小説 | ナノ


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近寄って見ても、その木は桜の木だった。一瞬、梅かと思ったがそれならとっくに身を結ぶなりしているであろうし、何より幹が太すぎる。
専門的な知識を持っていない鬼灯でも、それくらいは分かった。
それなら何故、この木だけ咲いていないのだろうか。
何気なく鬼灯がその黒い枝に触れようと手を伸ばそうとすると、
「……さま。……鬼灯様!」
不意に後ろから名前を呼ばれ、振り返った。
「こんなところでどうされたんですか?」
「……木霊さん」
綺麗なアーモンドのような瞳をくりくりさせて、木霊は「お久しぶりです」と愛想よく笑った。

「もしかして、地縛霊の回収か何かでこちらに?」
「いえ、現世の視察に行こうとして少し寄り道を……」
ちらりと横目で後ろの木を見ると、すかさず木霊が訊いた。
「その木が気になるのですか?」
「ギャグですか、その台詞」
「……はい?」
「――何でもありません。それにしても、これは桜ですよね? どうしてこの木だけ花をつけていないのでしょうか」

そう鬼灯が尋ねると、木霊は「あぁ!」と満面の笑みで手を叩いた。
「その木は少し曰くがあるんですよ。ーー少し長くなるのですが……」
「構いませんよ。下に降りるにはまだ時間がありますし」
それなら、と木霊は瞳を閉じ、ゆっくりと口を開いた。




昔々ーー気が遠くなるほどの昔。
ここには、とある長者の屋敷があった。その広い敷地の中、黒竜木は一番美しく咲いていた。
流水に溶け込んだ墨のような漆黒。
限りなく鮮やかに、それでいてひそやかに開く花弁。
そして何より、一度嗅いだら忘れることはできないという香り。
この桜見たさに村の者はこぞって貢ぎ物を献上したそうな。
そして、長者の屋敷にはこの桜と同じくらい、儚い少女がいた。
娘は常に木の側にいた。
「私ね、この木が好きなの。ずっと見ていたいの」
そう言って、幼い頃からこの桜の木の下で育っていった。

年が流れ、娘は大人になった。
村で誰よりも清純で、美しかった。
やがて、隣の村から、ぜひ長の息子の嫁にと求婚を申し込まれた。
これはめでたいと二つ返事で承諾し、うまい具合に話が進んでいった。
そして婚姻の前日、娘は木に告げた。


「さよなら。きっと、もう二度と逢えないわ」


――
悪戯に鬼灯が他の桜の花弁を触ると、たやすく千切れてしまった。
「いけませんよ、鬼灯様。大事にしてください」
「すいません。いや、その……木霊さんのお話が……」
「あ、はい。この木の説明でしょう?」
木霊が可愛らしく、首をコテンと横に倒す。それを見ながら、気まずそうに鬼灯は、
「とてもよくある昔話で……」
と言った。
「この手の説話はどこにでもありますよね。美人な女性が金持ちの元へ嫁ぐエピソードなんて」
たいして珍しい話ではないでしょう、と。
言いながら鬼灯がそっと木の幹を撫でると、冷たくて滑らかな感触が伝わってきた。花を咲かせなくても、その存在感はあまりに歪で、不調和で、際立っていて。
これは本当に桜の木だというのだろうか。
それにしてはあまりにーーーー

「だから、この木は娘を連れていったんです」

はい――? と鬼灯が数秒、考えて出た返事に、木霊は淡々と話し続ける。
「結納の日、娘が家から出て、木の前を通った途端ーー木が倒れたんですよ。娘はそのまま、下敷きになって死にました。不思議なことに、木の枝が複雑に絡まって娘を引き剥がせませんでした」
まるで――木が離れるのを拒むかのように。

絶句する鬼灯に、木霊はニコニコと微笑みを絶やすことなく、鬼灯を見上げた。
「鬼灯様、分かりますか?」
「な、何を――」
「地中に残っていた幹は、やがて元のように育ちましたが、それ以来、花が咲かなくなりました。――これが、この木の秘密です」

未だ呆然とする鬼灯に、「どうか覚えてやっててくださいな」と目を伏せ、寂しそうに口を閉じた。
「えぇ……。面白いお話でした。ありがとうございます」
鬼灯が素直に頭を下げると、慌てて「そんなことないですよ」と木霊も礼をした。
「そろそろ時間なので、この辺で失礼します。また今度、閻魔殿に寄ってください」
「えへへ……ありがとうございます。現世のお仕事、頑張ってください」
そう言うと、霧の向こうへ木霊は消えていった。

もう一度辺りを見渡す。
桜の花が咲き乱れる中、黒竜木は立っていた。
その姿は醜すぎるほど美しかった。
きっと、この木はこれからも花を咲かせることもなく、ここに居続けるのであろう。



かつてここには人間に恋をした木がいた。



白い霧の中、常闇の鬼神も姿を消した。
黒竜木は、一度、ぶるりと震えたが、すぐに元と同じよう、真っ直ぐと立っていた。


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