2005年 10月



夏油くん、家入さん、五条くん。
彼らのことは優しい人たちだと認識している。けれど、一線を引くべき人たちだとも思っている。
逢坂が彼らを決して名前で呼ばないのはそれが理由だ。

一線を引かなければならない。本人たちがそれをよしとしなくてもそうするべきなのだ。
五条や夏油以外と行く任務で同行する呪術師の階級が高いのはさることながら、警戒度も高いのは、記憶喪失の新人呪術師というお荷物、そのせいで任務の難易度が上がったからというものではない。中には明らかに監視目的を含んでいると気づかせられる視線を送ってくる者がいた。彼らは本来の任務の他に高専を出てから帰るまで決して気の抜けない任務をもう一つ課せられる状態なのだ。
逢坂は高専内、いや呪術界にとっての要注意人物だ。悲しいことにその自覚を否が応でも芽生えさせられる。
だから、任務の同行者は五条か夏油だと嬉しかった。道中で敵意、ほど露骨ではないがそれに近しいものをぶつけられるより任務帰りにどこそこに寄って帰ろうという話題で任務地に赴く方がいい。
明日のテストやばいねとか、昨日のテレビがおもしろかったよとか、今日は任務三昧なんだけど、という他愛のない話の方がリラックスもできる。
同級生だから、名前を呼んでと好意を示してくれているから、唯一信頼できる仲間たちだから、と。
きっと身近にいてひととなりをわかってくれているからこそ気安い関係を構築できていると思っていたのは逢坂の思い込みだったことは先日の任務でわかってしまった。

信じて欲しかった。他の誰でもない夏油に。
顔を見るとふんわり心が暖かくなり、それから少しばかりの焦燥感と緊張感を抱く相手に。

信じてと言っても信じてもらえる根拠はないに等しい。明らかな証拠はないが逢坂本人を信じて欲しいと、親切な同級生であれば、いや、夏油であれば自分を信じてくれると思っていたのだ。そう思い込んでいた。
だって夏油は優しい。いつだって。けれど、人に優しくすることと、相手を心の底から信じるということはイコールにはならない。
いくら仲がいいと言っても信頼と信用は一緒についてこない。
過去が曖昧な逢坂を信用できなくても、せめてこれからの行動を信頼して欲しかった。けれどその信頼も結局のところ過去がなければ積み重ねられないものだ。

それを自覚して悲しくなった。
心を痛める権利なんてないというのに。夏油は高専の指示に従ったに違いない。それは正しい。全くもって。未だに出自不明の同級生より、公的機関であり、秘密裏ではあるが歴史がある高専の方を信じた方がいい。
そうでなければならない、と思う。それが正しさ、なのだと。

彼らと信頼関係を積み重ねることは難しい。だって名前で呼び合い仲を深めたところで、逢坂はずっとここにはいられないからだ。この時代の人間ではないから。
事あるごとに「まだ名字呼び?」とからかわれたり呆れられたりするが、譲れなかった。
名前なんてただの記号。特定に誰かを振り向かせるための音だと知っている。けれど、生まれたときに初めてもらうその人だけの音を、ただの音だと割り切れなかった。
この世に生まれ落ちるために授けられた祝福か呪いかはわからないけれど、でもきっと意味がある。

どんな両親が、もしくは親族が、関係者が、どういう意図をもって名付けたにせよ、そこには意味が生まれる。想いが込められているのだから。

だから、逢坂は名前を呼べなかった。
もちろん、この時代の人間ではないから、というのは大きな理由の一つではあるけれど、それよりも怖いという感情の方が強い。
そう、怖いのだ。
名字より名前呼びの方が親密さが違う。名を呼んで、距離を縮めることが怖いのだ。
気のいい仲間たちだからもっと仲良くなりたいと思うのはおかしくない。けれど、仲良くなって離れ難くなったときどうすればいいのだろう。絶対に離れなくては、彼らの元をさらなければならない時が来る。必ず。
そうでなければ、ここの所頻回に起こるめまいと浮遊感に説明がつかない。
そのいつか訪れるかわからない別れを迎えるとき、きっと心が張り裂けそうに痛むに違いない。また会えるとは限らない。またね、とは言えないかもしれない。いやきっとその可能性の方が高いだろう。さよならの言葉が最後の言葉になる。
それに、最初から別れが決まっている出会いなんて苦しいだけなのだ。
人生の点、ただの交差点、ただそれだけの縁だったと言われてても手放したくないとさえ思う。交わるのには濃すぎた。逢坂とってかけがえないものだと思えた。
記憶がないけれどきっと望んでいたものに違いないと心からそう思った。
記憶がない孤独の隙間を埋めてくれているのか、元々逢坂が孤独な隙間を持っていたのか、それはわからない。
けれど、それでも、きっと記憶がないから、すごく優しくしてくれる人がいるから、心地よい場所だから、という理由を羅列しても、それでもやっぱり記憶があったとしても離れ難い居場所だと思えるだろう。

夏油に信じてもらえなかったことはひどく傷ついた。シクシクと胸が痛むけれど、それはそれでよかったのだ。これ以上この世界に心残りを作るなと、お前のいる時代はここではないのだぞと、思い出させてくれたのだから。突き放さなければ忘れたままだっただろう。
いつか必ず来る別れを頭の片隅に追いやり、見て見ぬ振りをし続けたかもしれない。だからそれを正すために、目を覚ますための事象だった。
傷は浅くはないが、もっと後になって自覚するよりまだマシな痛み方をしている。気を抜くとじくじくと悲しみが押し寄せるけれど、きっと時間が解決してくれるはずだ。

:

秋の冷え込みがグッと強くなり、朝ベッドの中から這い出るのが苦しくなってくる季節。
高専は標高が高いこともあり、冷え方が一段と酷い。薄暗い部屋を重い瞼はそのままに、嫌がる体を何とか叱咤してベッドの縁ギリギリまで身を寄せて、そろり、と足を床につける。その際のひんやりした足裏の感覚に泣きたくなる。

ベットから完全に身を離すと、急激に体が冷えていくようで、布団に奪われた熱を取り戻そうとしてしまうが、堪えて洗面台に向かう。
ヒタヒタと足裏を伝わる冷たさが、だんだん体を覚醒させるようで、洗面台に着く頃にはぱっちり目が覚める。
今の季節でこれでは、冬本番はどうなるのだろう。

身支度を整え、身を切るような冷たい空気を胸に吸い込みながら校舎に向かう。白い息はまだ出ないものの、それぐらい寒いから早足になる。早く建物の中の入って暖を取りたい。冬服を着込むほどでもないけれど長袖では耐えられない微妙な季節は心がそわそわして、心許ない気持ちになる。

「よぉ」

「おはよう」

両手をポケットに突っ込んで背を丸めて歩く五条が、逢坂をみつけると片手をひらりと振り、つかつかと早歩きをする隣に並ぶ。
五条の長い足に合わせなくても歩調があった。大半は逢坂が意識して五条に置いていかれないようについていくのだが、今日はそうではなかった。むしろ普段より少し早いペースかもしれない。けれどそれが五条のいつもの歩く速さらしい。逢坂がうんと早歩きしなければ五条の歩く速度についていけないのかとわかり、少しだけ身長差に驚いてしまった。五条が背が高いのは知っていたが、五条の一歩はあまりにも大きい。

「任務のこと聞いた。お前が生きて帰ってきてよかった」

「心配してくれてありがとう」

五条の素直なものの言い方に、びっくりしたけれど、そりゃ、五条と比べると彼以外の呪術師なんて弱々のへっぽこだろうし、と両手を擦り合わせた。かさついた手だった。爪も短くて皮も厚くて、女の子らしい細くて薄い手からは遠くかけ離れていた。
ここにきた時はこんなに立派な手ではなかった。それそこペンだこはあれど、ツルツルのすべすべで苦労も何も知らない幼い手だったと記憶している。

「お前に死なれちゃ困る」

「呪術師は慣れてきた頃が1番気が抜けるって言ってたしね」

夜蛾先生が口酸っぱくさせて私には再三言うの、と笑ってみせればじっとこちらを見ている五条が口を尖らせる。

「お前が死ぬと、困る。だからこれからの任務は出来るだけ俺と一緒になるようにしようと思ってる」

「大袈裟だよ。まだまだ頼りないけど先日冥冥さんからは階級以上の実力があるってお墨付きをもらったよ」

「ダメだ。お前は絶対死なせない。だからできるだけそばにいろ」

「……え?」

五条の宣言に困惑するしかない。今まで弱者呼ばわりだったのに、弱いから守るだなんて方向転換して、一体彼の中で何があったのだろう。思考がどんな化学反応を起こしてしまったから生まれたのだろう。

「そんなに気が抜けてるように見えるかな? 気をつけるよ」

「違う。お前の実力がへぼい話じゃなくて、弱かろうが強かろうが関係ない。いなくなったら困る。俺が、たぶん……」

「……」

「俺が守らないと、って……」

告白のように聞こえた。けれど、五条から言われたおかげでそれは無いと思えた。
もう秋が終わる肌寒い季節、足早に校舎に駆ける2人。色気も何もあったものじゃない。
五条だって曖昧に言葉を濁していたし、自分自身その言葉の出どころをよくわかっていないのかもしれない。どこの感情から起因するのかわかりかねているように感じる。
けれど、不意をつかれた言葉に心臓が大きく飛び跳ねる。血液がドクドクと全身をめぐるのがわかった気がしたし、大きな鼓動もはっきりと自覚できる。
五条はきっとそんなつもりは一切ない。ずっと弱い弱いと言っていたじゃないか。弱いやつに気を遣うのは疲れると言っていたじゃないか。そんな五条が今更逢坂に対して殊勝なことを言うわけがない。だから五条の言葉をそのまま受け取るなんてことがしないほうがいい。

「お前、俺に対して何か感じたりしねぇの?」

「え?」

今度こそ驚いて立ち止まった逢坂に合わせて五条も足を止める。それから隣で肩を並べていた五条が一歩先行する形になったが片足を軸にくるりと振り返り逢坂と向き合う形になった。

「俺の姿形、術式、雰囲気とか、なんかない?」

いつものように踏ん反り返った立ち姿ではなく、逢坂の顔を覗き込むようにして、足も開き目線を合わせようとする。逢坂は五条の動きに戸惑いその様子を見つめる傍らでオーバーヒートしそうになる情報に急いで対処しなくてはいけなかった。五条の動作を見つめると言っても、意識の大半が冷静な現状把握に努めようとするために、何も見えていないと言った方が正しいかも知れなかった。目を開いてただ五条の姿を映しているだけだ。

「え、えーと……」

とりあえず間を持たせようとして、でも何を言えばいいのかわからず、情けない声を発する。後に続く言葉は何も考えていないし、何も出てこない。けれど無言で向き合うのは怖い。
心臓がどくどくと音を立てる。いやいや、違う。カッと顔が熱くなる。いやいや、違う違う。

「じゃあ、御三家」

「え?」

「五条、禪院、加茂。この中に心当たりは?」

「えぇ?」

「十種影法術、無下限呪術、赤血操術」

「待って! どうしたの?」

「なにが?」

「なにがって……」

五条が饒舌に話し出そうとするのを慌てて止めた。

「私が御三家と関わりがあると思ってるの?」

「仮説だけど、まあそう思ってる。じゃないと、俺がお前を必要以上に気になる理由にならないだろ」

「え?」

理由がなければ、そこに原因がなければ五条は自分に芽生えた感情の意味がわからなかった。
ただ一緒に過ごしたから、同級生だから、弱くて目が離せないから、なんていう理由は情が湧くのには十分かもしれない。けれど、五条が逢坂に抱く焦燥に近いこの気持ちは情ではない。恋愛感情とも言い切れない。そうやって思い込もうとしている、のかもしれない。
けれど、五条の理解不能な想いに対しての適切な言葉が見つからない。

ただただ死なせたくない。
だから守るのだと。
自分自身の手で。

逢坂に甘いという自覚のある夏油は、かつての幼馴染の面影を重ねている。
まともそうな女子で、話してみると愚直で優しく付き合いやすいと家入は言っていた。
じゃあ、自分は? と五条は思うのだ。
こんな気持ちは初めてなのだ。
出会ったばかり、呪詛師の可能性があると疑っていたころはこんな気持ちが自分の中に眠っているなんて思ってもみなかった。

今はただ逢坂を生かすことを考えている。目の前で死にそうになったことも、酷い怪我を負った様子は見たことがない。
キャパオーバーで医務室に世話になっていることはあれど、命の危険に直結した姿は見たことがない。それでも、五条は逢坂を守らなければと、そう強く思うのだ。
全身全霊をかけて大切にしなくてはいけないと切に思うのだ。




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