2005年 5月



 5月となれば、必然的に同級生との距離は縮まる。どんなに生徒数が多い学校であろうが少数精鋭教育を謳う少人数のクラスであろうが、自身のクラスの大体の特徴は掴める。
 しかし、この呪術高専では同級生が3人しかいないのだ。しかも呪霊が見えるという特殊な事情も兼ねて互いが互いを認識するのはとても早かった。
 同級生は3人だけ。1つ上の先輩だってそのまた先輩だってその程度の人数しかおらず、4、5年生なんかは、在籍しているかどうかもわからずじまいだ。
 高専内の大体の生徒数を把握しているといっても、顔の知らない在学生など当たり前に要に存在する。合同授業は頻繁に行われるわけではないし、そもそも一般的な学校とは違うのだから先輩後輩という上下関係が形成されるのは難しい。
 
 だから、何も変わったところの見られない空間から見たことがない生徒が瞬きした瞬間に目の前に現れる場面に出くわしたとしても、これといって疑問は浮かばなかった。
 どういう術式なんだろう、とか、何年生なんだろう、とか、任務帰りなんだろう、とかそういったことを思うことはできても、全くの部外者だとは想像もできなかった。それは彼女が高専の制服を着ていたということにも理由が挙げられる。
 力無く横たわる様がドラマのようだった。チョークで彼女の周りを囲んでみたら即興の殺人現場が作れそうだと見当違いで馬鹿馬鹿しい妄想を瞬時に思い、数回瞬きをしてかぶりを振り、その思考を追いやるぐらいのくだらない余裕はあった。
 
「おーい?」
「大丈夫ですか?」
 
 目のいい五条が呪力により、呪術師だと判断し、良心を持ち合わせている夏油が心配をして、同性の家入が気を失っている以外は目立った外傷もなく生命活動は問題ないことを確認した。
 家入が何度か体を揺すって覚醒を促すが、静かに閉じられた瞳が開かれる様子はなかった。
 新緑が目立ち始めずいぶん暖かくなってきた。花壇にはピンク、白、赤といったこの季節に見られる花が咲き始めている。初夏にふさわしい暖かくそれでいてじんわりと汗をかくぐらいのやさしい陽射しを緑の部分が一生懸命受け止めて、花弁の色をより美しく引き立たせようとしていた。
 前方には校舎が見えており、天候に恵まれているからと言って、身一つの彼女を転がしておくのは憚られる。
 ぐったりと脱力し気絶している状態の彼女を誰がどこまで運ぶのか、と3人は無言で目を合わせた。
 
「ここは私かな」
 
 夏油が倒れたまま未だピクリとも身じろぎをしない人物に向かって一歩足を踏み出す。
 必然的に夏油が運ぶことになるだろうというのはアイコンタクトを取る前から分かっていた。
 同じぐらいの背丈の同性を家入が運ぶのは、男であるという五条と夏油にとって名折れだ。両者とも体格に恵まれ人1人ぐらい抱き抱えて移動することに関して全く問題がない。五条ではなく夏油が声を上げたのは彼がこの場において最も適任で穏やかな性分だからに過ぎない。
 運搬中に目覚めた名も知らぬ高専生に対して便宜的な対処が取れるのは夏油がきっとこの場にいる誰よりも上手い。
 目覚めた時には混乱しているかもしれない、警戒しているかもしれない、弱っているかもしれない、それらの可能性が正しかった場合、相手の気持ちを慮り、心情的に安心させられるという柔和な穏やかさが夏油にはあった。
 もちろん、もしこの場に担任がいれば、3人ともアイコンタクトを取るまでもなく間髪を容れずに彼に任せていただろう。
 
 筋肉が弛緩し、未だに身じろぎをする様子がかけらにも感じられない女生徒の脇と膝の下に手を差し入れる。体重を夏油の上半身に寄せてから、バランスを保ちつつゆっくりと立ち上がった。
 家入は抱き抱えられている人物の露出している手首を握る。
 
「脈も弱くないし、体温が低いわけでもない、呼吸も規則正しいな」
 
 じきに目覚めると思う。その発言にほっと、胸を撫で下ろす。
 医務室はどの方向だったかと踏み出そうとした足をその場に戻すと、五条が「とりあえず正面の建物入んぞ」と言ったので先導役を任せた。
 
「止まれ!」
 
 突如現れた気配と鋭い声音に3人は足を止めた。彼らが今しがた入ろうと思っていた建物から飛び出して、静止の言葉を投げつけたのは我らの担任である家蛾正道だった。
 
「知り合いか?」
 
 夏油の腕の中で規則正しく胸を上下させている少女を指す。
 咄嗟のことで担任の剣を含んだ発言の意図がわからず、首を振った。
 安心したとでもいうように息を吐いて、足音を極力立てないように近づき、夏油の目の前で止まった。目線はずっと気絶している生徒から離さない。手に持っていた縄でだらりと垂れ下がった彼女の両腕を固く結び、呪符を貼り付ける。
 よく確認しなくてもそれは特殊な呪力の込められた縄だった。
 
 思わず手放しそうになった。知らぬうちに危険人物を抱き抱えていたかもしれないその事実に。
 背中にヒヤリと冷たいものが通り抜ける。余計な厄介ごとは今すぐに手放してしまいたかった。けれど、本当にただの一般人にしか見えない少女を地面に叩きつけるのは怖かった。じわりじわりと湿る手のひらのせいで彼女の体が手から滑り落ちてしまうんじゃないかと錯覚してしまう。
 五条はいつもと変わらない様子だったが、サングラスの奥は細められていた。家入は身の安全の確保を優先させ、夏油から3歩ほど離れ担任の背につく。
 
 担任はそのまま夏油に見知らぬ危険人物かもしれない少女を抱かせたまま、医務室に行くのとは反対側に歩きだし、3人ともついてくるように指示を出した。
 
 
 :
 
 
 道中担任が何も説明してくれない不親切さに対する苛立ちと、少女がいつ目覚めるかわからない恐怖のお陰で少女は恭しく運ばれてた。四面一帯呪符が貼られ、腰掛ける人物の快適さは一切の考慮がされていない木造の椅子に縛り付けられる。
 
「侵入者なんですか?」
 
 肢体を椅子に括り付けられ身じろぎひとつも取れない状況の彼女に同情したのか、家入が気遣うような声を出す。
 
「未登録の呪力だった。しかも呪力反応が突然現れたから、厄介な呪詛師だとまずいと思っていたんだが」
 
 担任の横顔は冴えなかった。担任も彼女が危険人物であるはずがないと思っているらしく、高専内で待機していた呪術師が取らなければならない行動を取ったに過ぎない。
 
「京都生の可能性は?」
 
「それはない。入学する時に呪力登録をしたと思うが、その登録は両校に適応される」
 
「入学予定だったとか? 呪力登録がまだ間に合っていないとか?」
 
 夏油の問いに担任は首を振る。
 
「新入生はお前らだけだ。転入生の申請もない。もちろん京都も」
 
「じゃあ、なんで制服を着てる?」
 
 五条の問いはもっともだった。
 彼女の胸元に光る渦を巻いたようなボタンは高専が特注しているものだ。市場に出回るわけがない。呪詛師が制服を自作して潜入すると言われても、それは不可能なのだ。
 
「わからん」
 
 腕を組み深く息を吐く担任に、3人はただただ困惑するしかなかった。
 
 
 :
 
 
 担任が煮え切らない態度をとった一件に関して1週間が経ち、進展があったと朝のHRで告げられた。
 
 目を覚ました彼女は記憶喪失だった。自分が着ている服のことも、住んでいた街も、何が好きだったかも、自分が何歳なのかはおろか、名前さえも思い出せない状態らしかった。自分が誰なのか、どうしてここにいるのか、何一つとして理解している様子はかった。せっかく目が覚めたのに、肩透かしを食らった気分だ。
 けれど、彼女が言っていることが真実とは限らない。高専側か考えうる最悪のシナリオのように本当は呪詛師で、無垢なふりをして内部崩壊を狙うスパイかもしれない。
 そう疑って話を聞いてみるが、聞けば聞くほど、彼女が何も覚えていないことに対して罪悪感を抱く様子が、演技とは思えなかった。
 言葉につかえながら、なんとか自分自身のことを説明しようとするが、そもそも自分自身のことを思い出せないのだから曖昧で不確定なものしか話せず歯痒い思いをしている悔しそうな表情に夜蛾はどうしても同情してしまう。そして意味のない尋問をしているような気分にさせた。
 
 しかしこちらは、その部分を白色にしなくてはならない。未来の一戦を担う呪術師たちに何かあってからでは遅いのだ。
 そうわかってはいるものの、いつまでも人気のない、札で密封された隔離部屋に彼女を押し込めている事実に心を痛めているのも事実だった。
 彼女は後ろめたいことはなく、ひょんな出来事から記憶を無くしてしまっていて、不幸なことに思い出せず、呪詛師とは関係がないかもしれない。ただ高専の手続きが遅れているだけの潔白な人物かもしれない。
 
 良心の呵責に苛まれた夜蛾が取った行動は、怪しい彼女を自分のクラスに放り込んで監視する、ということだった。
 今年の自分のクラスは特殊すぎる生徒が揃っているし、彼女を1人で行動させなければいいだろう。怪しいそぶりを見かければその場で対処できるようにすればいい。
 入学してからまだ1ヶ月と経っていないが、自らのクラスはイレギュラーな対応を取れるほど成熟している。その力量を信じる価値はある。
 彼女が潔白だった場合、呪術師としての教育は受けて然るべきだとも教育者として思うところもあった。
 
「逢坂かさねというらしい。記憶がないので本名かわからんが、名前がないと不便だろうということで、本人が希望した名前だ」
 
 へぇ、と3人は少女が抱えている事情を受け入れた。
 
「知っての通り呪術師は万年人手不足。知識がなければ1年生から学べばいいということで午後からクラスメイトになる」
 
 午前中は健康診断という名の家系調査を兼ねて身体検査を行うらしい。そして、彼女が監視対象なのは本人には知らされず、拘束されていたのは立入禁止区域にいたからだと説明してあるらしい。
 めんどくさいことになったなぁ、と3人ともがそう思った。


 :


「逢坂かさねです。記憶がないのでご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
 
 体の前で手を握り、やや頬を紅潮させ、眉は下がっていた。
 ぎゅっと握り締められた拳はきっと今日中には解かれることはないのだろう。
 とりたてていうことのない、真面目そうで模範的な生徒になりそうな印象を受けた。
 
 教壇に立つ彼女から向かって左から順次挨拶を返す。だるそうに、端的に、簡潔に自己紹介をする3人の顔をしっかり見て頷いて、一生懸命記憶に留めようとする動作に対して好感は抱く。
 あまりにも普通。凡庸。呪詛師なわけがない、こんな鈍臭そうな女の子。
 そんな彼女を見て、夏油は引っかかるものがあった。
 
「私たち、どこかで会ったことある?」

 言ってしまった後に安い言葉だなと苦い気持ちが込み上げる。
 会ったことあるってお前、会ったことはあるだろうよ、お前が彼女を隔離部屋まで運んだだろ、忘れたのか? と五条が夏油の体を貫くほど眼力で睨む。その視線にわかってるよ、と返事をしたが果たして伝わったかどうかはわからない。
 家入も、酷い言葉だなぁと思いはしたが、それは自分の中に押し留めた。
 
「えーと、すみません。記憶がないので、わ、からないです……」
 
「ごめん、そうだよね」
 
 本当にごめんなさい、と頭を下げる逢坂に夏油は本当になんてことを言ってしまったんだろうと後悔した。
 記憶喪失だと自己申告したばかりの同級生に会ったことがある? だなんて言葉あまりにも意味がわからなさすぎる。左右の2人から非難されるのも無理はない。
 
「もしかしたら会ったことがあるかもしれないので、頑張って思い出せるようにします」
 
 性善説を盲信しているわけではないが、彼女はきっと善人なんだろうな、と固く組まれた指と真摯に返事を返そうとする様子からそう思った。そして呪詛師は務まらないだろう、とも。


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「特殊な学校でね、日によって建物の配置が変わるんだ。変わらないものといえば、寮と教室と休憩所ぐらいなものだよ。まあ、私たちが知らないだけで変わってないと思ってるだけでちょっとずつ動いてる可能性もある」

「そうなんですね」

覚えられるかな、と不安を顔に貼り付ける逢坂に、そんなに心配しなくても大丈夫と励まし、物知り顔で逢坂に説明する夏油も実際にはよく知らないのだ。彼も入学してまだ1ヶ月経つか経たないか、という誤差レベルの程度の先輩でしかない。

あまりにも広い高専内を1日で回り切るのは無理があるから、とりあえず必須で伝えておいた方がいいと思う場所を案内することになった。五条は文句を言っていたが、決定事項には従わねばならない。
現時点では怪しくないが、身元がわからない以上信頼を寄せるなんてことはできないので離れず監視するしかないのだ。

高専内を練り歩り、敷地内に流れている川を渡るための橋であるとか、明らかに人の手が入っていないだろう森と言っても差し支えない道や、足腰にとって優しくない必要以上に多い階段や坂にいちいち感銘を受けている逢坂を見ているのは少しばかり面白かった。
五条含め今年の1年生はみな大人びたところがあるから、素直に目の前のものに一喜一憂できる逢坂のことが新鮮に映った。

不機嫌を隠すことなく、率先して案内役を務めるわけでもなく、後ろを付かず離れずで着いてきた五条が根を上げたのは夏油や家入が想像していたよりも遅かった。
1時間もすれば今日はもう引き上げて解散しようと言い出すかと思っていたのに、なんだかんだで頭上に輝いていた太陽が赤みを帯びる時間帯になってやっと、休憩しようと言い出したのだ。

じゃあ、高専内では数少ない時間きがある場所で休憩でもしようか、と提案したのは夏油っで、タバコも吸いたいから、と寮の方面にある比較的自販機のレパートリーがある休憩所を指定したのは家入だった。


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缶コーヒー、炭酸の強そうなエナジードリンク、お茶、と3人は自分が飲みたいものをさっさと選んでベンチに座る。

一口口をつけると存外喉が渇いていたのだと気づき、ごくごくと飲み進めた。
はぁ、と一息ついた時に逢坂がまだ自販機の前で立ち往生していることを不審に思い、もしかして自販機の使い方も忘れてしまったのだろうか、と家入が声をかける。

「買い方がわからない?」

「いえ、えっと……お金がなくて」

家入は目を丸くした。顎に手を当て、努めて朗らかに逢坂は言ってるが、担任のあまりの配慮の浅さに眩暈がした。それもしかたない。きっと彼女を1年生に編入させるためにも一悶着あっただろう。ずっと監禁している方が効率はいいのだし、でもだからと言って記憶なしの彼女が見知らぬ場所で生活をしていくにはまずお金はなければならない。最低限の身の補償は約束されなくては。女子は何かと物入り用だし、記憶がないから初めての一人暮らしだ。お金がなければ何かと不便だろう。
これは担任と相談し、任務の報酬金を前借りさえてもらうか、何かしらの措置を取ってもらわなければならない。はぁ、とため息をつきたいのをグッと堪えて、同性の同級生ができた祝いに、と言って遠慮する彼女にドリンクを選ばせた。

「あんな鈍臭そうな奴が呪詛師なわけない。呪力だって別に特別なところはないし」

「私もそう思うよ」

彼女ののほほんとした危機感に欠ける横顔をみる限りね、と夏油が中身を半分以上飲み干したペットボトルの蓋を回す。

新しい同級生は記憶喪失ではあるが、大丈夫だろう、というのが今の所の3人の共通認識だった。危機感が皆無と言おうか、お気楽そうな様子をみる限り、呪詛師にスカウトされるどころか、呪術師にも向いてなさそうに思う。

夏油が寮に連絡を入れて今日の夕飯は4人分作ってくれるように頼み、電話を切った後、ガタガタと石畳の上を車輪が転がる音が聞こえた。
4人で並んで座っていたため、一斉にみんなで音の方を向く。
台車を押していたのは作業着を着た男性で、台車には段ボールが積まれていた。向かってくる先がこちらということはドリンクの補充できた業者だろう。そう検討をつけると、逢坂以外の3人はすっかり興味を失って、週末に、日用品を買いに行くための計画をたてようとしていた。

そんな3人を差し置いて逢坂は立ち上がった。その気配に3人は会話を一度やめた。どんどん離れ、作業着の男に近づいていく後ろ姿を見守る。少しばかり会話をし、ぺこぺこと何度かお辞儀をしてこちらに戻ってきた。遠目からではただ挨拶をしに行ったのだろうと予測がついた。
ベンチに戻ると逢坂に注目していた3人の目線に気がついた。

「先程、校内にいる方は限られた人しかいないと教えてもらったので、自己紹介をした方がいいかな、と」

そう思って……と、しどろもどろになりながら、3人に説明する。そんなにおかしな行動をとったつもりは毛頭なかったが、業者には気軽に声をかけてはいけないルールのようなものがあったのだろうかと今更になって不安が込み上げた。
きっと、記憶を取り戻すまでのしばらくは世話になるだろうし、同級生が3人だけということを鑑みれば、校内の人たち全て顔見知りになる可能性があるかもしれないと、校内を案内してもらう中で誰1人としても生徒にも先生にもすれ違わなかったからそう思っただけなのだ。
それならば、挨拶をしておいた方がいいのかも、とそう思っただけなのだ。

「あんまり良くなかった、んでしょうか?」

「いいや」

自信をなくしだんだん声が尻すぼみになる逢坂をすかさずフォローしたのは夏油だった。

「悟に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと思ったよ」

「はぁ!?」

「いいじゃんそれ」




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