回想7
その途端、我に帰った俺は慌てて先輩から距離をとる。先輩は機嫌を損ねたように眉を顰め扉の方を見ていた。
「誰だ?」
先輩が低い声を出し立ち上がって扉の方へ向かおうとすると、扉の向こうから微かに男の声が聞こえてきた。
『穂積ー、鍵忘れたから開けてー』
「…ああ」
先輩は声の主が誰だか分かったように頷くと、俺の方を見た。
「ごめん朝、ちょっとこの部屋に隠れててもらってもいいかな?」
「あ、はい分かりました」
案内された部屋に入る。先輩が電気をつけ、「ごめんね、ちょっと待ってて」と申し訳なさそうに言い扉を閉めた。俺は遠慮なく中をぐるりと見回す。中はシングルベッド、タンス、クローゼット、机と椅子しか置かれていなかった。先輩からいつも香るあの花の匂いが鼻をくすぐる。
──先輩の自室だ…。
まさか、入る時が来るとは。
俺はドキドキと脈打つ鼓動を抑える。机の上は文字がびっしりと書かれた原稿用紙が散らばっていて、意外にも整理整頓はされていなかった。棚の上には先輩が好きだと言っていた作家の本がずらりと並んでいる。あまり見てはいけないものだとは分かっていたが、好奇心には勝てなかった。机の方へ足を向ける。
『どうして俺はこんなに辛い思いをしなくてはいけないのだろう。
過去の過ち?前世の行い?俺が全て悪いのか?俺はこの世に俺を連れ出した両親までもを恨む』
一番手前の原稿用紙には、先輩のいつもの楷書のお手本のような字とはかけ離れた乱雑な字でそう書いてあった。消しゴムで消した跡が至る所に残っている。よく分からないが、苦悩に満ちた男をテーマにした小説らしい。
ふと俺は、机の上に置かれた一つの小さなキーホルダーに目を引き寄せられた。それは塗料がほとんど剥がれてしまっているクマのキーホルダーに小さな鈴がついているものだった。
──あれ、これ、どこかでみたことあるような…。
なぜかそれに既視感を覚え、俺は首を傾げる。そのキーホルダーを近くで見ようと手を伸ばした瞬間、部屋の扉がガチャ、と開いて俺は慌てて手を引っ込める。
「ごめん朝、お待たせ。もう出てきていいよ」
「あ、はい。…誰だったんですか?」
俺は部屋を出る。それと同時に腕時計に目をやった。もうすぐ18時になるところだった。
「同室者。忘れ物取りにきたみたいでさ」
「そうなんですね、あ、そろそろ俺帰ります」
さすがにもうお腹がペコペコだし、長居して先輩に迷惑もかけたくない。
俺の言葉に先輩は眉を下げ少し残念そうな顔をした。
「もう帰るの?」
「はい、宿題もやらなきゃですし」
「…そう」
先輩はそのサラサラヘアーを揺らして俯く。その心底悲しそうな様子に俺はぎゅ、と胸が締め付けられる。
「先輩、さっきの本良かったら貸してもらえませんか?来週くらいに返すんで」
そうお願いすると先輩はバッと顔を上げ、明るい顔で「もちろん」と頷いた。そして共有スペースに置き去りになっていた本をいくつか袋に入れて持ってきてくれた。
「読んだら感想聞かせて」
「ありがとうございます」
お礼を言って微笑むと、先輩は満足そうに笑顔を浮かべた。
「それじゃ、後でまたメールしますね」
「うん、待ってる」
誰もが見惚れてしまう優しげで美しい笑みを浮かべながら、先輩は部屋を出る俺に手を振って見送ってくれた。一応外に出る時にキョロキョロと周りを見たが誰もいなかったので急いで部屋を出て、階段に向かった。
部屋に着いて自室に入り、俺はすぐに先輩にメールを送った。すると1分も経たずに返信が来て、俺は1人で笑ってしまった。
その時、笑った俺を見てビックリした先輩の顔を思い出す。先輩の前で笑ったことがなかったなんて、自覚してなかった。俺はいつも、先輩といると楽しくてワクワクする気持ちでいっぱいだったから、自分は常に笑っているものだと思っていた。
──それにしても、先輩とまた話せるようになって良かった。
先輩が俺のことを邪魔だと思っていると知ってから、ずっと胸の中に重石が乗っているようだった。息苦しくて、ずっと暗い気持ちで。でも今は、快晴の下、思いっきり深呼吸した時のように胸の中がスッキリしていた。
吉野の言ったことは全部嘘だったんだ。
今思えば、吉野のことを信じ込んだ自分が馬鹿みたいに感じた。でも、それだけ吉野のあの俺への悪意は本物で、あの気迫は言っていることに疑いの余地を与えなかった。
──なんで吉野はあんなに俺のことを目の敵にしているんだろう…。
その謎が気になり、今度は先輩よりも吉野に会って話を聞きたい気分だった。
その次の日から俺は視聴覚室で先輩と一緒にお昼を食べるようになった。一緒にお昼を食べていた小栗には"泉くんに『俺が中等部を卒業するまでお昼を一緒に食べてくれ』とお願いされたから仕方なく食べてくる"と言って、納得してもらった。
先輩とお昼を食べることで親衛隊に何か嫌がらせをされるんじゃないかとヒヤヒヤしていたが先輩が手を回してくれたのか、何事もなく平和な生活を送ることが出来てホッとしていた。視聴覚室は俺と先輩以外に誰も来ることがなく、居心地の良い場所だった。
先輩はいつも栄養バランスばっちりで色鮮やかなお弁当を持ってきていた。どうやら同室者が作ってくれるらしい。俺の中で先輩の同室者への謎が深まった。
──そんなある日、吉野静がまた俺の前に姿を現した。
その日全ての授業が終わり、教室を出た俺を吉野は仁王立ちで待ち構えていたのだ。
「ちょっと榎本くんさあ、何で穂積とお昼食べてるわけ!?」
吉野は相当ご立腹のようで、俺たち以外誰もいない空き教室の中でそう声を荒げた。
「えっと…色々ありまして」
「穂積にも怒られるし…俺言ったよね?穂積には近づくなって」
吉野はその猫のような目の眦を釣り上げ、顔を真っ赤にして怒りに震えている。
これ、ヤバそう。
直感的に身の危険を感じた俺は、この場から逃げようと一歩後ろに下がった。それを見た吉野が過剰に反応する。
「ちょっと、何逃げようとしてんの!?」
吉野が俺の腕を掴み手前に力強く引っ張った──
丁度その時、教室の後方の扉がガラッと勢いよく開いた。
「あ、いた」
俺と吉野は動きを止め、扉に視線を移す。そこに立っていたのは眼鏡をかけた長身の生徒だった。
「博、何でここに…」
「穂積に頼まれて。静、もう諦めろ」
生徒は俺たちの側にやってくると、吉野の手を掴んで俺から離した。近くで見ると、その生徒はえらく顔立ちが整っていた。一重で切れ長の瞳に、高く形の整った鼻梁。薄い唇は妙な色気があった。黒い髪は清潔感のある程度に長い。全体的に知的で落ち着いた印象を受ける、かなり背の高いイケメンだ。
「だって…こいつがいなけりゃ…」
吉野は悔しさを噛みしめるようにそう言った。
──何故か、吉野の目には涙が浮かんでいた。
俺はその姿にひどく困惑する。
どうして?
俺は何か先輩に悪いことをしているのか?
「ごめんね榎本くん。この件は穂積に内緒で」
見知らぬ生徒は吉野を連れて教室を出ようとする直前に、口元に人差し指を作ってそう言った。何で俺の名前を知ってるんだ、とか、穂積先輩とはどういう関係なのか、とか聞く間も無く2人は教室から出て行ってしまった。
俺は1人残された教室で、俺の中でどんどんデカくなる吉野の行動の奇怪さにただ戸惑っていた。
「先輩、俺に何か隠し事してる?」
「え?」
俺は次の日に先輩にそう尋ねた。
先輩は大きく目を見開いて俺を見る。その手元のお店で売ってそうなお弁当は、1割も減ってなかった。
「食欲ないみたいだし…体調悪い?」
「ちょっと、朝ご飯食べすぎただけだよ」
そう言っていつもと同じ微笑みを浮かべた先輩の顔色は酷く悪い。俺は無性に心配になって、先輩のおでこに手を当てた。ビク、と先輩の肩が揺れた。
「熱っ、先輩熱あるじゃん。保健室行った方がいいよ」
手のひらに伝わる熱は火傷をしてしまいそうな程熱かった。こんな高熱でいつもと変わらない様子を装っていた先輩に尊敬の念すら抱いてしまう。先輩はおでこを触っていた俺の手を不意に掴むと、自分の頬へと持って行った。
「先輩?」
ボンヤリとした瞳が俺を真っ直ぐに捉え、離さない。その虚ろな瞳に何の感情が込められているのか、俺には汲み取ることができなかった。
「先輩──」
その手をグイ、と引っ張られ、俺は先輩の胸の中に倒れ込む。離れようともがくが、先輩の手は俺の身体をガッチリとホールドしていた。俺は身体を動かすのをやめて、先輩の様子を伺う。
先輩の身体は酷く熱かった。俺にこの体温が移ってしまうんじゃないかと錯覚してしまうほど。
先輩の手が俺の首の後ろに回り、俺の髪を優しく撫で始めた。その手は心地よくて、俺は強張っていた身体の力を抜いた。
「先輩、どうしたの?」
小さく問いかけると、先輩はゆっくりと俺から身体を離した。その表情は、一言で言えば暗かった。
「ごめん、今日朝から体調悪いんだ。お昼休み終わったら保健室行こうかな」
「うん、無理しないでそうした方がいいよ」
俺がそう言うと、先輩は何故か心底嬉しそうに笑った。その瞳は眩しそうに細められていて、よく分からないけど、先輩の喜びに満ちた気持ちは俺にも伝わってきた。
その後俺は次の授業の冒頭を犠牲にして、先輩を保健室まで送って行った。
──そして、その日はやってきた。
12月の寒い日。その日は雨が降っていた。
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