「あー、くやCー!」
審判の声が響くと、芥川は地団駄を踏みながら声を上げた。
しかし、言葉には合っていない、楽しそうな表情。
その表情を見ながら、俺は小さく眉を寄せていた。
太陽にあてられ輝く汗を流しながら、丸井がベンチに近づいてくる。
俺は氷帝側から目を離し、丸井を見た。
横から赤也が嬉しそうな声で丸井に話しかけた。
「丸井先輩、お疲れさまッス。」
「おう。サンキュ。」
「にゃん。ぶんた、すごいねっ。」
赤也の言葉に、丸井は笑って答えた。
ベンチに置いてあったフェイスタオルを持ち、流れてくる汗を拭く。
そのとき、俺のすぐ横にいたリナリアが口を開いた。
うとうととまどろんでいたのだが、途中しっかりと覚醒したのだろう。
丸井のプレイスタイルに、目が輝いていた。
そんなリナリアに、丸井は驚いたように目を見開く。
状況が読み取れていないように、俺とリナリアを見比べていた。
その瞳が、俺とリナリアの間がどうなったのだろうかと心配している。
俺はその瞳に微笑んだ。リナリアとはもう大丈夫だという気持ちを込めて。
丸井はその思いに気づいたようで、ほっと軽く息を吐いた。
そしてリナリアに向き直り、口元を綻ばせた。
「まぁな。天才的だろぃ?」
「うんっ!」
丸井が得意そうに言うと、リナリアは興奮したように頷いた。
俺達のベンチでは勝利への満足とリナリアが戻ってきた安堵が広がっていた。
少しの間そうしていると、跡部達、氷帝レギュラー陣がこちらに近づいてきた。
それに気づいた俺達は先程まで開いていた口をそれぞれ閉じる。
不機嫌そうな跡部のあの冷たい瞳が、静かに細められた。
跡部の後ろにいるメンバーは、気にしているようにリナリアを見ていた。
「お前ら、今回勝ったくらいでうかれてんじゃねぇぞ。」
「ぁあ?そういうこと、負けた人たちが言う言葉じゃないと思いますけどね。
ただの、負け犬の遠吠えに聞こえますよ。」
「なんだと?二年坊主。」
跡部の言葉に、赤也が挑発の言葉をけしかけた。
その一瞬で、俺達との間にピリッとした何かが表れる。
跡部は赤也を睨み、赤也は皮肉めいた笑みで跡部を見ていた。
リナリアはそのピリピリとした空気に、怯えたように身体を俺の後ろに隠す。
ぎゅっと、繋いでいる手に力が込められた。
それにしても、赤也もいらない挑発をしてくれた。
そう思いながら、俺は小さくため息を吐く。
こんないざこざ、起こしたところで何もいいことはない。
俺が口を開こうとしたちょうどその時、隣から赤也を制する声がかけられた。
「赤也!」
「ッ、」
弦一郎が声を張ると、赤也はビクと肩を跳ねさせた。
赤也はそろそろとこちらを向き、弦一郎の顔を見てゆっくりと後ろに足を動かす。
弦一郎は堂々と胸を張り、跡部の前まで歩いていった。
「すまなかった。
だが、俺たちは常勝するのだ。こんなことでうかれている暇など元よりないのでな。」
弦一郎がそう言うと、丸井と赤也がギクッと反応した。
そして、自分には何も関係ないとでも言うような顔を装う。
そんな二人を仁王が肘で小突いていた。
跡部は弦一郎の言葉に、苦虫を噛みつぶしたかのような表情をする。
そのとき、様子をうかがっていたリナリアが心配そうに顔をのぞかせた。
ぱちぱちと瞬きをして、俺の手を軽く引いた。
「どうしたんだい?」
「…げんいちろー、おこってるの?」
そう言ったリナリアは、どうやら跡部が弦一郎に怒られているように思ったようだ。
跡部を心配そうな瞳で見つめ、びくびくと怯えたようにしている。
リナリアの中では、弦一郎は恐いというレッテルが貼られてしまっているに違いない。
少し笑い出しそうになったのをこらえて、俺はリナリアに微笑んだ。
「いや、怒ってないよ。」
俺がそう言うと、リナリアは小さくほっと息を吐いた。
安心したように表情を緩めたリナリアに、思わずドキリとする。
けれどそれも、一瞬でおさまった。リナリアが跡部達氷帝レギュラー陣に視線を移したのを見て。
代わりにモヤとした何かが心の中に生まれる。
これは嫉妬だ。リナリアのあの綺麗な瞳に跡部達が映ったことへの嫉妬。
あぁ。いつの間にかこの感情に慣れてしまっている。
それでも、反感のようなこの感情はなかなかおさまってくれはしないけれど。
俺は静かに瞳を閉じ、深呼吸をした。
落ち着け。そう自分の心の中に言いきかせる。
そのとき、ほっと心が温かくなったのを感じた。
リナリアの手の温度。
指先からじわと伝わり、体幹にまで染み渡っていく。
心地いい。胸の中のモヤがかったものが、晴れていくのを感じた。
そうだ。リナリアは俺を選んでくれた。
リナリアの本当の気持ちはわからないが、その事実が誇らしくうきあがる。
俺はその心のまま瞳を開け、リナリアの前に歩み出た。
そして弦一郎の前に立ち、穏やかな気持ちで微笑む。
「今日の試合はなかなかのものだったよ。
また、よろしく頼む。」
「あぁ…。
次は、その天狗鼻じゃいられなくしてやるからな。」
「ふふっ、それは楽しみだ。」
俺がそう言うと、跡部はばつの悪そうな顔をした。
俺から視線を外し、ふとリナリアの方を見る。
その跡部の瞳の輝きに、ドキリと胸が苦しくなる。
前と違っていた。ぼんやりとした形のない不確かなものであったのに。
今は深く、燻ったような熱情に変化している。
あの間に、一体何があったのだ。
自分の入ることのできない空間。跡部と忍足と芥川、そしてリナリアだけの空間。
穏やかな気持ちであったのに、あっという間にそれは揺らぎ始めた。
けれどそれはほんの一瞬で、すぐに俺の心は元に戻る。
跡部は自然にリナリアの方から目を離し、額を手で押さえながらため息を吐くように言った。
「帰りのバスも、出してやる。」
「あぁ、助かるよ。」
跡部の言葉に、後ろの方で丸井と赤也が反応したのを感じた。
行きにしてもそうなのだが、バスを出してもらえるのは確かに助かる。
それに、皆も少なからず疲れているだろう。
俺はそう思いながら、跡部に微笑んだ。
そうだ。何も気にすることなんてない。
跡部の気持ちを、気にすることはない。
安心するのとともに、変な気持ちの緊張が消えていった。
穏やかな、心地いい気持ち。
リナリアの手から伝わってくる温もりを感じていると、蓮二が口を開いた。
「では、俺たちは支度をしよう。」
「えぇ、そうですね。」
蓮二の言葉にそれぞれに返事をし、ベンチに足を歩ませた。
俺は氷帝レギュラー陣の中にいる跡部、忍足、芥川を見て瞳を閉じた。
気にすることは、ないんだ。
すぐ横のリナリアの存在をはっきりと感じながら、瞳を開ける。
リナリアはぱちっと開いた大きな瞳で氷帝レギュラー陣を見ていた。
すると、ふと俺の方にその瞳を移す。
吸い込まれてしまいそうに果てしなく広がった淡いブルー。
その瞳は細められ、リナリアの顔に華が咲いたかのように笑顔が広がった。
きゅっと心臓が縮みこむように苦しくなる。
自分の心音がすぐ耳元で聞こえるかのように、気持ちが急いだ。
けれど、幸せだ。信じられないほど素直に、そう思う。
リナリアの笑顔が見られた。その笑顔が、こちらを向いた。
それだけで、こんなにも高揚してしまう。
俺は緩んだ口元のまま、リナリアに声をかけた。
「リナリア。俺たちも、行こうか。」
「うんっ!」
リナリアは笑顔で頷き、俺達は皆に遅れてベンチへ向かった。
ベンチでは皆がこちらを向いて微笑んでいる。
後ろからは、何の音も聞こえない。
俺はただ、リナリアから向けられる微笑みに幸せを感じていた。
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