「せーいち…すき。」

「っ!」



ゆっくりと言われたその言葉に、思わず目を見開いてしまう。

身体が、いつの間にか寄せられている。

ドクン、と身体が固まるのを感じた。

状況が読めず、何度も目を瞬いてしまう。



「えっと…リナリア?」



一体どうしたのだろう。

いつもならこんなにも…こんな様子ではなかったのに。

ドクンドクンと、心音が急かすように耳元で鳴り響く。

憂いを含んだようにリナリアは俯いていたけれど、ゆっくりと顔を上げた。

あのキラキラした瞳が、こちらを見つめる。

底の見えない綺麗な淡いブルーが輝き、俺の顔を映していた。

情けない表情をした、リナリアの瞳に映った自分と目が合う。



「せーいち。」



誘うような甘い声で、リナリアは俺を呼んだ。

もう何度呼ばれたのか、思い出すこともできない。

身体が言うことを聞かない。身体が動かない。

瞳を潤ませたリナリアを、ずっと見つめていた。

すると、リナリアの顔がゆっくり近づいてくる。

瞳に映った自分の顔が、少しずつ大きくなっていった。

リナリアの吐く静かな息が、俺の唇を掠める。

ドクン、と脈が大きくなり、俺ははっと我に返った。

あと少しで触れてしまいそうなほど、リナリアの顔が近い。

ほとんど反射的に、リナリアの口を手で塞いでいた。



「んにゃ…っ。」

「っ、」



リナリアは驚いたように目を見開き、小さく声をもらした。

あと少しで重なりそうだった唇が、俺の手のひらに触れている。

速く脈を打っている心臓が、まだ落ち着かなそうだった。

深く息を吐いて、その心臓を落ち着ける。

リナリアは俺の手をぎゅっと握り、ゆっくりと外した。



「なんで…?」



リナリアは不安そうな瞳をこちらに向けた。

"私のこと、好きじゃないの?"

そう言っているような瞳に、ドキと心臓が跳ねる。

なんで、と聞かれてもその理由は出てこない。

ただ、今は駄目だと無意識に感じていた。

今してしまうと、全てが流れてしまいそうで。

リナリアは様子がおかしい。それをひしひしと俺は感じていた。

不服そうな潤んだ瞳をしっかりと見つめて、俺は口を開いた。



「リナリア、どうしたんだい?」

「…?」



俺はそう言いながら、リナリアの前髪の下から額に触れた。

けれど手のひらに伝わってくるのはいつものリナリアの体温。

リナリアは首を傾げていた。

ふと視線が下に向いたかと思うと、呟くようにリナリアは言った。



「からだ、あついの…。」



熱っぽい瞳がこちらを捕らえる。

俺はうっと言葉に詰まったように、何も言えなかった。

潤んだ瞳を見つめているだけで、気がおかしくなってしまいそうだ。

それでも、辛そうな様子のリナリアに戸惑いを覚える。

"身体が熱い"。熱はなくても、リナリアはそう感じている。

病院に連れていこうか、と思ったけれど、それは思いとどまった。

リナリアには、人間にはない耳と尾がある。

それを病院で隠しきれるだろうか?答えは、ノーだ。

俺は、どうしたらいいのだろう。

漠然と、焦燥感だけが募っていく。

俺の手に触れているリナリアの手に、ぎゅっと力が入った。

なんとか、しなければいけない。

小さく眉を寄せているリナリアの顔を見て、使命感とも呼べる感情に駆られた。

けれど、俺には何をしたらいいのかわからない。

なぜ、リナリアがこんなことになっているのかも。

こんな時すぐ思い浮かぶのは、テニス部の皆だ。

俺はすくと立ち上がって、身体を縮めているリナリアを見た。



「少し、待っててくれないかい?」

「にゃ…ん。」

「ありがとう。」



小さく頷いたリナリアに、俺は安心させようと微笑んだ。

そして、部屋にある携帯を求めて足を歩ませる。

階段を上り、部屋の扉を開いた。

机の上にある、充電された携帯電話を手に取る。

携帯電話を開き、電話帳のメニューからある名前を引き出す。

"蓮二"

その名前を出し、電話メニューで発信を押した。

そして耳に携帯をあててコール音を数えながら待つ。

蓮二ならば、何かわかるかもしれない。

我が部の参謀役である"達人(マスター)"ならば。

数十秒ほど待つと、プツッという音を立ててコール音が切れた。



「精市、どうかしたのか。」

「あぁ…朝からすまない、蓮二。」



スピーカー越しに聞こえるのは、低く響く落ち着いた声。

その声に、俺の焦りは消えていく。

けれど、どう話を持ち出したらいいのかわからなかった。

少しの間、口を噤んでしまう。

スピーカーから聞こえる、荒い機械音。

何も言わない俺に、蓮二も何も言わなかった。



「リナリアが…。」

「あぁ。」

「…リナリアの、様子がおかしいんだ。」



ただ俺は、それだけを言った。

何かあったのか、と聞かれてもそれは答えることができない。

俺の欲にまみれた行為を、知られたくはない。

何かを聞かれる前に、俺は自分で予防線を張った。



「目が潤んでて、頬が紅潮してる。
熱かと思って測ってみたけど、熱はないんだ。
でも、リナリアは身体が熱いって言ってるんだよ。」

「…。」



俺がそう言うと、蓮二は考えるように口を噤んだ。

俺はドクドクと脈打つ心臓を感じている。

すると、蓮二は静かに口を開いた。



「そうか…。」



スピーカー越しでは、その声から何の感情も読み取れなかった。

それから、少しの間静かな状態が続く。

蓮二でも、わからないのだろうか。

リナリアのことを想う、不安が心に募る。

おそらく様々な物事を知っているのは蓮二だ。

頼りきりで悪いとも思うが、今の俺ではどうすることもできない。

俺はほとんど言葉を失ったように口を閉じていた。

それからどれくらい経ったのかはわからない。

ふと、蓮二が呟くように言葉を紡いだ。



「ひとつ、思うところがある。
そっちに行ってもいいか?」

「!っ、本当かい?
あぁ、大丈夫だよ。」

「わかった。では近々そっちに向かおう。」

「ありがとう、助かるよ。苦労をかける。」



蓮二の言葉に、俺の心に安心が広がるのを感じた。

俺は自然と口元を緩ませながら、感謝の言葉を伝えた。

これで、何とかなるかもしれない。

安心感に、身体の緊張が解れた。

そしてお互いに軽く言葉を交わし、通話を終了させた。

携帯を閉じ、元あった場所に置く。

蓮二が気づいたことは一体何なのだろう。

そう思いながら、俺は部屋から出た。

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