「っ、クルーシオ…!」
ネズミの悲鳴が一段と甲高くあがった。
それと同時に、彼の狂気じみた笑いが耳に響く。
苦しんでいる。私の、呪文で。
反射的に、つむっていた目を開けていた。
ネズミは檻の中で、のたうち回り、キーキーと鳴きながら藻掻いていた。
見ていられないはずなのに、目が離せない。
視界がにじむ。しっかりと前が見られなくなった。
彼がクツクツと笑いながら、こちらに近づいてくるのがわかる。
私は、震える手で握っている杖を離せないまま、苦しんでいるネズミを凝視していた。
彼は私のすぐ横に来て、私の耳元で囁いた。
「よく見ろ、この苦しむ様を。」
「…っ、う…。」
「助けたいか?」
甘く囁いた彼の声。
その言葉が、私にとって何よりも縋るべきものに思えた。
ベルベットのような、深みのあるその言葉に、私は誘われるように頷いた。
「た、助け、たい…っ。」
「そうか…ならば、殺せ。」
「っ!」
「簡単だ、一言でいい。
一言、呪文を唱えるだけで全てが終わる。」
「でもっ、!」
彼の瞳が私を射抜いた。鋭い瞳がギラリと光る。
私には選択肢はない。
そのことを、改めて身にしみて感じた。
"殺す"
そう考えるだけで、息が乱れた。
嗚咽がこぼれるように、しゃくり上げてしまう。
涙目になる私を見て、彼は私の髪に手をのばした。
あやすようにゆっくりと髪を撫でられる。
背中に感じる彼の手に、私の身体は冷たくなっていった。
「終わらせて、楽にしてやれ。」
"助けたいのだろう?"
彼は言い聞かせるかのようにゆっくりと言った。
一言、唱えるだけ…。
藻掻き続けているネズミが目につく。
唱えれば、このネズミは楽になる。
私は瞳を閉じ、戸惑いを心から消そうとした。
大丈夫、ちゃんとできる。
そう自分に言い聞かせて、しっかりとネズミを見据える。
すぐ横で様子を見ている彼が、笑みを深くしたのが感じられた。
大きく息を吸って、思いきって声をあげた。
「さぁ、アリス…殺せ。」
「…っアバダ・ケダブラ…!」
緑の閃光が杖の先からほとばしった。
閃光の向かう先は檻の中のネズミ。
一瞬だった。
一瞬ですべてが終わった。
閃光が当たった瞬間、小さく悲鳴を上げたネズミは、そのまま動かなくなった。
本当にあっという間で、何も感じることができなかった。
ただわかるのは、このネズミは緑の閃光――逃れることのできない"死の呪い"――によって死んだということ。
そして、それを行ったのが私だということだけだった。
茫然と立ちつくしている私の髪を、彼はクツクツと笑いながら撫でる。
「よくやった、アリス。」
まるでペットでも褒めるかのような猫撫で声で彼は言った。
けれどそんな彼の声さえ、私には掠れて聞こえていた。
私が、殺した。そのことが頭に何度も響く。
腹を見せた状態で動かないネズミを見ているうちに、目から自然と一筋、涙がこぼれた。
ごめん、ごめんね…。
彼に言われたからやったと言い訳をするつもりはない。
これが、魔法なんだ。私は目の前のネズミの死骸を見ながら感じていた。
何よりも深い世界。何よりも深い恐怖。
私は、忘れない。今したことを。今思っていることを。
ゆっくりと瞳を閉じていき、私は深く息を吸った。
彼の呼吸さえ、今ははっきりと感じられる。
彼はきっと今の私の思いに気づいているだろう。
静かに笑っているであろう彼に、私は強く意識を寄せた。
杖を握りしめ、頬に伝った涙を素早く拭う。
そして、震えないようにはっきりと声を出し、彼に向き合った。
「…ヴォルデモート卿、」
彼は確かに笑っていた。
真紅の瞳を細め、薄く妖艶な唇をつり上げていた。
次の言葉を待っているかのような彼に、私は思いきって声を上げた。
「私に…魔法を、教えてください…っ。」
そう言って、私は頭を下げた。
床を見つめる私には、彼の表情は全くと言っていいほどわからない。
彼の床につくほどの長さのローブだけが、私にとっての彼を示すものとなっていた。
彼はゆっくりと歩き出し――きっと、椅子に腰掛けたのだろう――椅子の軋む音が聞こえた。
それから、私の姿をなめるように見る視線を痛いほど感じていた。
私の長くウェーブがかった髪が顔を覆い隠す。
その中で、私は耐えきれずぎゅうと目をつむっていた。
すると、彼のあの冷淡な声が聞こえてくる。
「いいだろう、お前に全てを教えよう。」
今思えば、おかしな話だと思った。
魔法を教わるためにこの部屋に来たというのに、今頼んでいるだなんて。
けれど、彼はそれでも応えてくれた。
それが私には言葉にならないほど嬉しいことに感じ、気づけば頷いていた。
それからは様々な魔法を教わった。
私が物語を読んで知っている魔法、知らない魔法…全てを。
彼の教え方は上手だと素直に思った。
論理的で、とても筋が通っている。疑問に思ったこともすぐにわかるようになった。
たまに心を読まれることもあったけれど、私の心の緊張は時を刻むにつれて解れていった。
あの鋭い真紅の瞳も見慣れた。落ち着いて見てみれば、とても綺麗な色をしていると思えるほどだ。
彼の、あの威圧させるほどの冷たい雰囲気も何故か感じなくなった。
他に気をまわさなければいけないものもなく、私は魔法を覚えていくのに没頭した。
そして日も暮れた頃、途中彼が持ってきた分厚い本も全て終わることができた。
「やっと、終わった…。」
私はもう限界だったのか、そう呟くのが精一杯だった。
彼が魔法で出した椅子に腰掛けると、自然と彼の机に突っ伏してしまっていた。
身体が重い。鉛が手足についているかのように、疲れが重くのし掛かってきた。
持っていた杖も、机の上で手放してしまう。
視界の端に見える彼の髪が揺れたかと思うと、私の髪を大きな手がゆっくりと梳いた。
顔をそちらに向けてみれば、彼が頬杖をついて私を見ていた。
底なしの真紅の瞳が、私を捕らえる。
「眠れ、アリス。」
「…ん。」
彼のその声に誘われるまま、私の意識は深く沈んでいった。
今日のことのお礼をまだ言っていない、と思ったけれどそれは言葉にならなかった。
少し声を漏らし、私は完全に意識を手放した。
「…。」
眠り、静かになったアリスをヴォルデモートはただ見つめていた。
異世界から来た少女。その少女がこれほどの魔力を持っている理由を考えていた。
しかし、その答えが見つかることはない。
どんなことについても、謎で埋もれているからだ。
ヴォルデモートはアリスの微笑んだ顔を思い出す。
何もかも受け容れたような、優しい笑顔。
ぬるま湯につかった様な、自分の中の氷が溶けていく感覚に襲われる。
一瞬顔を顰め、そしてヴォルデモートは嘲笑をうかべた。
何でもないはずのこの少女――アリス――。
しかし、相手がアリスだということだけでこの感覚もいいかもしれない、と思ってしまう。
静かに瞳を閉じ、クッとのどの奥で笑った。
改めて、アリスを傍に置いておくのも面白い、と考える。
ヴォルデモートは瞳を開け、すぐ目についたアリスの左手を見つめた。
そして細く整った手でアリスの左手をすくい上げる。
小さくアリスが身じろぎしたけれど、気にならなかった。
自身の杖を取り出し、それを無造作にアリスの手の甲に押し当てる。
ヴォルデモートが小さく何かを唱えると、杖を押し当てたアリスの手の甲にじわりじわりと何かがうきあがってきた。
薔薇の花。そして、そこに絡みつく蛇の印が…。
「…っ、く…ぃ、!」
アリスはまだ眠りに落ちたまま、それでも左の手の甲に与えられている痛みに顔を歪めていた。
印がつくと、ヴォルデモートは満足そうに口端をつり上げた。
そして静かに、印に唇を落とす。
"お前は誰にもわたさない"
そう低く呟いて、ヴォルデモートは声を上げて笑った。
そして、自分の左手首をゆっくりと撫でる。
するとすぐに、扉がノックされ、声がかけられた。
「我が君、ルシウスでございます。」
「入れ。」
「…失礼いたします。」
静かに扉を開け。入ってきたルシウス。
ヴォルデモートはこぼれる笑みを隠そうともせずに、アリスに視線を送った。
静かな寝息を立てているアリス。そして、机に何冊も重ねられた本。
ルシウスはそれだけでヴォルデモートに呼ばれた理由を理解した。
ルシウスはアリスに近づき、優しく抱き上げた。
ヴォルデモートは立ち上がり、窓際に近づき、落ちていく太陽を眺めていた。
アリスを抱き上げたルシウスは、不意にアリスの左手の甲を見てしまい、絶句する。
驚き、戸惑う心を隠しきることができなかった。
まさか、と思いながら顔を歪める。
何も知らない顔をして眠っているアリスが思わず心配になってしまった。
しかし、咄嗟にその様子を隠し、アリスを抱えたまま歩き出す。
そしてアリスの部屋に続く扉を開き、向き直った。
「失礼いたしました。」
そう言ってルシウスは、ヴォルデモートの部屋を後にした。
ヴォルデモートは背を向けていたが、それについては感じていた。
扉が閉まったのを軽く見て確認すると、口元にうかべた笑みを濃いものにした。
そして、もう一度低く呟く。
「アリス…お前は、誰にもわたさない。
俺様のものだ。」
いつも気づいてた
(彼のあの狂気は、深く私に向けられていることを)
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