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10分ほど経っただろうか。身体を震わせるような雷鳴がようやくその姿を潜め、空間は静寂に包まれた。
男は目の前の白い塊に密着していた身体を動かし、押さえつけていたその分厚い手を離した。牛乳を零したように白い布団をゆっくりと剥がす。
「…もう大丈夫だ」
恐怖で震えているだろう少年を安心させようと顔を覗き込む。しかし意外にも目の前の少年は穏やかな表情で眠りに落ちていた。血色を失い青白かった肌は本来の健康的な白さを取り戻し、頬は薄い桜色に色づいている。淡紅色の小さい唇からは規則正しい寝息が聞こえてきて、男は目を細めた。
男はルークをしばらく眺めると、その身体を軽々と抱えてベッドに横たえた。起こさないようにそっと上から布団をかける。ベッドに腰かけ、ルークの白に近い銀髪に手を伸ばす。指で撫でつけるように触れるとその手は徐々に下がり、滑らかな頬をそっと撫でた。その手は微かに震えていた。眉を寄せ苦しそうな表情をした男は立ち上がると顔をルークに近づけ、その魅惑的な色彩の瞳を覆う瞼にそっとキスをした。
その時、男は何かに気がついたように体の動きを止めた。瞠目し、ヘーゼルの瞳が揺れる。ルークから身体を離すと何かを思案するように顎に手を当てた。眉を顰め何かを睨めつける。その眼光は鋭く、殺意すら滲み出ていた。
「──アベル」
突然、背後から名前を小さく呼ばれ男は勢いよく振り返った。
「レオ」
寝室の扉はいつの間にか開かれ、そこには背の高い細身の男が壁に寄りかかっていた。肩にかかりそうな程長めのウェーブがかかった髪に、琥珀色の瞳を持った男は、アベルと呼んだ男を射抜くように見ている。
「住居侵入罪だぞ」
「……悪い」
アベルは一度、心地よさそうに眠るルークの方に視線を向けた後、足音一つ立てずに寝室を出て静かに扉を閉めた。先に廊下に出ていた男が廊下の奥を指さし、ついてくるように促す。アベルは素直に従い、男の後ろに続いた。
「お前びしょびしょじゃないか。ほらこれで身体拭け。シャワー浴びてくか?」
「いや、大丈夫だ」
リビングに足を踏み入れると、レオからバスタオルを投げて渡されアベルは礼を言って受け取った。リビングは狭く、2人掛けのテーブルと椅子、棚ぐらいしか物がなかった。こじんまりとしたキッチンが併設されている。
アベルは触り心地の良いタオルで簡単に身体を拭く。ルークからしたのと同じ甘い匂いが鼻をくすぐり、僅かに目を細めた。
「今日は早いな」
濡れた深藍色の髪をガシガシと乱暴に拭きながらアベルは言った。
「ああ、今日は患者の数が少なかったからな。しかもこの天気。あいつのそばにいてやりたかったってのもある」
レオはどうやら帰宅したばかりのようで、持っていたボストンバッグについた雫をタオルで拭き床に置いた。着ていた黒のコートを脱いでハンガーにかけると、キッチンに行き水道で手を洗う。
「……あいつはいつから雷を怖がっている?」
アベルが椅子に座ってそう尋ねるとレオはハッとしたように下に向けていた顔を上げた。
「いつからかな、俺と暮らし始めてすぐだった気がする。尋常じゃない怖がり方だよな」
「原因は?」
「わからない」
レオは洗った手をタオルで拭くと、冷蔵庫から茶の入った容器を取り出した。コップを2つ持ちアベルが座っているテーブルに運ぶ。コップに茶を注ぎ、喉が渇いていたのか一気に飲み干した。
「それで何でお前がここにいるんだ?ルークは寝てるんだろ?」
アベルの向かい側に腰かけ、頬杖をついてレオは言った。栗色の髪が頬にかかる。その口元は呆れを含んだ笑みを浮かべていた。
アベルが今までの経緯を簡単に伝えると、レオはやっぱり、とでも言うように長くため息をついた。
「痴漢野郎を捕まえてくれたのには礼を言うが、あんまり安易に接触するな。どんな影響があるか」
「…分かっている」
アベルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてレオから視線を逸らすと、コップを口に運んだ。ゴク、ゴクとその太い喉が音を鳴らす。
「それで何か手掛かりは掴めたのか」
「……いや」
悔しそうな表情を浮かべるアベルを見て、レオは「そうか」と静かに答えた。寝室の方向に視線を向けて、唇を噛み締める。
「…そういえばお前婚約者がいるんだってな。お前もいよいよ結婚か」
重苦しい雰囲気を一蹴するようにレオが明るい声色でそう言った。しかし、アベルは機嫌を損ねたかのように眉を顰める。
「それはもうとっくのとうに破談になっている」
「…そうだと思ったよ」
呆れたようにレオが笑う。もうちょっと冗談を冗談らしく受け取ってくれてもいいんじゃないのか、とレオは内心愚痴を零した。
沈黙が流れ、再び重苦しい空気が二人を支配した。この家を潰してしまいそうな勢いで激しく降り注ぐ雨の音だけが部屋の中に響く。
「……もう12年だ。お前ももう新しい人生を歩んでもいいんじゃないのか」
我慢していたものを吐き出すように、レオがそう呟いた。呟いた後に、レオは禁忌の台詞を吐いてしまったことに気づく。恐る恐る顔を上げると、レオの予想通りアベルは湧き上がる激情を抑え込むようにレオを睨みつけていた。普通の人間ならば足がすくんでしまいそうなほど恐ろしい顔をしている。その眼光の鋭さと威圧感に、一気に自分の体温が下がっていくのをレオは感じた。
「帰る。傘借りてくぞ」
勢いよく立ち上がり、アベルはリビングを後にする。慌ててレオはその大きな肢体を追いかけた。玄関に着くと、アベルは立てかけてあったレオの濡れた傘を手に取っていた。アベルは背後の気配に気づくと振り返る。
「ルークから奴の気配がした」
「え?なんだって?」
レオは突然のアベルの言葉に思わず目を見張る。鼓動が早まり、手が汗で湿った。
あいつに、近づいているのか。全ての元凶が。
「俺たちの知らない間に接触している様だ。気をつけろ」
静かな怒りを内に押し込めたアベルは、そう言って玄関の扉に手をかけた。が、扉を開こうとしたその手の動きを何故か止める。
「レオ。──俺は絶対に諦めない」
低い声で唸るようにそう言い捨てて、アベルは家から出て行った。
バタン、と扉が閉まる音が廊下に響き、残されたレオはしばらくその場で立ち尽くす。最後のアベルの台詞が頭の中でリフレインし、やがてレオの中で深い後悔の念がジワジワと広がった。短くため息を吐く。
「俺も別に諦めたわけじゃねんだよ」
どこにも行き場のない感情が膨張し、身体中を圧迫して口から漏れ出す。レオはやさぐれた様に自身の栗色の髪の毛を乱暴に掻くと、リビングの奥にその姿を消した。
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