2005年 11月



初冬になり、寒さも本格的になってきて、いつでも本番が来てもいいぞという足音が聞こえる。ピューピューと吹きすさず冷気が容赦なく頬を打った。
常緑樹が多い山の中だからか、緑の匂いがかすかに鼻腔を通り抜ける。その香りに甘く少しクセのかんじる物が混ざっていて、一体何の匂いかと心当たりを探ってみる。
風にあたる部分をできるだけ減らそうとぎゅっと縮こまって歩いた逢坂は香りにつれられ、ふと顔を上げた。冬の寒さに負けないように強く濃い色をした緑色の方から白く小さなかけらが降ってくる。

雪か、と手を伸ばしてみたがどうやらその白いものは空から降ってきているわけではなく、風にあおられて木々を離さざるをえなかっただけの小さな花らしかった。
ちらちらと、まるで雪のように舞う小さな花が地面にいくつも落ちていて泡のようだった。風を受けてはらはらと地面を転がっていく。

ああ、なるほど香りの元は香木と理解すると、その甘い香りを胸いっぱいに満たしたくなって、大きく息を吸った。
それと同時に目が回る感覚が押し寄せる。大きく息を吸い込んだせいで、その空気分体が浮いてしまったのかと勘違いするようなタイミングだった。
慌てて何かにつかまろうとしたが、生憎あるのは木々と舗装されていない地面だけ。
あともう少し歩けば石畳や灯籠があるのに、とその場にしゃがみ込んだ。

だんだん血の気が引いていく気がする。震えるほど寒くはないのに指先の、手の、感覚が薄れていく。
膝をぎゅっと抱えた腕から地面が透けて見えた。足先もうっすらと薄れていて、このまま消えてしまうのかと黒い不安が胸いっぱいに広がる。それはじわじわと確実に全身を満たす。
きっと元の時代が呼び戻そうとしているのだ。けれどここにいる意味も呼ばれた原因もわからないのに、定期的にこうやって強制送還させようとする素振りをちらつかせるのが不思議で仕方ない。逢坂にやって欲しいことがあるからこの時代に連れてきたのか、それとも逢坂が自ら進んでこの時代に行きたいと願ったのかそれさえもわからないままに不安だけ煽る。

「かさね!」

見られた、という焦りか、汗をかいた体が暑いのか寒いのかわからずただぶるりと震えた。

「おい!」

ばたばたと地面を踏み締める音が嫌に騒がしく感じた。一体誰が近づいてくるのだろう、とゆるゆると膝から頭を上げる。

「何やってんだ!」

必死の形相で顔を覗き込んできたのは五条だった。
五条は真っ青な顔をした逢坂の小さくしゃがみ込んだ全身を確認して焦慮にかられた。苛立ちからぐっと眉間に皺が寄る。

「お前……!」

五条は腕を掴んだ。
ばちりと火花が舞い逢坂はその場で尻餅をつく。派手な静電気だと済ませそうになかった。そこだけ雷が疾ったといってもいい。
五条の予想外のことで目を丸くしていた。掴む形のままだった手を確認する。弾かれた手のひらが赤くなっていたりはしていなかった。磁石同士が弾かれた様子に近いのかもしれない。それをそのままにじっと逢坂を見つめる。
熱くはなかったし痛くもなかったけれど、目が覚める感覚がした。2人は見つめあったまま無言が続いた。はらはらと風に遊ばれている柊の花が2人の間を行き来している。

「……勝手にいなくなるなつったろ」

舌打ちをひとつしてから五条は怒りを抑えた声で静かに睨む。

「それから呪力操作を疎かにすんな」

目眩が起こると酷く呪力が不安定になる。六眼はそれを見抜いていたらしい。
眩暈が起こるから呪力操作が疎かになるのか、呪力操作が疎かになっているから眩暈が起こるのか。それはわからない。
夏油と任務に行った後からひどく不安定になったような気がする。自分自身の呪力を、術式を理解しようと一歩踏み出せたことが原因だと結びつけるのは容易だった。

「迷惑かけてごめんね」

「全くだ! お前がいなくなると俺が困るって何回言わせんだ!」

ズレたサングラスをぐっと押し上げ、今度は軽口を叩くように声を張る。

すっかり気持ち悪さも心許なさも消え去ってしまっていたことに気がつき、進行方向が同じ五条の後を続く。

夢に見た、高専に通う私。何か目的があるらしい。
その私が求めていたものは一体なんだろう。
ずっとわからなかったけれど、もしかしたら五条くんなのかもしれない。
五条くんのために私はこの時代にいるのかもしれない。
五条くんに関係があることなのかもしれない。

五条の呪力に触れて、ブレていた自分自身の呪力を取り戻せるような感覚がしたし、消えそうになっている姿を見られるのは彼が初めてだ。
意識が遠のき、感覚が鈍くなることは今まで何度もあった。それそこ夏油や家入の前でもあったし、任務中も度々あった。けれど、体が透けている様子を目撃されるのは五条が初めてだった。

それに、いなくなるな、と何度も何度も口にする。
まるで逢坂がどこかに行ってしまうのを知っているかのようだ。
期限付きだということは気付いている。ずっとこの時代にはいられないということを。それを五条もひょっとして気付いているのかもしれない。

「……」

逢坂は返事をしようとしてつぐんだ。

本当は夏油くんのためにここにいると、言えたらよかったと思っている自分がいる。
彼のために時代も記憶も置いてきたのだと言いたかった。体の感覚が薄くなるたびに、そう強く思った。だって、どうしようもなく惹かれているこの心に、そう言ってあげて慰めてあげたかった。彼が特別だから、ここにいるのだと、それを存在理由にしたかった。
彼がいるから、彼のために自分がここにいるのだと、そう思いたかった。そうだとあればいいなとずっと思っていた。

「お前、起きてるか? 朝飯ちゃんと食ったのかよ」

「えぇ、あぁ、うん」

五条が差し伸べた手を取り、逢坂は起き上がった。尻餅をついた場所を払うと、ぱらぱらと花の花弁が舞い落ちる。手からはほんのり甘い匂いがした。

:

そんなことがあったから、五条は少し過保護になった。

今までは、車の前で落ち合い任務に行くことが常だったのに、わざわざ「かさね、任務に行くぞ」と声をかけて一緒に車庫まで行こうとするし、任務後だって、報告書を書いてすぐに解散だったのだが、あそこの動きが……呪力操作が……などアドバイスという名の逢坂の反省会が行われるようになった。

高専内の移動だって、家入よりも一緒にいることが多くなって、五条が逢坂を探しているのが多くなった。六眼のおかげで手間をかけて探すことはほとんどしなかったけれどそばにいないときでさえも動向は極力把握しようと努めている様に見えた。
けれど、特級呪術師であるから高専を空けて1人で任務に行くことが多く、その時は逢坂に「勝手にいなくならないように」と口を酸っぱくさせていい聞かせ、家入と夏油も「目を離すな」と耳にタコができるほどいう。そのうちアレをするな、これをしろ、食べ物は、衣服は、と口を出しそうな勢いだ。まるで逢坂の親になったのかというほど過保護が過ぎる。近いうちに幼児に言い含めるように「知らない人にはついていくな」と本当に我が子に言うようなことを言い出しそうだ。

「かさねは赤ちゃんかよ」と家入が溢した言葉に顔をハッとさせて1人で納得した後「赤ちゃんだと思え」と3人の前で言い放ったのは今日の話だ。
思わず3人で顔を見合わせてしまった。
家入と目があうと「気に触ることでもしたの? とりあえず謝っとけば? 嫌がらせも減ると思うけど」と訴えかけられ、夏油と目があうと「何かあった?」と心配そうにするから逢坂は居心地が悪くなって視線を逸らした。

反応の芳しくない3人に頼むから、と再三念を押してやっと五条は任務に向かった。きっと補助監督が呼びに来なければもう少し長くかかっただろう。

「まじでなんかした? なんかあった?」

家入が呆れ顔でタバコに火をつける。
心当たりはもちろんある。自分が消えそうになるところを目撃された、と。けれど、それを家入と夏油にいうつもりはなかった。五条にだって知られたくなかったのだ。不慮の事故だから仕方がないけれど。仲のいい夏油には言っているかと思っていたが、五条は2人ともに言いふらさなかったことがわかり安心した。
心配をかけたくない。
この時代の人間ではないから、元の時代が呼んでいるから時々体が透けてなくなる。それにひどい眩暈もする。なんて、言いたくはない。
これ以上負担をかけたくないのだ。

逢坂は身元不明なお陰で上層部からいまだに疑われていると五条がぽろぽろと内情を零さなければ、不安に駆られて吐露していたかもしれない。
けれど、信用されていない人物であると知った時、ピンと繋がる糸があった。
どうして1級以上の呪術師としか任務に行ったことがないのか、外出だって誰かの同行が必要で、担任との定期的な面談。
ひとつひとつは記憶のない逢坂を気遣っているんだろうと思えるけれど、徹底的にそれが積み重なると行き過ぎのような気がする。高専の生徒でそれほど気にかけて過保護にされているのは逢坂以外にいないこともある。同じ一般家庭で同性の家入が逢坂と同じ対応をされているところは見たことがない。むしろ放任されている。

あぁ、そうなると、みんなが優しかったのは心からではなく、そういうふうに指示されていたに違いないのだ。
夏油だって家入だって、夜蛾だって、身近な人々も、補助監督や高専の関係者はすべからく監視対象を刺激しないように接していたに過ぎない。

五条だけが唯一本当に気にかけてくれているのだろう。でなければ、内部事情を知った上で目の前で消えそうになった逢坂を心底心配するわけがない。本来ならば警戒するのはずだ。
口酸っぱく身の安全を気にかけてくれるわけがないのだ。

真心から接してくれているように思う夏油と家入に真実を尋ね、肯定されてしまったら、消えていなくなってしまいたくなる。だったら曖昧なままにする方がいい。今までと変わらず気の良い仲間として接していた方がいい。そうすればきっとくる別れを耐えられる気がした。
本当に大切にされているとも、指示だからと割り切られているともわからなければ、あとはどうとでも心の整理をつけられるような気がした。

「かさね?」

夏油の心配そうな呼び声には曖昧に微笑んでおいた。

:

はらはらとやはり雪のように散る花弁を眺める。
柊の木は案外高専内の至る所に生えていて、さらに旬の時期なのか多くの木々が花を咲かせている。
白く小さく、冷たい風に吹かれて甘い香りと共に地面に花を落とす。

今日の任務は北門集合だ。寒さを凌ぐためか、烏が数羽寄り添うぐらい近い距離で寄り添っていた。
それを横目に風に弄ばれている柊の花の香りを吸い込む。

今日は夏油との任務だった。あの村以来久しぶりの同行だった。
それは五条がことあるごとに自分の任務に逢坂を連れて行き、特級修祓であるとか、同行者がいると差し障りがあるといった、よっほどのことがなければほとんどの任務を五条と過ごしていたことが原因だ。その方が高専側としても都合が良かったのだ。あの五条悟が直々に監視しているとあれば、何も心配することがない。
五条は今日は泊まりの任務だから逢坂は当然同行できなかった。だから今日は久しぶりに他の呪術師と任務に行くことになる。

どちらかといえば重い足取りで、そして時間ギリギリに北門に着くようにタイミングを測ったのだが、高専の黒い車はまだ見えず、夏油が片手を上げて逢坂を迎えてくれた。それに小さく手を振るが、重かった足取りがもう少しだけ重くなる。

やっとの思いで北門に辿り着き、夏油と一緒に補助監督を待つ。

「寒いね」

「うん」

夏油は両手をポケットに突っ込んではぁ、吐息を吐く。逢坂は小さく返事を返して、補助監督が来るであろう方向に視線を向けた。車はまだ姿も形も見えなかった。

「私、かさねの気に触るようなことをしたかな。そうであれば教えて欲しい」

こちらをおそるおそる伺うような空気をグッと押し殺し夏油は告げる。

「このまま微妙な雰囲気でいるのは嫌なんだ」

夏油の真摯な眼差しに胸が苦しくなる。

「夏油くんが、そう言うのは私が監視対象だからだよね」

「は?」

「本心じゃ、ないん、だよね。だから、無理しなくていいよ」

夏油の顔からゆるゆると逢坂の視線が下がった。じっと夏油の顔を見て言うのはできそうになかった。今は使い古された靴を見つめながら、しっかりと言葉を紡ぐことに集中する。

「今まで優しかったのも、私を監視しやすくするため、なんだよね」

「待って! 違う、私は……!」

「……」

不自然に途切れた夏油の言葉を待った。けれどいつまで経っても続きをいうことはなく、逢坂の頭上からは躊躇いから息を呑む気配がした。

夏油は、自分が言おうとしている言葉が信じられないものだと思って口を閉ざさるをえなかった。だって、昔大切にしていた幼馴染に似てるから、なんて言っても逢坂に何の関係もないのだ。夏油が大切にしていたのは逢坂ではなく、幼馴染によく似た逢坂と言うことになってしまう。

「私は、五条くんと一緒にいる方が、気が楽だよ」

「え……?」

五条は言うつもりはなかったとは思うが監視対象だとポロリとこぼし、その後も態度が変わることはなかったし、監視対象としても、そうでなくとも、五条本人が逢坂がいなくなると不都合だと何度もいうから、そうなのか、と受け入れた。
五条はこの時代に来てしまった逢坂の存在そのものを必要としている。

「五条くんは、監視対象でなくても本当に私がいなくなると困る、って言ってたから」

逢坂は一度息を飲み込んだ。

「だから、夏油くんといると、息が、詰まるの」

本当のところは、夏油と一緒にいると気が一番だった。
けれど、それは育ててはいけないものだ。だって逢坂には期限がある。
監視対象であるし、芽生えて成長する気持ちには蓋をして押し込めて潰して無かったことにしなくてはならない。
とても苦しいことだけれど、気づけば蓋の隙間をこじ開けて溢れ出しそうだけれど、これ以上無責任に育てて後始末をつけられなくなるほどになってしまう前にどうにかしてしまわなくては。
でなければ、別れ難くなる。必ず来る別れを受け入れられなくなってしまう。
夏油を見ると嬉しくなる。けれど同時に別れがあることも本能が告げるから、息が詰まる。心の底から喜んではいけないのだ、と苦しくなる。

「車が来たよ」

クラクションを鳴らして補助監督の車が近づいてくる。逢坂は向かってくる車に近づいていった。
夏油はその後ろ姿を見つめた。それから、いつまでもついてこない夏油を振り返らない逢坂に声をかけようとしたが「待って」の静止の声は聞こえなかったふりをされそうな気がして言葉を飲み込んだ。それから駆け足で小さな背中を追いかけた。




×
第4回BLove小説・漫画コンテスト応募作品募集中!
テーマ「推しとの恋」
- ナノ -