深淵ノ彷徨


本編



神とは一体、何なのだろうか。
それが、この世界を創り上げた神、その末裔にあたる『神の子』空高翼の疑問であった。
常に、人々を束ねる、世界を束ねる神子たれと教えられて来た翼には、神の定義が理解出来なかった。
何故ならば、神はいないから。
翼は神を嫌い、神を信じず、信じるべきは、己のみと、そう思っていたのだ。
手を合わせて祈ったら神が舞い降りて助けてくれた、なんて話は聞いたことがない。
どんなに窮地に陥っていても、どんなに死が迫っていても、救ってくださいと手を合わせて祈ったところで、神が現れたという話は聞かない。
それこそが神がいないという証ではないだろうか。
そう訴えれば、大人たちは怒り、翼を叱った。そして嘆いた。神子様がなんてことを言うのだと。
それでも翼は、冷えた瞳で大人たちを見つめていた。
神なんていないのに。
声に出しては大人に怒られてしまうから、声に出さず、瞳で訴えながら、翼は、空に広がる青色を見つめていた。


第一話 神嫌いの神子


一番最初に神が舞い降りたとされる、空然地(くうぜんち)。
其処には、神の子孫と言われる一族、空高一族が住んでいる。
空高一族の直系、その長子は、『神の子』と呼ばれ、神子として祀り上げられる。
神子は政治の中心であり、世界の中心であり、神々の代弁者として人々を、世界を導く存在と言われていた。
空然地の中心には、穹宮(きゅうぐう)と呼ばれる政府の人間が集まる、宮殿のような建築物がある。
此処には各地の一族を取り仕切る代表や、頭首が集まり、この世界の治安を守るべく、法や規則を作り、秩序を作り、世界をまとめている。
そして、その筆頭である空高一族の頭首、『神の子』は、穹宮のすぐ裏にある広い屋敷の中で暮らしていた。
そこには一人の少年がいた。
中性的、否、むしろ女性的ともいえる容姿。中央で前髪を分けた髪は肩にかかる程度の長さで、その髪と、そして輝く瞳は天に広がる青空と同じ、爽やかな空色だ。
青空に浮かぶ白い雲を、少年はただぼんやりと眺めている。
懸衣型の衣服に身を包み、足を縁側の外に投げ出すようにして揺らしながら見つめるその瞳には、少し、退屈の色が浮かび上がっていた。

「翼様。」

声をかけられた少年は、先程までの表情とは裏腹に、穏やかで優しげな笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。

「はい。」

礼儀正しく頷き、微笑む。
翼を出迎えに来た守役は深々と頭を下げ、敬意を示す。
その姿に、翼はなんとも言えないむず痒さを感じていた。人々が示すこの経緯が、翼にとっては重みであり、苦痛以外の何物でもない。
それでも、彼等は翼に敬意を示す。
彼が、世界を導く、人々を導く、神々の末裔、『神の子』であるからだ。

「頭をあげてください。その、そういうのは…あまり、得意ではありませんから。」
「しかし、そういう訳にはいきません。貴方は我々にとって大切な神子。この世界を今後も導いていただく、尊い存在なのですから。」

それでも翼は、困惑する。
自分が世界を導くなんて、人々を導くなんて、そんな役割は相応しくないと、翼は常日頃考え、頭を悩ませていた。
何故なら、翼は政治というものを知らない。
常に世界の歴史を学び、礼儀作法を学び、刀を学び、あらゆるものを学んだ翼であるが、政治というものについては全く教えられて来なかった。
政治だけではない。
歴史こそ学んではいたが、では、その歴史を踏まえ、現在世界がどのような姿をしていて、どのように世界が動いているのか、そういった点には、触れられていないのだ。
当然、疑問は覚える。
何故教えてもらえないのか。
何故触れられないのか。
けれど、自分の役割は、求められることは、そういった類ではないのだ、ということは、自ずと理解出来てしまった。

「私は、そのような存在ではありません。ただ、神子の椅子に座っているだけでいい、人形ですから。」

翼が目を伏せながら、呟く。
守役は、少し困ったような顔をして、狼狽える。

「翼様、そのようなことは仰らないでください。皆、あなたの存在に、神子という存在に、敬意を示し、救いを求めているのですから。」

そして、否定はしない。
否定せず、優しい笑顔を浮かべて、こちらへと、守役は翼を導く。

「翼様も、後もうすぐで十九歳ですか。成人の儀まで、もうすぐですね。」
「はい、でも、私なんてまだまだ若輩者ですよ。」

神の子が二十歳の誕生日を迎える時、成人の儀が執り行われる。
成人の儀を行ったその日、翼は決められた婚約者と契りを交わし、夫婦となり、新たな子…新しい神の子を産み出すのだ。
成人の儀を行い、正式に大人として、空高一族頭首として認められた時、翼は一族頭首として、政治に参加することが許される。
というのが表向きだ。
しかし、恐らく翼が正式に頭首を継いだとしても、翼は政治への参加が許されない。
もし許されるのであれば、とっくに政治のいろはは教えられているはずだからだ。
全てが決められていて、選択というものは、許されない。
選択することは、与えられない。

「今日は武術の稽古をした後、礼儀作法。そして歴史学の勉強ですよ、翼様。」
「はい。」

守役から、今日のスケジュールを告げられる。
今日も勉強。昨日も勉強。きっと明日も、勉強なのだろう。
しかもメニューまで、昨日と同じではないか、これ以上何を学ぶんだと、云いたくとも、口を閉ざす。

「今日の歴史学は、季風地(きふうち)の歴史だそうですよ。」
「季風地…四聖獣の話、ですかね。玄武が、季風地を混乱に陥れた妖を殺めたとか…」

それも、季風地の歴史といえば何度も習っている項目だった。
新たに学ぶことは、もう殆どないはずだ。それでも何度でも、この学習は行われる。

「白き悪魔の歴史ですね。本当に、あれは恐ろしい。玄武様と、彼等を率いた海波一族頭首、海波水流様は素晴らしいお人です。翼様も、彼等のように、世界を救い、世界を導くお人にんるんですよ。」
「…はい。」

そして、この会話に落ち着く。
結局は、神子として、世界を導くのだと、そういう話で落ち着くのだ。
面白味のない会話。面白味のない日々。何も感じることのない、空白のような、色褪せた日々。
それでも、翼はこの日常から逃げ出そうとは思わなかった。
逃げ出したいとは、思わなかった。
何故なら、翼には逃げ出すわけにはいかない事情があり、理由があり、目的があったから。
縁側を歩きながら、空を、外の景色を見る。
木々は青々としていて、風が適度に吹いて心地いい。

「もうすぐ皐月ですからね、寒さを感じることもなくなって来ましたが。…まだ夜は冷えますね。」

そう言って、守役の男は、微笑む。
後一年と四か月も経てば成人。月の流れがじわじわと背後から迫っていくのを感じる。
ピィピィと鳥の鳴き声が聞こえたと思うと、青い空に、黒い影が映っているのがわかった。
鳥も気持ちよく空を飛ぶことが出来るというのに、空を統べた神の末裔と言われながら、鳥籠よりも開放的で、鳥小屋よりも窮屈で、鳥小屋よりも頑丈な、屋敷という名の檻に閉じこもっている自分は、一体なんだというのだろう。

「鳥は、いいですね。」
「じゃあアンタも、鳥になるか?」

翼の声に相槌を打つように響く、少年の声。
今まで屋根の上にでもいたのだろうか、一人の少年が、目の前に飛び降りて来た。
乱れた藍色の髪をした少年は、額に白い包帯を巻いている。
血のように赤い瞳は、睨むようにこちらを見据えているが身体は自分よりも小柄だ。
小柄なのに、彼よりも背の高い大きな剣を携えていて、その剣を抜き、翼の首筋へぴたりと添えた。
鉄の冷たい感触がひやりと伝わる。

「よぉ、五年ぶりか?空高翼。」

少年は、にやりと口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、翼を見据える。
彼は翼を知っている。
そして翼もまた、彼の事を知っていた。

「……雷希…」

雷希。
彼、荒雲雷希は、翼がよく知る少年。

「荒雲一族殲滅時には、世話になったなぁ。おかげで俺の一族はもう、俺一人しか残ってないよ。」

剣に込められる力が強くなり、首に痛みが走る。
濡れたような感触は、きっと首から流れる血なのだろう。
守役の男が後ろで狼狽えているのがわかる。余計な動きをすれば翼の首が飛ぶのだから、動きたくとも、何も出来ないというところだ。

「生きて、いたんだな。」
「嗚呼、生きてたよ。そして、アンタを殺しに来た。」

巨大な剣が首から離れたと思うと、それは翼めがけて勢いよく振り下ろされた。




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -