朝、浅い眠りから覚めると、おもむろに起きあがってため息を吐いた。
結局胸の苦しさは疼くように残っている。気を取られていたかのように眠った気がしない。
ベッドから足を降ろすと、眠っていると思っていたナギニから声がかかった。
『…アリス。随分とうなされていたけど、どうしたんだい。』
『え?ぁ…おはよう、ございます。
なんでもないですよ。大丈夫です。』
思わずビクリと反応して振り返った。ナギニはそのままの姿勢で、私を鋭くじっと見つめていた。
不意をつかれた私は、ナギニへうまく誤魔化す言葉も見つからない。苦し紛れに微笑み、当たり障りのないことしか言えなかった。
言葉とは裏腹に、何でもないなんて言えない心情であることを、ナギニは見透かしているように感じた。咎めるような瞳が、私を突き刺す。
ドクンドクンと上がってきた心拍数にたまらなくなり、私は視線を逸らした。
そんな私の心情を察してか、ナギニは大きくため息を吐く。
『…昨日の贈り物はあけたのかい?』
ナギニは追求せず、話をそらすように口を開いた。
私は何も聞かれないことにほっとすると、ナギニの言葉の意味を考える。
クリスマスプレゼントのことを言っているのだと気づくのには時間はかからなかった。
ベッドのすぐそばに寄せられているプレゼントには包装をはがした痕跡はなく、贈られてきたときのままだ。
私はふるふると首を横に振り、ルシウスとシシーからのプレゼントを手にとってナギニのそばに座った。
『ルシウスと、シシーからのプレゼントです。』
私がそう言ってプレゼントのリボンに手をかけると、ナギニは値踏みをするように首をもたげた。
手触りのなめらかなリボンが滑るように解ける。私はそれをまとめて結び、横に寄せて置いた。
着飾っている包装紙を慎重に取ると、包装紙に劣らないほど立派な箱が姿を現した。
ほう、と息を吐きながらナギニの様子を横目でうかがう。ナギニは興味がなさそうに、ふんと鼻を鳴らした。
箱をあければ、薄葉紙に包まれた上質なあわい光沢のある布が目にとまった。薄葉紙を取ってその布を手に取り、広げるように掲げれば、それは黒を基調とした上品なワンピースだった。
薄手の生地のそれはなめらかな肌触りで、よく曲線の出る形をしていた。袖はなく、しっかりとした印象の首もとにはふわりとしたフリルタイが付属されている。
女性独特のラインがでるようにされたウエストから下は幾重にも重ねられた柔らかな布地のフリルが装飾していた。箱の中には付属のものであろうロンググローブがたたまれていた。
目をぱちくりとさせながら、そのワンピースを見て頬を薄く染めた。こういう素敵な服に憧れないわけではないが、私に似合うのだろか。同時に、いつ着たらいいのだろうと戸惑ってしまう。
ふう、というため息が聞こえたと思えば、ナギニが私の腰から膝へと絡みついてきていた。
『あの坊やにしてはいいものを選ぶじゃないか。』
『わ、私が着ても大丈夫ですかね…?』
『なんだい、似合わないとでも思ってるのかい?』
クスクスとさもおかしいと言うように笑うナギニに、カアッと顔が熱くなった。
私は慌てたように箱の中に服を戻し、その大きな箱を足下に置いた。
ナギニの面白がる笑い声を聞きながら、贈られてきたプレゼントをあけていく。
ハリーとロン、ハーマイオニーからはお菓子の詰め合わせ。ハグリッドからは手作りの横笛。セブルスからは綺麗な銀細工とパールで装飾されたバレッタ。ドラコからは可愛らしい小さな髪留め。アルバスからは厚手の靴下が贈られてきた。
プレゼントをあけるたび、ドキドキと高揚した気持ちが胸いっぱいに広がった。いつかの子供のような気持ちでプレゼントをあける私にナギニは笑っていた。
引きずるように重く感じていた気持ちが嘘のように、こんなにも浮き立ってしまう。感謝と喜びで胸がいっぱいになり、暗く沈んだ気持ちを追い出してしまったかのようだ。
私はいつも通りの気持ちでいられている感覚に、ナギニが自身の深い理解者であるということを思い知った。
目を細めて微笑めば、ナギニはそんな私を見守るように顔を寄せる。
プレゼントをそれぞれにわけておき、私は部屋を後にして談話室へと降りていった。
談話室に降りていくとコソコソと話し合う声が聞こえてきた。一体誰がはなしているのだろうと思っていれば、見覚えのあるその後ろ姿はハリーとロンだった。
ふたりは真剣に話し合っていて、ハリーはあの夢中な瞳で、ロンはそんなハリーを咎めるように声を上げていた。
私は一瞬ドキリと胸を跳ねさせると、深呼吸をして平常心でいられるように笑顔を心がけた。
不意に呼びかければ、ふたりははっと私に気づき、ロンが頼みの綱だとでもいうように話していた内容を教えてくれた。
どうやらハリーが今夜もあの部屋に行こうとしているらしい。物心がつく前に死に、その父と母との思いでもないハリーはふたりが自分のそばにいてくれるということがたまらないほど嬉しいのだろう。
小さく胸が痛んだが、それはいくらか軽いものになっていた。
ロンは私に、ハリーを止めてくれよと困ったように言ってくる。
ハリーを見てみればその決心は固いらしく、何を言っても聞かないことが手に取るようにわかった。
ただ両親に会いたいという気持ちでいるだけのハリーを、どうして止められるだろう。私は静かに瞠目し、ハリーに微笑んだ。
気をつけて、と私が一言だけ言うと、ロンは信じられないというように目を丸くし、ハリーは嬉しそうにはにかんだ。
その様子に、これでいいのだろうかと半分の戸惑いと半分の満足感が胸の中に現れる。
大丈夫。これでいい。私は戸惑う自分の心に言い聞かせるように言葉をかけた。何よりも、今のハリーを止めてしまうことが彼にとっては酷なものであると思わせる。
大丈夫。もう一度心の中で呟き、何かあれば――もっと言えば、その"何か"がないように――私が守ればいいではないかと勇気づけた。
胸を突く痛みは消え、穏やかな笑みを浮かべる余裕がもてる。ロンは不満そうだったが、それからはその話が出ることもなかった。
いつもよりゆったりとした時間が流れていった。ホグワーツ城にいる人が少ないためか、それに伴って時間の流れが遅く感じる。
それでも時間は過ぎていき、はっと意識をするともう眠る時間になっていた。
何も気にとめていないようにふたりとわかれたが、ハリーはあの鏡を見に行くことで胸をいっぱいにしているに違いない。
部屋の扉にもたれ掛かり、薄く微笑んだ私を見て、ナギニは首を傾げた。
とりあえずはハリーが寝室から抜け出すまで待たなければ。
私はベッドにもぐり、刻々と時間が過ぎていくのを瞳を閉じて待っていた。目を閉じ、少し経ったら時計を仰ぎ、また目を閉じる。
不思議と眠くはならず、それを繰り返して時の流れを把握する。
時計の短針と長針が共に真上にきたころ、私は物音を立てないようにベッドから出た。
ハリーはもう行っただろうか。昨晩ハリーに呼ばれた時間を思い出しながら、ナギニの様子を見ようと振り返った。起きた様子はなく、ベッドの上で蜷局を巻いて眠っている。
ほっと息を吐き、寝室を後にした。
私には透明マントも何もないが、大丈夫だろうと高を括っていた。そのまま目くらまし呪文もかけず、談話室を出ていく。
あの部屋への道筋をはっきりと覚えてはいなかったが、帰りに通った景色を思い出しながらたどっていた。
誰ともすれ違わず、雪に覆われた美しいホグワーツ城のその冷たさを足裏に感じていた。
やがてハリーが目印にしていた背の高い鎧を見つけた。かすかにその隣の扉が開いている。
間違いない。ハリーがもう来ているのだろう。
私はその扉を静かに、ゆっくりと開いて中をうかがった。壁に立てかけられた鏡の前に、対照的な小さく寂しい背中が座っていた。
「…ハリー?」
扉を閉め、囁くように呼びかけるとその背中はビクリと反応した。
暗闇と溶けるようにしていたあのくしゃくしゃの髪が、ばっとこちらを振り返る。
目を丸く見開いているハリーに、私は微笑んだ。
「アリス?」
「ん…、ずっと、ここにいたの?」
「うん。」
座っているハリーに近づきながら、その指先が赤くかじかんでいるのを見た。
どれくらいのあいだこの寒い部屋に座っていたのだろうか。それでもハリーは幸せそうな顔をしているので、この寒さは苦にならないのだろうと思った。
鏡の中のリリーとジェームズは一体どんな表情なのだろう。ふと考えたけれど、今のハリーと同じように幸せそうに微笑んでいるに違いない。笑顔があふれている家庭がそこにあるのだ。
ツキン、というかすかな胸の痛みに苦笑した。ぎゅっと胸のあたりをおさえる。
不思議そうにこちらを見ているハリーの隣に、鏡を見ないように腰を降ろした。
ハリーが驚くように目を丸くしたが、私は気にせずにかじかむハリーの手を両手で包み込む。
「っ、アリス…?」
「冷たくなってるね。毛布持ってきた方がよかったかな。」
くす、と悪戯に微笑むと、ハリーはほのかに頬を紅潮させて俯きながらもごもごと言葉をもらした。
包んでいるハリーの手が緊張したように強ばる。私はその強ばりを解すように手を揉んでいく。
ハリーの手の冷たさが私の手に伝わり、溶けるように広がっていく。ハリーは顔を真っ赤にしながらそれをじっと感じているようだった。
手の温度が同じくらいになったとき、ハリーは慌てて口を開いた。
「も、もう大丈夫だよ!ありがとう。」
「ん。どういたしまして。」
「…っ、アリスは、どうしてここに来たの?」
ハリーに身体ごと向けたかたちで微笑むと、ハリーは膝をぎゅっと抱えた。こちらを見ないように俯いたその横顔には赤みが差している。
その様子に、自然と笑みがこぼれた。くすくすと笑う私に、ハリーは居たたまれないらしく、話をそらすように私に顔を向ける。
けれどそれがただ口から出ただけのものではないと感じ、私は目を細めた。
「ハリーが、気になったの。」
「え?僕が?」
ハリーは意表を突かれたかのようにきょとんとした表情になった。
その理由を聞きたいようだったが、私は曖昧に微笑んだ。聞かれて困るようなものでもないが、ひとつ言ってしまえば全てを話さなければいけないような気になってしまう。
聞かれたくないと思っていることをハリーは察したようで、どこかばつが悪そうに口を噤み、鏡に視線を移した。
また鏡を見つめたハリーの隣で、膝の上に頭を預けて瞳を閉じた。ハリーはとても優しい。人より不憫な環境で育ったせいか、そういう痛みには敏感なのだろう。
じっと鏡を見つめているハリーの様子を横目で見ながら、私は口元を緩めた。
しばらくはそうして時間を過ごしていたが、ふと気がついたかのようにハリーは私に顔を向けた。
「…鏡を、見ないの?」
ハリーのその声に、私は無意識的に身体をビクつかせていた。
様子をうかがうように上目でその顔を見れば、本当に不思議そうな、それでいてどこか訝しそうな表情でこちらを見ていた。
ハリーもロンも、この鏡を見たときに嫌なものは映らなかった。ハリーはおそらくそのことを考えたのだろう。
自分がこんなにも虜になる物に、私がなぜ近づこうとしないのかを。
けれど、それは自分でもわかっていない。なぜかと聞かれても、きっと何も答えられない。
私は自然と開いた口を、一度きゅっと噤み、ハリーに微笑んだ。
「ハリーの邪魔はしないよ。」
会えるはずもない両親の姿をただ見つめているハリーを邪魔することはできない。
できるだけ望むとおりにしていてほしいし、私はそのそばにいるだけで十分だ。
そう言われたハリーはなんだか恥ずかしそうに鏡を見てはにかんだ。
次いですくりと立ち上がり、私の手を引いて鏡の前に立たせようとする。
「ちょっ、ハリー…?」
「アリスも見てごらんよ。」
「わ、私はいいから、っ!」
何とか身を翻そうとするが、ハリーの力に従ってしまい、立ち上がって鏡を見てしまう。
ハリーはとてもいいことをしているかのように微笑んでいる。悪いものは映らない。そう思っているように。
目の前にきた鏡に、自然と目が移ってしまう。ハリーではなく自分が、この鏡の前に立っている。
私は冷や汗がこめかみを伝っていくのを感じた。鏡から目が離せなくなり、唇が細かく震えてくる。
「…っ、」
鏡には、それこそ何も映っていなかった。
鏡は光を透かしているかのように白く輝いているかのようだ。そこではっきりと見えるのは、何も変わらない自分の姿。
ハリーのように両親に囲まれた幸せな自分も、ロンのように素晴らしく輝き注目されている自分も存在していない。
ぼんやりと白く靄がかった部屋で自分だけが嫌にはっきりと見える。鏡の中の私は目を見開き呆然とした姿が映し出されていた。
言葉を失ったように何も言わない私に、ハリーは口を開こうとした。
「また来たのかね?ハリー、アリス。」
「っ!」
「アルバス…。」
どこからともなく聞こえてきたしゃがれ声に、ハリーははっと振り返った。
私も鏡から目を離し、そちらに顔を向ける。そっと名前を呼ぶと、アルバスは柔らかく微笑んだ。
私は呆然としたまま、ゆっくりと近づいてくるアルバスの姿を見つめていた。
「ハリー。君も多くの人々と同じように、みぞの鏡の虜になったようじゃな。」
アルバスは半月型の眼鏡の奥にある、キラキラした瞳を細めてそう言った。
その言葉にハリーは首を傾げ、私は心の中で繰り返した。
この鏡は、みぞの鏡と言うのか。そんな名前があるのだということを知り、小さく目を見開く。
「この鏡が、何をしてくれるのかもう気付いたじゃろう…ヒントをあげよう。
世界一の幸せ者がこの鏡を見たなら、そこに映るのは、いつも通りの自分だ。」
「これは…見る人の望みを映すんですね?何でも欲しいものを。」
「そうとも、違うとも言える…。」
静かな時間が流れているようだった。その空気をつくっているのは、他でもないアルバスだ。
あの瞳に見つめられたら、自分の全てを見透かされているように感じてしまう。
ハリーはその瞳にも動じず、アルバスの深い言葉に首を傾げていた。
考えているハリーを見ていたアルバスの瞳が、私をとらえた。私はその瞬間ドキリと硬直したような錯覚がした。
けれどその瞳がすぐに、私を通してその後ろを見たような気がして、私は鏡を振り返った。
ふと、鏡の装飾の文字が頭をかすめた。もう一度、高く佇んでいる見事な装飾を読んでいった。
"すつうを みぞの のろここ のたなあ くなはで おか のたなあ はしたわ"
なぜか、文字を見ただけで、それが示す意味を理解した。
「わたしはあなたの顔ではなく、あなたの心ののぞみをうつす…。」
文字を、反対から読むことで、その意味が明らかになった。
鏡の装飾を、鏡に映った文字として逆にしてつくるなんて、誰が考えたのだろうと思ってしまう。
囁き声にも近い言葉に、アルバスは感嘆したように息を吐いて手を鳴らした。
「その通りじゃ。この鏡が映すのはな、心の一番奥にある、一番強い望みなんじゃ。
…ハリー、君は家族を知らないから、家族に囲まれた望みが映ったのじゃ。」
「…。」
アルバスの言葉に、私もハリーも何も言わなかった。
ハリーの一番の望みは、家族と共にいる自分。何を願うわけでもなく、ただ純粋に両親に向けられている愛が、私の心を刺激した。
ハリーはとても真っ直ぐで、決して驕り高ぶるわけでもなく、素直な愛を持っている。それが嬉しくもあり、どこか眩しくて羨ましいようにも思えた。
この鏡が映すものが心の奥底にある、自分ですら気付いていない望みであるのならば、私が見たものは一体なんだというのだろう。私の望みは、何なのだろう。
白く靄がかった鏡の中。そこにはっきりと存在している自分。他の誰が映るわけでもなく、輝いている自分が映るわけでもなく。
意識を取られたように考え込んでいると、そんな私の思考を止めるようにアルバスが注意深い声を出した。
「だが覚えておくのじゃ。この鏡は…真実も、知識も、与えぬ。これに魅入られ身を滅ぼした者は、何人もいる。
…明日には、これを別の場所へと移すつもりじゃ。」
アルバスの言葉に、ハリーがかすかに反応した。
両親と会える唯一の方法と思われる鏡が移されると聞き、穏やかな気持ちではいられないに違いない。
そんなハリーの隣で、どこかほっとしている自分がいる。鏡に夢中なハリーを、そのまま好きにしていてほしい気持ちと、それを止めたい気持ちが。
同時に私の見た鏡が示すものが見当もつかずおそろしい。突然自分が皆と違うのだということを突きつけられたように感じて、息が詰まってしまいそうだった。
ほっとしたように深く息を吐いた私と対照的なハリーに対して、アルバスは声を低める。
「くれぐれも言っておくが、2度とこの鏡を探すでないぞ。
夢に耽って、生きるのを忘れてはいかん。よいな、ハリー…アリス。」
半月型の奥でビー玉のように輝いているアルバスの淡いブルーの瞳。その瞳が私にも向けられ、おもむろに細められた。
アルバスは私が鏡を見たときに映ったものを知っているのだろうか。そう思ったけれど、彼の瞳を向けられた時のドキリとした感覚に、それは愚問であると結論づけた。
心の奥にある望み。もし無意識的なものがなければ、この世界の、全ての人が幸せを感じること。あふれる悲しみをなくし、全てがうまくいくことだ。
しかしそれは現実的に考えれば不可能に近い。人は他者がいるからこそ自身の自我同一性を確立することができる。
それぞれ考えが違い、自身を信じることで抗争が起きる。それは痛いほどに理解している。
私の望みはとても利己的なもので、自己満足なのだ。全てが、と言ってはみるもののそれはただの綺麗事にすぎない。
自然と俯いていく視界をぼんやりと認識しながらそんなことを考えていた。
静かに床を見つめる私を見るアルバスの視線もハリーの視線も、私は感じることすらできないでいた。
賢者の懇望
(身の程を知らない大きな望みは、ただ希望を示すだけの光として輝く)
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