「はぁ…っは…!」
私は息を乱しながら、目の前の扉を見上げた。
あれから私は必死に足を走らせ、闇の魔術に対する防衛術の教室に向かった。
ホグワーツ城はとても広く、階段も多い。
教室移動するのですら一苦労であるのに、私はそれを走ってきた。
急な運動に心臓がドクドクとうるさく響いた。
乱れた息を落ち着けるため、詰まりながらも深呼吸を繰り返す。
すると突然、胸を突くような緊張感に襲われた。
"彼"がこの扉の向こう側で待っている。
その事実が真実味を帯びたように胸に溶け出していく。
まるで一種の麻薬のように、溶け出したそれは私の心拍数を上げていった。
どんなに深呼吸を繰り返しても、それは落ち着く様子を見せない。
緊張に心臓が口から飛び出してしまいそうだ。
彼は、私をどう思っているのだろう。
なぜ、私を呼んだのだろう。
考えても決して答えが出ないと知りながら、私は頭を巡らせていた。
扉をノックしようと手をのばすが、それは震えて言うことをきかない。
乱れた息は整っても、気持ちは整うことを知らずに入り混じっていた。
私は自然と顔を俯かせていて、そんな私にナギニは顔をすり寄せた。
ひんやりしたナギニの体温を感じると、心は沈むように落ち着いてきた。
次こそはとノックをするために手をのばすと、それは手が触れないうちにゆっくりと開かれた。
私ははっと息を呑み、微かに開かれた扉を呆然と見つめる。
扉の向こう側は暗く、ろうそくの光すら感じさせなかった。
すると闇の中から手が現れ、それは私の手首を掴み扉を強引にくぐらせた。
思わず息を呑んだ私の口を、何かが塞ぐ。
暗闇に引き込まれるとバタンと扉の閉まる音が聞こえ、視界は真っ暗になった。
背中が冷たい場所に押し付けられたので、壁に追い込まれたのだと気づく。
「んっ、んん…!」
私は唸り声を上げ、口を塞いでいる手を外そうと首を振った。
ふと視界がオレンジ色の光に照らされて明るく開けた。
教室に点々と存在しているろうそくには光が灯されていた。
私は目の前にいる人物を見て目を見開く。
クィレル先生だった。クィリナス・クィレル。
彼は鋭く冷たい瞳で私を見下ろしていた。あのどもりのクィレルの面影はどこにもない。
ただ外見だけが同じの別の人間かと思わせるほどだった。
クィレル先生はびくりと身体を跳ねさせた私を見て瞳を細めた。
「ミス・八神。アリス・八神…。」
彼は呟くように私の名前を呼ぶ。
その低く地を這うような声に、私は堪らず身震いした。
彼はそれを笑うかのように口元に弧を描き、口を開いた。
「あんな、教室の前でうろうろされると怪しまれるのだが…?」
「ん、ぅ…っ。」
私はあまりのその瞳の鋭さに身を竦ませた。
思わずごめんなさいと言葉がこぼれそうになるが、口を塞がれているので声にはならなかった。
クィレル先生はそんな私を見てせせら笑うかのように首をもたげる。
いつの間にかナギニは床にいて、クィレル先生に威嚇の声を上げていた。
すると、クィレル先生は口を開いていないのにどこからか声が聞こえてきた。
「何をしている、クィレル。アリスを離せ。」
「っ、!」
「申し訳ございません、ご主人様…。」
掠れた声。どこか聞き覚えのある声。
怒りが混じっているがその声はなめらかで、歌っているかのようだった。
クィレル先生の手はすぐに離された。
私は動けなくなったかのように、ただ活発に脈打っている心臓を感じていた。
今の声は、まさか…。
自然と震えてきた唇で、私は声にならない呟きをもらした。
彼だろうか。皆に例のあの人とまで恐れられた、ヴォルデモート卿なのだろうか。
動けず、また何も言えずにいる私をクィレル先生は一瞥し、背を向けた。
クィレル先生は器用に頭に巻いてあるターバンを外していく。
私はそれを目を離すことすら許されていないかのように釘づけになって見つめていた。
ターバンが外され隠されていたものが露になると、私は胸が熱く焦がれるのを感じた。
「…卿……っ。」
クィレル先生の後頭部であるはずの場所には、顔があった。
蝋のように白い顔、そこにはうかんでいるかのようにギラギラと紅い瞳が輝いている。
そのおぞましいほどの顔は、私を見て口端をつり上げた。
「そうだ、アリス。」
彼の誘うような甘い声。
私は唇を震わせ、歓喜にうち震えた。
彼が目の前にいる。ずっと会いたかった彼が。
視界が歪むのを感じ、私は嗚咽を呑み込んだ。
静かに私の瞳からは涙が流れる。
彼は涙をあふれさせた私を見て、真紅の瞳を細めた。
私は夢中で震える手をのばしていた。
手はクィレル先生の背中にあたる。温かい、心地いい温度だった。
それはかつての彼の体温でなく、また彼の身体ではないけれど、私は胸を詰まらせた。
クィレル先生は背中に触れている私の手に微かに身を固くした。
「きょ、ぅ…きょう…卿……っ!」
「ッ、」
次の瞬間には、私はクィレル先生の背中から前に腕を絡めさせていた。
クィレル先生は突然の私の行動に驚いたように息を呑んだ。
我慢ならないほどの熱い気持ちが胸を締め付ける。
彼がいる。夢ではなく、私の目の前に。
私はクィレル先生の背中に抱きつきながら、涙を目いっぱいにためて見上げた。
彼の鋭い真紅の瞳は私を静かに見下ろしている。
変わらないその輝きにドキリと胸が跳ねたけれど、同時に鷲掴みにされたように苦しくなった。
そう。彼が身体を失い誰かにそれを借りなければいけなくなったのは、私のせいとも言えてしまう。
私がもっとしっかりと彼を引き留めれていれば、もっといい未来に変えれていれば、もっと…。
後悔をしてもしきれない。懺悔をしても救われない。
私は静かに、口から囁きにも似た声を出した。
「ごめん、なさい……。」
おそらくこれは彼に言ってもどうしようもないことだ。
けれど、気づけば口からこぼれ出していた。
震える唇が紡いだのは震えるか細い声。
彼を見ていられなくなり、私は堪らず顔を俯かせた。
彼は私をどう思っているのだろう。
知りたい。けれど、知りたくない。
思わずひくっとしゃくりあげた私を見て、彼は言い聞かせるように口を開いた。
「顔を上げろ、アリス。」
「…っ。」
「お前はすべてを知っていた。そうだろう?」
彼の言葉に、私は思わず身を竦ませた。
咎められているかのように感じ、縋るように腕の力を強めてしまう。
そんな私に、彼は不思議なほど優しい声を出した。
「俺様がそれに気づかぬわけがないだろう。
お前はわかりやすい。」
「ぁ、…。」
「俺様は、己の力というものを試した。
それだけのことだ。」
「…。」
彼の言葉は砂糖のように甘く、そして柔らかかった。
私はその言葉に胸が締め付けられるのを感じた。
また、涙があふれ出してくる。
とめどない感情のようなそれに私は息を詰まらせた。
ぎゅうとクィレル先生の服を握ってしまう。
びくとクィレル先生が反応するのと同時に、呆れたような声がかけられた。
『アリス、そろそろそいつを離しておやり。』
「…ふ、ぅ…ご、ごめんなさい、クィレル先生っ。」
ナギニは私の身体を絡むように這い上がってきた。
冷たいナギニの身体に、私ははっと息を呑む。
急いで離れると、クィレル先生がほっとしたように肩の力を抜いたように思えた。
ナギニは私の首まできて、彼の顔を見上げる。
ナギニは彼を見て、笑いかけるように黄金の瞳の瞳孔を細めた。
『主人、久しぶりだね。
不憫な姿になったものだね。』
『ナギニか。』
ナギニの声に、彼は懐かしそうにその瞳を細めた。
その言葉に彼は笑うように口端をつり上げる。
頷くように彼は言葉をこぼした。
しかしそれは一瞬で、緩められた彼の表情は辛そうに歪められる。
小さく唸った彼に、私は息を呑んだ。
「ご主人様、これ以上は…。」
「黙れ。」
クィレル先生の震えた声を、彼もそれをわかっているように苛立たしげに遮った。
クィレル先生は息を呑み、口を噤む。
私は彼の頬に手をのばし、微かに微笑んだ。
「卿…無理は、しないでください…。」
「…。」
私がそう言うと、彼は眉を顰めた。
けれどまた小さく唸り、顔を歪める。
私は心配に眉を寄せたけれど、これだけはと思って口を開いた。
「わ、たし…完璧に卿のいる側へは行けません。
ハリーたちを守ると、決めたから…。
でも、私は…私は、卿の…あなたの側でも、いたいんです。
だから…。」
「いい。わかっている。」
「っ、…。」
「アリス、お前は俺様を裏切るまねはしないだろう?
それに、いずれお前は俺様の側につく。完全にな。」
そう言い切った彼に、私は目を見張った。
私がハリーやロンやハーマイオニー、皆を裏切ってそちらに行く日がくるのだろうか。
繰り返すように口の中で呟き、私はくすと笑みをこぼした。
その日がくることはまだわからない。
これは賭けだ。そう直感で感じた。
使命を背負った私と、それを覆そうとする彼。
どちらが勝つのかは、まだわからない。
私は彼の頬に両手をそえたまま、ふわりと微笑んだ。
「楽しみにしておきます、卿。
おやすみなさい…。」
私がそう囁くと、彼は眠るようにゆっくりその瞳を下ろしていった。
私はそれを見届けてから、目元から頬に伝っていった涙を袖で拭った。
静かな空間には何も響かず、微かに私の鼻をすする音だけが聞こえていた。
[ Prev ] [ Next ]