2006年 3月



 2006年 東京呪術高等専門学校 女子寮
 
 逢坂かさねが目の前で消えてからもう2ヶ月以上が経った。
 春分も過ぎてすっかり春らしい暖かな日差しが感じられるようになってきたこの頃、夏油は家入に声をかけられ女子寮に足を踏み入れた。
 あと数日もすれば新入生がやってくる。それまでにかさねの部屋を片付けておけと次期学長に指示を受け男手が必要だろうと判断した家入が夏油を誘った次第だ。
 逢坂と共に過ごした期間は決して長くない。せいぜい10ヶ月にも満たない。けれど、決して短いとも言い切れない。
 家入が寮母から受け取った合鍵で鍵穴に差し込み回す。
 スッと慣れた手つきで、鍵を引き抜きポケットにしまい、ドアノブを回して扉を引いた。

 陽の光が差し込む部屋の中はきちんと整頓されていて、意外に感じた。でも案外女の子の部屋というのはこれぐらい整理整頓されているのかもしれない。
 広くない部屋を見渡すと家具は元々寮に備え付けられていたものしかないとわかる。ベッド。タンス。机。備え付けのキッチンの水切りにはその辺の家具屋さんで売っている大量生産された白い食器類。しかもそれは1人分しかなく、友達はおろか誰一人としてこの部屋に招き入れる気はなかったのだと知った。逢坂が住まいを充実させようとする気はなかったのだ。元々いつまで在籍できるかわからなかったわけだし。

「さて、どこから手をつけようか」

 住人を失い静かな空気で満たされた部屋に問いかけてみた。
 問いかけにはピリリと電子音が返事を返した。

「あ、悪い。呼び出し」

 聞いたことのある軽快なメロディは家入のもので、そのまま携帯電話を耳に当てて部屋を出て行った。
 家入の相槌が薄い壁越しに聞こえたが、それはだんだん遠くなって、聞こえなくなった。きっと任務に出ていた呪術師の手当だろう。これは当分帰ってこれないな。家入が出て行った扉を背にして夏油は部屋の中心へ足を進めた。
 食器棚はない。冷蔵庫の中身も空っぽで、冷凍庫さえも何も入っていなかった。
 次に目に入ったのは机だ。机の上に置いてある文房具は全て高専からの支給品で、東京呪術高等学校とボディに書かれたペンたちがペン立てに立てられていた。ペン立ては事務室で見かけたことのあるシンプルなものだったので、おそらくこれも支給品なのだろう。ここまでくると、モデルルームみたいだった。必要最低限の生活を想像させてくれるだけのツールだ。

 とは言っても学生だったのだし、引き出しに一つや二つ個人的なものがあるだろう。
 衣装タンスをひっくり返すには流石の夏油も気まずさを覚えるから同性の家入に任せることにして、勉強机の引き出しを開けた。1番上はボールペンの替え芯やテープやのり、一般的な文房具の控えだった。2段目は空。3段目は四角い缶だけが入っていた。
 持ち上げてみると、軽い。カサカサと音がなったから物は入っている。音の軽さから察するに、ポストカードか写真、その辺の類だろう。缶の後ろには製造年月日と賞味期限が書かれており、有名なお菓子の製造会社の名前が刻印されていた。

『プライバシー! 夏油くん! プライバシーっていう言葉知ってる?!』と少し怒ったような、呆れているような逢坂の顔が見えるような気がした。
 いつも元気を振りまいて彼女がいるだけでその場が明るくなるような女の子だったなと考えてから、自分が逢坂のことを過去形にしていることに愛惜せずにはいられなかった。
 
 シワひとつないベッドに腰掛けて、缶の蓋を開ける。かび臭い、埃っぽい、ということは全くなく、それどころか爽やかでいて少し甘い匂いがした。馴染みがあって好みの香りだった。逢坂の匂いだ。
 確か、逢坂と心身ともに距離が近づいたと自他ともに認められる関係性になった冬本番が近づく時期だった。手入れも全くされていない夏油のかさついた無骨な手を労ってハンドクリームをプレゼントしてくれた。それがたまらなく嬉しくて、プレゼントを差し出している手を握りしめた。かさついた両手にすっぽり収まってしまう手の小ささに驚いた。

 そして、逢坂自身の小さな手も荒れていることに気がついて、ハンドクリームのお礼を兼ねて逢坂のハンドクリームを一緒に選びに出かけた。店員が香り、成分、テクスチャーの違いなど丁寧に教えてくれたが、イマイチ理解できなくて、彼女が持ってくるさまざまなサンプルの違いもイマイチ分からなくて、1番逢坂らしい香りを選んだ。

 その選択に関してまたも店員が詳細説明を始めようとしたものだから「これが1番かさねっぽくて好きなんだけど、どうかな?」と問えば、はにかみながら「嬉しい」と言ってくれた。その笑顔に気分を良くしてだらしなく頬が緩んだ。
 逢坂の香りがするパステルカラーで上品に彩られたパッケージのハンドクリームは上機嫌な店員にラッピングを施してもらい、そのままプレゼントした。

「かさねのくれたハンドクリームのおかげで手荒れがマシになったよ」とそれを口実に手を握るハードルはずいぶん下がったし、逢坂がハンドクリームを塗っていれば、マッサージするからそれを分けてと図々しくお願いして、よく手を取った。その度にちょっと照れ臭そうに、でも決して嫌がることはなく、緩む口元をみるのが好きだった。
 深呼吸をしてから、思い出の旅に出ていた自分自身を呼び戻す。

 缶の中にはネガフィルムが入ったケースが2つ。逢坂の字でコメントが書かれている写真がたくさん。あとは映画の鑑賞チケットの半券。あれもこれも、この缶の中に入っているものすべてが逢坂との温かく大切でかけがえのない思い出を呼び起させる。
 ネガフィルムケースには日付が書かれていて、ああ、あの時逢坂が持っていたインスタントカメラの中身なんだなと推測できたし、まだ現像していなかったのか、そもそも現像する気はあったのだろうか、とか。
 写真にはカラフルなマジックで落書きも施されたものがあってプリクラの代用品のような扱いがされていて、映画の半券は夏油と観に行ったものだった。

 はぁ、っと大きく息を吐いて天井を仰ぎみた。目頭が熱い。涙が溢れそうだった。逢坂が消え、いなくなったという実感が今更になって押し寄せてきた。
 片付けをしなければいけないほど散らかっているわけでも物が多いわけでもないこの部屋を次期学長の指示通りにするのには今の夏油にはできそうになかった。かといって家入に任せっきりにするのは嫌だった。取り敢えずは、家入が治療から戻ってくるまで思い出に浸ろうと写真を手に取った。




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