ハリーが気になって仕方がなかった。あの絶望にも似た表情が頭から離れない。

先程の黒い影の正体も分かっていた。あの人――ヴォルデモート卿――だ。

胸が大きな音を立てるのがわかった。それがハリーの危機に対してなのか、あの人の姿が見られたことに対してなのかは分からなかった。

捩れるかのような感覚から弾ける音とともに解き放たれた。

離れた平地に戻ってきた確信は、あの黒くくしゃくしゃの髪を見てから訪れた。たまらず駆け出して手をのばす。



「ッハリー!!」

「ぅ、わぁ…!」



無事だった。安堵に息を吐き力の限りに、ハリーの存在を確かめるかのようにその身体を抱きしめた。

ハリーは驚いたように身体を跳ねさせてもがいていた。

私が縋るように服を握りしめ、我慢もせずにしゃくり上げると、ハリーは何の抵抗もしなくなった。



「ぁ、あの…アリス…?」

「………っ、ハリー…。」



その場を離れてひとり置き去りにしてしまった情けなさと心苦しさ、そして無事でいてくれた安心に囁いた。

涙目にでもなっているのだろうか、ハリーの顔が歪んでよく見えない。手が小刻みに震えてしまう。

ハリーはビクリと身体を硬直させた。

私が落ち着き、手の力を緩めるまで、ハリーはそのままでいた。



「…彼が、助けてくれたんだ。」



ハリーはそう言いそちらに顔を向けた。

その言葉に抱きしめていた腕を降ろし、導かれるようにそちらを見る。

ハリーの視線を辿ったその先には、明るい金髪でパロミノのケンタウルスがいた。ケンタウルスは青い、淡いサファイアのような瞳でこちらをじっと見つめていた。



「初めまして…異世界の旅人。」



ケンタウルスは囁くような微かな声でそう告げると、私に向かってその頭を軽く下げた。

ハリーはよく聞こえなかったのか理解できなかったのか、首を傾げた。私は心当たりのあるその言葉、そして信じられない行為に目を見開く。

ケンタウルスは自尊心が高いはずだ、人間に僅かなりとも頭を下げるなんて。

それに、私がこの世界の人間でないと知っているようだ。今まで何の関わりもなかったのに、何故?

その疑問は、顔を上げたケンタウルスの瞳を見て愚問であったと思い直した。

ケンタウルスの瞳は透き通り、アルバスとはまた違う輝きをしている。もっと純粋で、もっと威厳のあるものだ。

そういえばケンタウルスは天体の動きを観察しそこから世のことを全て読み取っているのだった。

私がその瞳に釘付けになっていると、ケンタウルスは先程の囁き声ではなくしっかりとした声で告げた。



「…君の守ろうとしているふたつのものは、どちらも君を必要としている。
けれど、君が選べるのはひとつだけ。」

「ぇ…?」



突然の言葉に、理解するのに時間がかかってしまった。それでも消化しきれない。

心当たりはあるが、信じられなかった。

私が守ろうとしているふたつのもの。大きく言えば、光と闇だろう。それらは私を必要としていて、けれど一方しか選べない。

至極単純と言えばその通りだった。違うふたつのものを選ぼうなんて、そちらの方が間違いなのだ。

けれど私はその言葉に突き落とされるような感覚を覚えた。

力強いサファイアの瞳が私を射抜いていて、思わず顔をくしゃりと歪めてしまう。ハリーが疑問にこちらを見ているのが、たまらなく辛かった。

ちょうどその時、茂みの葉がカサリと掠れる音を鳴らした。



「ハリー、アリス!」



飛び出し現れたのはハーマイオニーとファングだった。

ハーマイオニーは力一杯に私を抱きしめる。そのおかげで、私は泣き出しそうな顔を隠すことが出来た。

心配するハーマイオニーに、顔は見せないようにしながら安心させるように返事をする。

次いで茂みから出てきたのはハグリッド、ロン、ドラコだった。ハグリッドは石弓を構えていたが、傍にケンタウルスがいるのを見てほっとその石弓を降ろした。



「やぁフィレンツェ。…ポッター2世とアリスに会ったようだな。」



フィレンツェ、と呼ばれたケンタウルスは口元を緩ませた。

ハーハーと息切れたハグリッドは、一息呑み込み、応えるように頷きながら薄く笑みを浮かべる。

そしてハリーと私にそのコガネムシのような目を向けた。



「無事か?ハリー、アリス。」

「うん…!」

「……ハリー・ポッター、ここでお別れだ。」



緊張の抜けないままに頷いたハリーにフィレンツェはその瞳をじっと向けた。

短くそう言うとハリーの耳元に身を屈めて口を寄せる。

フィレンツェは何かを告げたようだが、その声はハリーにしか聞こえなかった。しかしそれが重大なことだというように、ハリーははっと目を見張った。

そんなハリーと目配せをしたようなフィレンツェは、ハーマイオニーに抱きしめられている私にも顔を向ける。



「…もう大丈夫。幸運を。」



また囁くようにそう言うと、フィレンツェは森の奥深くへ向かって駆けていった。

馬の蹄の音が遠ざかり、闇に消えていく。

フィレンツェが走り去った後はとても静かだった。誰も冗談を言ったり言葉を交わすほどの元気はなかった。

ふっと息を吐いたハグリッドは地に横たわる、儚く輝く一角獣を見て悲しそうな表情をしたが、私達を見て優しく微笑んだ。



「…無事で何よりだ。」



目的を終えた私達は獣道を戻り森を抜けた。あの暗闇が嘘のように空には輝く星が散りばめられている。

しかし誰もその星を見て心躍らせたりはしなかった。この一夜にして受けた疲労に、足を重く引きずっているようだった。

私はふとドラコに呼びかけた。信じてくれてありがとう、と微笑むと、ドラコは顔を紅潮させたようなはたまた傷付いたように歪ませ、そのままスリザリン寮に向かって走って行ってしまった。

私が呼び止める間もなく、追いかけようにもハーマイオニーががっちりと私の腕を掴んでしまっていた。

ロンはとても疲れたようで、先程からあくびが絶えない。ハリーは眉根を寄せた難しい顔でずっと考え事をしているようだった。

罰則を受ける理由になった時間よりももっと暗いホグワーツ城を歩き、寮に帰ってきた。

談話室に入ってすぐにロンは暖炉の前のソファーに倒れ込むかのようにして寝てしまった。

ハーマイオニーがロンに呆れたようにして私達が離れた後のロンのことを言っていると、ハリーがはっとしたように眠りにつき始めたロンに駆け寄った。



「ロン、起きて!話したいことがあるんだ!」



ハリーはぐっすりなロンを揺り動かした。必死なハリーの様子に私とハーマイオニーは首を傾げる。

ハリーは何かに気付いたのだろうか。いつ何を、と考えたところでフィレンツェが最後ハリーに何か耳打ちしていたのを思い出した。

やっと声をかけて揺すったところで、ロンが唸って身体を起こした。



「一体、何なの…?」



目を擦りながらロンは寝ぼけたような声を出した。

ハリーはそれをスイッチにでもしたかのように、熱に浮かされるように話し出した。

ハリーの話を聞いているうちに、ロンの目からは眠気が消えていくのがわかった。



「……それじゃあ"例のあの人"が、今あの森に潜んでるって言うの?」

「でも弱ってて、一角獣の血で生きてる。」



ハーマイオニーの疑問に、ハリーはすぐに答えてみせた。

ロンもハーマイオニーもハリーの話しに夢中だ。私はロンとハーマイオニーの横、ソファーに腰掛けながらハリーの話をじっと聞いていた。

ハリーは落ち着かない様子で、暖炉の前を行ったり来たりしている。とんでもない大きなことに気付いてしまい、騒ぐ胸に息も吐けないのだろう。



「スネイプが石を欲しがってたのは、自分のためじゃなかったんだ。ヴォルデモートのためなんだよ!」

「…ハリー、何度も言ってるけど、セブルスはそんなことしないよ。」



ヴォルデモート、と聞いた瞬間、ロンは危うくソファーから転げ落ちてしまうところだった。魔法界にとって、それほどにも彼は恐怖の対象なのだろう。

その言葉で掠れてしまっているのかもしれないが、ハリーの口から高らかに出てきた名前に、私は眉根を寄せた。

彼らにとって、標的となっているのはセブルスだ。それが正答であったのなら私は何も言わないだろう。

しかしそうではないのを知ってしまっている。態度にこそ表しはしないがハリーの為に――訂して言えばハリーを通してリリーの為に――動いているセブルスを悪く言っているのをそのままにしていられなかった。

そんな私を、ハリーは快く思っていないようだ。



「スネイプは僕をクィディッチの試合のとき殺そうとした!君は見てなかったかもしれないけど…どうしてアリスはスネイプの味方なんだ!
…あの石があればヴォルデモートは力を取り戻せる!そして…、復活するんだ。」



ハリーの言葉に、ロンがはっと息を呑んだ。

ハリーが彼の名を呼ぶ度にビクビクと身体を震わせる。うわごとのように、その名前を言わないでと言っていたが、反応せずにいられなかったらしい。

血の気の引いた顔で、うまく言葉が出てこないようだった。



「でも、復活したらっ…、あいつは君のことっ…!…殺す気だと思う?」

「たぶんチャンスがあれば今夜殺す気だったと思う。」

「そんなときにっ、僕、期末試験の心配をしていたなんてっ…!」



ロンは頭を抱えて、ごめんと唸った。

セブルスがあの人の傘下であるという体で話が進んでいくものだから、ハリーとロンの熱に置いて行かれたように感じる。

信じてもらえないのはもちろんだ。彼の見せている面は、ハリー達にとって決して良いものではない。そんな彼を信じるなんて無理な話なのはわかっている。

彼を信じてもらうために全てのことを話す決意も私にはない。我が儘で高望みであるとは重々承知だが、もどかしく感じ重いため息をついて暖炉の炎を見つめた。



「ちょっと待って!大事なことを忘れてない?」



ハーマイオニーが熱を冷ますように声を張り上げた。

ハリーとロンは口を噤みハーマイオニーを見つめる。

私は目を伏せるようにしたあと、ゆっくりとハーマイオニーに視線を移した。



「この世界でたったひとり、ヴォルデモートが恐れているのは誰?」

「………アルバス。」



ハーマイオニーの言葉に、微かな声で呟いた。

それ故に全てがここに隠されているのだ。このホグワーツ城に。

さっぱりだという顔をしているハリーとロンに、ハーマイオニーは注意深げに視線を向けた。



「そう、ダンブルドアよ!ダンブルドア先生がいる限り、ハリーは大丈夫!あなたには指1本、触れさせやしないわよ。」



ハーマイオニーは高らかに言い切ってみせた。ロンはほっと顔を緩ませ、ハーマイオニーの言葉に賛同をする。

それでもハリーは浮かない顔をしていた。

ハリーの顔を横目で見ながら、私は瞳を閉じた。すると、先程のケンタウルスからの言葉が頭を掠める。

"君の守ろうとしているふたつのものは、どちらも君を必要としている。けれど、君が選べるのはひとつだけ。"

あの深い声が意識に溶けて混ざるように反響した。心臓が鷲掴みにされる感覚に、思わず荒く息を吐く。

驚いたようにこちらを見たハリー、ロン、ハーマイオニーに私は曖昧に微笑んだ。



「アルバスがいたら、危険なことなんて、何もないよ。
大丈夫だから……今日はもう、寝よう?」



もしかしたら私のその声は震えていたのかもしれない。三人がとても奇妙な目で私を見ていた。

それでも私にはその原因を突き止めるだけの気力も残っておらず、ただ薄く微笑むだけで精一杯だった。

頭を占める声に、くらりと視界が眩んだような気がした。

ハリーとロンは口を噤んで頷いた。ハーマイオニーは私の言う通りだとでも言うように胸を張る。

私達は部屋へ戻っていったが、もう空は白み始めていた。





賢者の動揺

(これ以上に失うのはたえられない)

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