2005年 9月A



霧が立ち込める場所で逢坂は警戒しつつ歩みを進めていた。
一寸先は闇、ではなく霧で、視界が悪い中、前を歩く夏油を見失わないようにして、後ろについていたのに、ぐんぐんと夏油は逢坂を置いて先に進んでいってしまった。こんな不穏な場所で、ましてや高階級の呪霊がいることが約束された場所で夏油と離れるわけにはいかない。

「待って! 夏油くん!」

置いていかれないように駆け足でその背を追いかけた。けれどちっとも距離が縮まらない。

絶対に声は聴こえているはずなのに! と言い知れぬ不安と焦燥を抑えつけて肩に手をかけた。
グイッと力を入れて振り向かせようとした手をパッと離して、思わず掌印を結んだ。
目の前に夏油はどうしたの? と目を丸くしていた。

どうしたの? はこちらが聞きたいのだ。

違和感。

肩を掴んだ時の、違和感。

目の前で目を細め、眉をハの字にしている夏油に対しての違和感。

今目の前にいる“夏油”は一体何者だ。

かさね? とこちらを心配する夏油の動作や声音はまさしく”夏油“そのものにみえる。
けれど“夏油”ではない。

そんな馬鹿な。そんなわけがない。
立て続けの任務と情報量の少なさにイライラして冷静さを欠いているだけだ。

だって、霧のせいで姿は不明瞭だったにせよ、ずっと夏油の後ろをくっついていたのだ。
いつのまにか夏油じゃなくなるなんてそんな信じられないことが起こるわけがない。

「どうしたの? 本当に大丈夫? 顔色が……」

夏油の大きな掌が迫ってきて思わず振り払った。
パシッ、という乾いた音と、軽い手応え。

「あ、ごめ……」

一体何をしてるんだ。夏油くんは心配してくれてるんだぞ、ハッとして正気に戻り謝罪をしなければ、と開いた口が塞がらない。

夏油の手首が折れていた。
逢坂が振り払った手首が、折れている。
血は出ていない。
ぱっくりと裂け、あらぬ方向に曲がった右手をもう左手で支えている。よく見れば折れていない左手の前腕は皮膚を突き破り、鋭利な骨が露出している。なぜ右手首を支えられているのか理解できない。
まじまじと見つめているがそれが現実だとは受け入れられなかった。

骨が、肉が露出している。
なのに、血が出ていない。流れていない。

あまりにも信じられない光景に意識を繋ぎ止めておくのにいっぱいいっぱいだ。
この場から逃げなくては! という本能が足を動かしたけれど、湿った土がそれを許してくれず、逢坂はその場で強かに尻を打ち付けた。

「大丈夫?」

相変わらず夏油の姿をしたものは夏油の顔で、声音で心配そうに様子を聞く。
一歩こちらに近づいたので、大慌てで後ずさったがすぐさま背中が何かにぶつかった。数メートルも離れることができなかった絶望から逃亡の邪魔をした障害物を確認した。

補助監督だった。
数時間前に逢坂に調査書を渡し、夏油をピックアップして、山まで送迎してくれた補助監督だった。
彼とは初回の任務で初めて一緒になった印象深い人物だ。その彼が、生気を失い陸に打ち上げられた魚のような濁った瞳で横たわっていた。

:

――どうしよう。

逢坂は周りを見渡す。

――夏油くんはどこに?

「なまえ?」

転がってる補助監督は死体なのか、と確認する前に、今もなお“夏油”のふりをして心配そうな声音を出す異形のものに意識をとられる。
呪霊ではないが、呪力を感じる、奇妙なものだった。
それに、いくら見ても“夏油“なのだ。姿形、声、表情、気遣いの仕草。逢坂の記憶と寸分の狂いもない。

けれど目の前の”夏油“は夏油ではない。それは肩を掴んだ時にわかった。
振り払い折れた手首で確信を得た。
けれど、今もなお心配し続ける様子を見て確信が揺らぐ。
でも正真正銘偽物なのだ。それは誰がなんと言おうと覆せない。
逢坂は目の前の異形が紛い物の体で、声で、あたかも本人のように振る舞うのが許せなかった。
もっと勇気があったなら、もっと強ければ、目の前の異形に詰め寄るなり、なんなりして真実を突き止める行動を取れたかもしれない。
けれど、後ろに横たわる、ピクリとも動かない補助監督と心の拠り所であった夏油がいないという事実に身を竦ませるしかできなかった。

「かさね」

一歩足を踏み出す動きを察すると共に身の回りに術式を展開させる。
偽物を結界術で閉じ込めた。偽物は大人しく、自分自身を取り囲む結界の前でぴたりと止まる。
これ以上近づかないで欲しかった。だって目の前のものはいくら近づこうとも夏油の皮が剥がれないだろうし、逢坂の決心を揺らがせるのには十分な力がある。

「どうしたの? 何も言ってくれないんじゃわからないよ」

眉を八の字にして、困り顔の夏油に弱いのを知っていたのだろうか。背中にすっと冷たいものが流れる。

「……誰?」

逢坂の放った言葉は小さかった。これでは自分自身も聞き取れないぐらいだ。口をその形に動かした、と言った方がふさわしい表現だったかもしれない。

「……誰ですか」

ぐっと下から睨みつけて、拳は固く握った。
夏油くんのフリをしてるのはなぜ? と続けたかったが、そんなもの、決まっている。
逢坂を油断させるためだ。油断させて後ろを取るつもりなのだ。そうでなければ、夏油に化けている意味がない。

「おーい!」

遠くから声が聞こえて、息をつめる。次は何だ、と泣きたくなる。
目の前の夏油からは目を離さない。
振り向きたくなるのを一生懸命こらえた。中途半端に動かした首をゆっくりと戻して、正面から偽物を捉えなおす。

「おーい! かさね!」

夏油の声が聞こえる。目の前ではなく、別の方向から。きっと逢坂とはぐれたことに気が付いて探してくれたのだ。
ならば、目の前の夏油は偽物だ。いや、骨が折れて痛がる様子はおろか、自分の骨が折れているということも認識できていない、目の前の夏油が偽物だとわかっているのだ。呪霊か呪詛師の術式かわからないが滅して、声の方に走っていけばいいのに。それが最善だということはわかっているのだが、仲良くしてくれている仲間を、特別な仲間を、偽物だとわかっていても、自分で手にかけるというのは酷く難しい。まして手にかけなければいけない相手が夏油であれば尚更だ。天地がひっくり返るほどの難題だと思う。

「おーい! 返事してくれ!」

遠ざかる声にごくり、と唾を飲み込む。

「こっち! 私はここにいる!」

できるだけ大きな声で叫んだ。その間ずっと目の前の偽物の、夏油は身じろぎひとつしなかった。ただ変わらず心配そうにこちらを見つめるだけだった。
見失った夏油が逢坂を探してくれているという事実に幾分ほっとし、詰めていた息をやっと吐くことができた。

「あなた、誰なんですか」

「俺、は」

ぐっ、と短くうめき、両手で額を押さえた。
私は、俺は、僕は、とさまざまな一人称を繰り返し呟きずっと開いたままの口からはぼたぼたと白っぽい粒がこぼれ落ちる。
地面に散らばったそれはそのまま柔らかい泥に受け止められていた。逢坂の爪ほどの大きさの白色にも黄色にも見える粒は歯だった。

「教えてくれ、俺は一体誰なんだ……」

頭を抱え、振り乱し、歯を吐き出す異形。姿形は夏油だ。ここは変わらなかった。ガシガシと頭部をかくせいで、髪を結んでいたゴムが解けバサリと夏油の長く黒い髪が重力に従う。

「私は、いったい……」

先ほどまでは怒り狂わんとするばかりに乱暴に髪を振り乱していたのに、今度は目を見開き、自身の両手をみていた。
抜けた髪が絡まった両手は細かく震えて、欠けて割れた爪は黒ずんでいる。

逢坂は目が離せなかった。狂気に飲み込まれそうな不安定な人間から目が離せなかったのか、それとも、夏油が苦しみのたうちまわる姿を恐ろしく思ったのかはわからない。ただ目を離してはいけないと思った。

「おーい!」

夏油が逢坂を探す声が遠ざかったので、慌てて返事をした。
その間も変わらず茫然自失としている異形からは目を離さない。

「どこにいるー!」

「ここよ! ここにいるよ!」

ここにいる。動かずに、入れ違いにならないようにじっとしている。
そう念じながら返事をするが、果たしてそれは届いているだろうか。でも、ここでは願うしかない。夏油がきちんと探し出してくれることを。

「あなたは誰?」

同じことを再度問うた。
先ほどと違って少し柔らかい口調で、自分は害はないですと主張するように、混乱している相手を宥めるように。
けれど髪が簾のように垂れ下がった奥にある顔は、目は変わらず自身の手を見つめていた。

「名前は?」

「名前……」

「夏油という名前ではないでしょう?」

「夏油……違う……俺、は……」

うぅ、うぅと小さくうめき、頭を抱えるものは敵ではないかもしれない。
この錯乱っぷりはもしかすると呪霊の被害にあてられてしまっただけなのかもしれない。
そう思うと、どうにかしなくては、と狭義心がむくむくと湧き上がる。
様子を伺おうと近づくために張っていた結界を解くと、異形はがくりと膝を落とし、その場でうずくまる。結界の中が安全地帯だったと言わんばかりにうめき声が大きくなった。そして、ぼそぼそと口の中で言葉を転がす。
一体何を言っているのか確認したほうがいいだろう。もしかしたら手がかりになるかもしれない。そうは思うけれど、体が重い。
体が重いのではなく心が重い。荒れ果てた夏油の姿を、偽物といえども慰められる自信がなかった。

「かさね!」

近づくのをためらった一瞬で、がさがさと草木をかき分けて夏油が目の前に飛び出してきた。
夏油は目の前で繰り広げられている光景を一瞬で把握すると、素早く異形と逢坂の間に割って入り、逢坂に背を向けた。

ほっとするのも束の間で、異形は夏油の姿を捉えると、前のめりに立ち上がり夏油の胸元を掴んだ。取り乱れた長い髪が口に入っているのも気にならないようだった。血走った目で睨め付ける。

「俺は一体誰なんだ! 俺に何をした!」

夏油の顔面に叫んだ後、驚いたように目を丸くして、今度は夏油に縋り付くような姿勢になりハッハッと犬のように浅い呼吸を繰り返した。
夏油は自身の胸ぐらを掴んでいた両手を突き放すと、呼び出した呪霊に飲み込ませた。

「夏油くん!」

一瞬の出来事だった。まばたきするぐらい短い時間だった。
全てが終わった後に夏油の名前を呼ぶことしかできなかった。

待って、あれは人じゃなかったの。呪霊の恐怖で正気を失っていた人間だったのではないの。然るべきケアを受けさせれば重要参考人になったかもしれないし、何より手がかりになったんじゃないの。
そんな、逡巡する間も無く呪霊で飲み込んでしまうだなんていったい何を考えているんだ。夏油の背中を見つめていると、視線に気がついたのかくるりと振り返る。

「かさね、あれは人じゃない。人の形を模した呪霊だ」

「……」

「怯えていたのは演技だ。恐怖に対峙する人間の演技を模していたんだよ」

「ちがう……」

違う。あれは人だった。呪霊ではない。人だったのだ。夏油の皮を被せられた人。
きっと行方不明者のうちの1人。調査に行くはずの村人の1人。人質か生贄。はたまた村の気が狂った風習を流布させないための口封じ。

かさね? といつまで経っても返事も納得もしない逢坂を心配するように腰を落とした。
逢坂はそこからにじり去る。後ろに。
かさね? と夏油は再度呼びかけ足を踏み出そうとする。視界はやはり霧のせいで悪い。だから近づこうとするのは自然なことだ。
もう一歩にじり去る。

夏油は名前を呼ぶ。
その度に距離をあけた。

「立てないなら手を貸すよ」

はぁ、と息を吐いて夏油は近づく。

「止まって!」

逢坂はすかさず静止の声をかける。

「さっきの呪霊初めて見た」

そんなことがききたいんじゃない。けれど本当のことを聞く心の準備はまだできていなかったから悪があがきのようなものだ。少しばかりの時間稼ぎ。

「ん? ああ、あれはさっき手に入れたんだ」

視界が悪いけど思ったより呪霊が潜んでるみたい、飛び出してはこないけどね、と至極冷静な声だった。

「私、いつ夏油くんと離れちゃったんだろう」

「私も気づいたらかさねとはぐれていて、見つけるのに苦労したよ」

ははは、と夏油は徒労を滲ませる。
会話の応酬をするたびに夏油は近づこうとするが、その度に逢坂が夏油から距離を取った。それに気づいた夏油はイラつく様子もなく、理由を問うでもなく、動くのをやめた。

「あなた誰なの?」

姿形は紛れもなく夏油だ。会話にも不自然なところがない。けれど、彼も夏油ではない。


逢坂に正体を疑われた夏油は一瞬呆けた顔になる。

「やだな、私は本物だよ」

まあ、確かに偽物を見た後じゃ疑うのが当たり前か、と夏油は続けて項垂れる。

「どうすればいいかな。あ、今まで私が捕まえた呪霊をぜんぶ説明すればいい?」

どれから紹介しようかな、と腕を組み明後日の方向をみて思案する夏油は正真正銘本物に夏油のように思えた。
もしかすると、夏油の手持ちの呪霊も全て言えてしまうかもしれない。言えなかったとしても逢坂がみたことある呪霊だけ名前を述べ、あとは数が多すぎるから、と逢坂が見たことないいくつか呪霊の名前を紹介すれば信じられる証拠としては十分だろう。
それに逢坂がしらない呪霊の名前を適当に言ってしまっても確認する術がない。

「それとも、先日みんなで見た映画のタイトルをあげたほうがいい?」

目を細め、腕を組んで思案する夏油に対して逢坂は一定の距離を保ち続ける。
疑う逢坂を尻目に夏油は映画のタイトルを言いはじめた。加えて一言感想も添える。確かに、確かに信用するには十分な記憶だった。
映画を観たのは談話室で、1年がみんな揃ってポテトチップスやチョコレート、カルピスや炭酸飲料などをテーブルに広げて、いちいち茶々を入れながら面白おかしくみていたのだ。その時五条が文句をつけて夏油が嗜めた作品や、アクションシーンに満足いかないと抗議する夏油。作中に出てくる料理に釘付けになる家入。
目の前の夏油の言葉は先日のことを鮮やかに思い出させるには十分すぎる。疑うのも野暮だと思えるほど。

けれど、どれほど信憑性のある言葉や記憶を引き合いに出されても、目の前の夏油は夏油ではない。
それに逢坂が気づいたのは、霧状に拡散させた自身の呪力が目の前の夏油を蝕んでいるからだ。
これが自分自身の術式だと確信するのは時間がかかった。だって、身近な呪術師の術式といえば、無下限呪術や呪霊操術、神風といって派手でわかりやすいものばかり。
武具に呪力をこめて戦うという近接向きではないというので結界術を極めることにし、その筋がいいと誉められたりもした。
きっと、きちんとした形を成す結界より、空気のように呪力を漂わせ、呪霊を内側からじわじわと弱らせるこの能力こそが逢坂の術式なのだ。
目には見えない、形にもならない曖昧な術式。
現に、偽物の夏油をはじめ見た時は偽物だとわからなかった。本物の夏油だと思って安堵したのだし。けれど、それも知らぬ間に展開されていた逢坂の術式によって蝕まれ内部から崩壊をきたし、最終的には不安定に崩れ落ちた。正体がわかる前に目の前の夏油に抹消されてしまったのは痛手だった。
次に現れた夏油もそうだ。本人は気づいていないけれど、術者からすれば、少しずつではあるが呪力が侵略しているのがわかる。

ただ、記憶や動作などあまりにも夏油らしい。本当に記憶のままであることはどういうカラクリがあるのかわからない。
夏油が捕まっていいようにされているのかもしれない。それとも、目の前の夏油は逢坂の幻覚かもしれない。あまりにもリアルな、夢かもしれない。

――このまま正体を暴いてしまうより、泳がせていた方がいいかも。

このまま疑い続け、この場を硬直させるより、一度相手のやりたいようにやらせよう。そうすることで相手の目的が見えてくるかもしれない。

「大丈夫。ちょっと神経質になってたのかも」

観た映画の作品を全ていい終わって、ああどうしようと戸惑っている夏油に対して声をかける。

「そう? 無理は禁物だよ。じゃあ進もうか」

夏油は胸を撫で下ろした。はぁ、と表情を緩め逢坂に笑顔を向けた。
よく知っている笑顔だ。夏油がよくする表情だ。こんなに逢坂の記憶と寸分の差異もない仕草は一体どうやって得たのだろう。
誰かが夏油を偽っているのであれば、その人本来のクセが出てもおかしくはないのに。
一体なんなのだろう。一体どんな術式なのか。呪詛師なのか、それとも呪霊なのだろうか。
3級呪術師の逢坂には手の余る事態なのは確かだった。

逢坂は自分の術式をよく知るために、そして、目の前の得体の知らないものを刺激しないように、大人しくついていくことにした。




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