四條程ではないにしろ、背丈もあり、二人が並ぶと一枚の絵を切り取ったように似合っていた。
周りも、二人の交際は知っていたが、男同士だと言うことも気にならないくらいすんなり受け入れた。



四條も極上なら、多奈川も極上。

(それに比べて、何て平凡なんだろう、僕は)

やや下がり気味な眉に、一重瞼の小さい目、こじんまりとした鼻に薄い唇、明るい茶色に染めた髪は痛んでいて不恰好だった。
誰彼構わず関係を持つと言われる四條に、たった二度しか抱かれなかったちっぽけな男。
こんな自分が絶対的な一対とも呼べる二人の仲を壊してしまった。
ただ、己の欲望のせいで。

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