2005年 9月B



光の下に急いだ夏油の目に真っ先に飛び込んできたのは、先ほどおいてきた逢坂だった。
立っている逢坂の足元には脱力している人型。
状況を把握する前に「夏油くん!」と焦った声が背中に投げられた。振り返ればそこには、必死走ってくる逢坂の姿があった。

夏油の駆けるスピードに着いてこれなかったのだろう、未だ小さい姿のまま少しずつ近づく逢坂を確認する。
そうだ、目の前に逢坂がいるはずがない。だって逢坂とは先ほどまで一緒にいたのだから。彼女をおいて走ってきてしまったから、彼女であるはずがない。目の前の逢坂は偽物だ。夏油は姿勢を戻した。

「夏油くん」

正面にいる、掌印を結んでいる偽物が静かに名前を呼んだ。
その冷たい声音にゾッとして呪霊を呼び寄せる。
目の前の偽物はあまりにも記憶にある逢坂と違う。少し頼りなくて、努力家でいつも歯を食いしばって任務をしている逢坂とは違う。
迷ったことをなかなか切り出せずに恥ずかしそうにしていた抜けているところがあるのが逢坂であったのに。
至極冷静。それでいて頼り甲斐すら感じさせる。本当に彼女だろうか。けれど、その真剣な瞳を見ていると彼女ではないと一瞥はできなかった。自分の手元を離れて成長したのか、とすら思える。夏油が育てたわけではないが、同級生の中では一等目をかけていたからそう感慨深くなった。
けれど、目の前の逢坂が本物であるかどうかはわからない。今感じた感動も無意味なことだ。だって、本物とは一緒にここまで上ってきたのだから、夏油より先に山の奥にいるはずがない。
夏油は自分の左右に呪霊を置いて少し距離を取る。足は開いていつでも攻撃をいなせるように。

「夏油くん!」

戦闘体制をとっている夏油の元に本物の逢坂が息を切らせて駆け寄る。あともう少しで夏油のもとにたどり着けるという段階で正方形の結界に閉じ込められた。
逢坂は咄嗟のことで対処ができず結界に閉じ込められてしまったし、夏油もまさかそっちを先に手を出されるとは思わなかったから反応が遅れた。

夏油は2人の逢坂を見比べる。
結界に閉じ込められ不安そうな顔をしている逢坂と鋭い視線でそれに意識を注ぐ掌印を結んだままの偽物の逢坂。
なにがどうなっているのだ。どうして2人いるのだ。
補助監督の車を降りた時からずっと一緒に登山してきたはずだ。だから結界に閉じ込められている逢坂が本物のはずだ。
けれど、掌印を結ぶ逢坂の方が本物のように見えてくる。だって結界術の精巧さが逢坂の努力を思い起こさせる。けれど、逢坂は夏油に対してあんなに冷たいものの言い方はしない。しないけれど、人は切羽詰まると余裕がなくなるし、と考えてなぜ今のところ敵だと暫定している偽物を擁護するような思考に至ってしまったのかと我にかえる。

「夏油くん、それは偽物だよ。きっと私に見えるように錯覚させられてるんだと思う。呪霊か呪詛師の術式かどうかはわからないけど」

一瞬ゾッとした声は嘘だったかのように、偽物はいつもと同じトーンで夏油に話しかける。視線はもちろん結界に閉じ込めた自分自身を睨んだままだ。

「夏油くん! 騙されないで! ここまで一緒にきた私が偽物のわけがない! 信じてよ」

圧倒的不利な状況において閉じ込められた彼女ができることは少ない。身の潔白を証明できればいいのだが、それが難しいとなると情に訴えるしかないのだ。
どちらの主張も正しく聞こえる。どちらも本人のように見える。もういっそのこと両者とも偽物で夏油が見ている幻覚とした方がマシのように思えた。
夏油は一体どうすればいいのか分からず、逡巡する。
もしかすれば両方とも逢坂本人かもしれない。いやでもそうでないかもしれない。やっぱり夏油には判断がつけられなかった。

「動かないで! 動いたら滅する!」

結界の中で身じろぎをした逢坂を静止させる。今主導権を握っている偽物の逢坂のいうことを聞かなければ結界内の本物は簡単に滅されてしまうだろう。かなり精度の高い結界だ。呪霊を残穢も跡形もなく滅することができるのだ。ひと1人ぐらい同じ要領でできてしまうだろう。

「夏油くん、どうして助けてくれないの? 偽物の言葉を信じてるの……?」

「夏油くん、それの言ってることは嘘だよ。私たち、本当に一緒に登ってきた? 私は早々に逸れちゃったよ」

2人から縋るような視線を送られて、夏油は腹を括った。
どっちが本物かなんてわからない。やっぱり両方本人に見える。夏油が大切にしたいと思っている逢坂だと思える。けれどここは自分が選択しなければいけないのだ。自分自身で手を下さなければ。

信じたい。彼女を。自分が大切にしたいと思っている逢坂を。
けれど、夏油は個人の感情を優先させるよりも呪術界のことを考える理性があった。だから、夏油が取れる行動は最初から決まっていたのだ。

「夏油くん、お願い、信じてよ」

掌印を結んだ偽物の逢坂の声が夏油の判断を責めているようだった。偽物であるはずなのに、その声音はひどく夏油の心をざわつかせた。

:

逢坂は高専の自販機で温かいドリンクを買って、飲まずに手のひらをただ温め、ベンチに腰掛けていた。
時折吹く風は冷たくて、かさねの体温を容赦なく奪う。連れ去られた暖かさを取り戻すかのようにぶるりと震えた。日中は残暑が厳しかったけれど、陽が沈むとすっかり秋の顔をして体温を奪う風はあまりにも無情だった。

夏油との任務で逢坂はなにもできなかった。いや、なにもさせてもらえなかったのだ。
わかっている。自分の危うい立場のことは。記憶がなく、出生も未だ不明で、けれど術式だけは一人前に持ち合わせている呪術師なんて、怪しむには十分すぎる。
それに、逢坂が属している学年は御三家の嫡子である五条。一般家庭出身であり秀才の夏油。貴重な反転術式を使える家入。そんな非凡な才能が集まる中、逢坂の能力の平凡さは嫌に浮いた。それに、出自不明のせいで歓迎もしてもらえない。
それは逢坂に割り振られる任務から感じ取ることができた。任務の内容、それから同行してくれる呪術師の能力と階級の高さ。逢坂が呪術界から歓迎されていないのは、どれだけ鈍くとも、情報が操作されていようと違和感に気づくことはできる。

特別でない自分がある意味特別な対応を受けていることは、時たま同級生が見せる視線から結びつけることはできた。

人の顔色を伺うのはどちらかといえばできる方だ。むしろ意識せずともわかってしまう。なんとなくわかる、感じることができる、という表現のほうが近いかもしれない。
これは、術式由来なのか、それとも元々持ち合わせた性質なのか、幼い頃の記憶がない今、どちらかわからないけれど、きっと逢坂の記憶の中に答えがある。

はぁ、と何度目になるかわからないため息をつく。
ペッドボトルを手のひらで転がし、白地に青色の文字が書かれているラベルを撫ぜた。
生温いあたたかさがじんわりと指先に移る。
逢坂は目を閉じた。

先程の任務のことを思い出す。
2人目の夏油に従うふりをして村に案内させた。術式が効いているおかげで、顔面の皮が歪み、こちらを向いて微笑む顔はゾンビのようだった。眼窩が落ち窪み、艶のない肌がもう救いようのない状態なのだと教えてくれる。
けれど本人はそれに気づかず未だに夏油のふりをするので、逢坂の心が冷めていく。それに気づかないふりをして、相手を夏油だという体で接するのは骨が折れた。夏油ではないのに、夏油のような仕草や声で先導するのだから苛立ちも芽生える。
むくむくとした感情を宥め、大人しくさせる。そうだ、これは任務なのだから、と言い聞かせる。
少しでも安全に、そして情報を引き出そう。

「だれ?」

30代と思われる男性を筆頭に駆けてきた数人の男女は物珍しそうに、そして不躾に逢坂をジロジロと見る。

舌ったらずな物言いと、きょとりとした表情が、外見とチグハグで違和感を覚える。まるで幼い子供のような言動、とそこまでの考えに至ってやっと今回の任務の概要を思い出す。
霧に満ちた山道、精巧な偽物に気を取られてしまっていたが、問題は”神の子”だ。
ああ、彼らは神なのだ。みてくれは立派な大人だが、彼らの年齢は7歳に満たない。
だから見ず知らずに人間に対しての幼い対応も許される。目の前の偽物の夏油だって、きっとおままごとをしているだけに過ぎない。彼もきっと7歳に満たないのだ。
横目で確認すると、ずぐずぐになり、彼本来の皮膚が見える。けれど、それからわかるのは、やはり成人しているように見えること。おままごとのふりをしている彼は大人の容姿を持っていても、大人ではない。一生大人になることはない。それがこの狂った村の呪いなのだ。

「どうして大人がこんなところにいるの?」

「私たちの遊び場なのに!」

1人が弾かれたように声を上げる。するとその不安はざわざわと広がって、逢坂取り囲む視線は厳しいものになった。

本来ならばこの村に辿り着いた時点で、霧の呪力にやられて精神年齢が子供になるのだろう。だから未だに正気を保つ逢坂に対して不信感を抱くのだ。

「お姉ちゃんは緊張してるんだよ。歓迎してあげて」

鶴の一声ならぬ偽物の夏油の一声で、不貞腐れ文句を垂れていた数人は、声を揃えて非難の声を上げた後、仕方がない、と納得したのだ。
それに対して偽物の夏油はにこりと笑う。なるほど、彼がこの村の首魁なのかもしれない。
にしてもお粗末な変装だ、と怪訝に思うけれど、逢坂の術式を持つ人間が今まで訪ねてこなかったから、対策ができていないのかもしれない。
逢坂がこの村の呪いが効かないことがバレる前にかたをつけてしまおう。

決意したところで本物の夏油が駆けてきた。

閉じていた目を開く。
報告書は逢坂が思い出したところ意外はほとんど夏油が書いて確認をさせてもらえず提出されてしまった。別にその件に関してとやかくいうつもりはないが、もう少し真実の擦り合わせが必要だったんじゃないの、と思わずにはいられない。

「信じて欲しかったな……」

夏油の立場上難しいことはわかる。もちろん仲はいいけれど身元不明の同級生を信じるより、呪術界の方が信じられる。だってきちんとした機関なのだし、歴史もある。何より、呪霊がみれる、術式がある、といったマイノリティに属していた呪術師を容認し保護しているところなのだから、従わない選択肢はないように思う。

「信頼関係って難しいですね」

自販機のドリンク補給に来ていた用務員に逢坂は声をかけた。彼は話しかけられるとは思っておらず、逢坂に思わず聞き直してしまったが、悲しそうに眉を下げて口角を上げている逢坂をみて、そうだね、と同意することしかできなかった。

どれだけ大切に思っていても、それを行動にしようとしていても、相手に伝わらなければ意味がない。それに、全幅の信頼を寄せてもらえるほどの説得力を逢坂は持ち合わせてなかった。きっと記憶を取り戻すまでそれは難しいのだろう、と秋風に煽られ傷心的な気持ちになるほどには逢坂は今回の任務で無力感を感じさせられた。




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