「どうしてなの?」
 
「それは私にもわからないや」
 
 夏油は眉を下げたままうーん、どうしてだろうね、と零した。
 
「でもね。お化けを見る人は君以外にもいるんだよ。少ないけどね。私だって大きくなって初めてお化けが見える人と友達になれたよ」
 
「お姉ちゃんのこと?」
 
 少年は溢れる涙を拭いつつ私を見た。
 
「そうそう。お姉ちゃんのこと。他にも二人お化けがみれる友達ができたよ」
 
「パパとママは全然わかってくれないの。そこにお化けがいても通り過ぎちゃうの。僕は怖くてたまらないのに、パパもママも平気な顔をしてるの」
 
「うん。わかるよ」
 
「今日だって、あおいちゃんもゆうくんも着物の人に気づかないで遊び始めて、帰ろうって言っても全然聞いてくれなくて」
 
「怖かったね」
 
「怖かったよ! だってお顔がないんだもん! お化けだなんだもん!」
 
 堰を切ったように、泣き始める少年を抱き上げて優しく背中を撫ででやる。少年は夏油の首に腕をまわして肩に顔を押しつけてびよびよと涙を流し嗚咽をあげた。
 
 
 :
 
 
 火がついたように泣き始めた少年は今は泣き疲れて夏油の方ですやすやと寝息を立てていた。
 
「お化けは怖いのに友だちが心配で逃げ出さないなんて勇敢だね」
 
「本当にね」
 
 私たちが通った道はなくなっていたから仕方なしに、夏油の呪霊の背中に乗って下山することにした。思っていたより時間が経っているはずだから補助監督が心配しているだろう。生憎この山中は圏外だから連絡も取れないし。
 
「呪霊が見える自分はおかしいって思ってるなんてよく気がついたね」
 
「私もそう思ったことがあるからかな」
 
「そういえば私もそんなこと考えたことあるかも……!」
 
「軽いね」
 
 夏油はククッと笑った。
 私もどうして両親が呪霊が見れないのか思い悩んだことがある。
 ただ、暗いトーンでそれを夏油に伝えたところで、空気が重くなるだけだ。疲れた体に余計に疲れが溜まるから、能天気な風を装ってはみたけど、本当をいうと夏油の言葉は私の心にちょっぴり沁みた。
 
 学校の帰り道、いつもの十字路の角に知らない人がいる。その呪霊の周りだけはなんだか薄暗くて、冷たい雰囲気が漂っていた。下校途中だったから周りは帰路につく学生が多くいたけれど、十字路に佇むその人のことはまるでいないかのように周りは振る舞う。
 わざとかと思い、一緒に帰っていた子に、あそこに人が立っている、と伝えてみると、え? という表情をされて、ああ、これは私にしか見えていないんだなってわかって、嘘だよ! と友だちの驚いた表情が嫌悪に変わる前に明るく言葉を重ねた。
 すると、も〜! 驚いた! と明るい声でバシバシと肩を叩かれる。
 私はハハハとおかしくもないのに、作り笑いを浮かべながら、その十字路を痛いほど脈打つ心臓を押さえつけて通った。
 呪霊は本当にただ佇むだけで、何もしてこなかったけど、それが私にしか見えていないという事実が怖かった。その恐怖が私だけのもので誰にも話すことができなくて、一生私の心の中だけに押し留めておかなくてはいけなかった。
 
 両親にもたびたび同じことをした。
 その度に困った顔や迷惑そうな顔をするので、私は恐怖心をひた隠しにして、本音を殺して、笑顔で誤魔化した。
 そのうち両親は私のことを、親の気が引きたい年頃だからと私の行動に対して不審がることは無くなっていったし、私も私で、呪霊を見かけた時に声に出さずに素通りするか、迂回する対策をするようになったので、表面的には何事もなかったかのように振る舞った。
 両親にとって何もない空間。私にとって呪霊がいる空間を見ているときは、ああ、空中に漂う塵芥でも見ているんだろうと思われるようになった。
 
 夏油の肩にしがみつく彼のように、あのぐらいの年頃のころ、呪霊が見える人と出会って、君はおかしくないよ、と言われていれば……とふくよかなほっぺたを見つめた。
 もし、おかしくないと自分自身を肯定されていたら、自分は一体どうなっていたんだろうか、と考えてみたけれどうまくできなかった。だっていつもいつも裏切られてきたから。
 でも、きっと、少年のように心の底から安堵して頭を預けれる相手ができたことに心底嬉しくなって心の底から笑えて本音も隠さずにいえていたかもしれない。
 
 夏油にありがとうと言いたくなったけど、その言葉は押し留めた。代わりに「やるな〜!」と褒め囃しておいた。
 そしたら夏油は満更でもない様子で「弱者は守らなくちゃいけないから」とこれまた冗談っぽく返してきたので、私はいよいよ涙が溢れそうになるのを堪えるのに必死だった。
 
 :
 
 家族のことは嫌いじゃなかった。むしろ仲良くやっていたと思う。でも私と同じものは見えなかった。
 私が道端で視界に映るものが怖くて立ち止まっても、両親にはわからなかった。よくある子どものわがままで気まぐれで立ち止まっているとばかり思われていた。
 両親にはわからない。それどころか、腹の虫の居場所が悪ければ、その両親がぽこりと呪霊を産むことだってある。
 それは私に対してだったり、詳細は覚えていないが、会社とか自身の友人とか。自分を取り巻く環境に対して呪霊を産んだ。私はそれがとてつもなく怖かった。
 私と生きている世界が、見ている景色があまりにも違うのだと教えられたから。
 
 夏油はあの任務を皮切りに、非呪術師の家系の私に親近感を私に覚えたのか、少しばかり会話する回数が増えた。
 会話をするのは同級生だから当たり前だといえば当たり前で、回数が増えたと言っても、そんな劇的にではない。あくまでも、同級生の範囲内で、の話ではあったけど、それでも今までの私にとったら圧倒的に増えたと言えた。
 それから非呪術師の家庭で呪霊を目視できる人間は夏油が初めてだったから、特別だと思うにはそう時間はかからなかった。
 それに、夏油は聞き上手で話し上手だった。
 私が両親のことは大切に思っているし感謝もしている。その反面同じ世界を共有できなくて寂しい思いをしたことを初めて告白できた人でもある。夏油はただ私の話に相槌を打つだけで、自分の意見とか社会の常識だとかを一切挟まなかった。ただそばにいて私の話に耳を傾けてくれた。それだけで私は嬉しかったし、何より心強かった。
 
 あの任務があってから、同級生に対して、同年代で同じ景色が見える仲間というふうに私の思考は変化していった。
 自ら進んで声をかけるようにもなった。
 御三家だからだとか、任務が被らないとかそういうのは私が壁を作るための言い訳に過ぎなくて、徐々に徐々に仲を深めていった。
 呪術師に閑散期間などない。戦っては休んで、怪我をしては休んで、助けては休んで、そしてまた戦っては休んだ。それの繰り返しだ。
 五条はそれが幼少期から当たり前だったのもあって、いつもけろりとしていたし、家入はそもそも危険な任務には赴かない。夏油も一般家庭の出身ではあるが、私との力量には天と地との差がある。だからいつも私だけがへとへとだった。
 限界も近かったのだろう。早く同級生に追い付かなくちゃという焦燥は幾分マシにはなったが、それでも次々と空気を読まずやってくる呪霊に辟易していた。
 だから私は爆発してしまった。文字通り。感情がむくむくと沸き起こるまま喚いた。
 何も言わない夏油がいるのをいいことに、彼をサンドバックのように今までの愚痴や想いを吐き出してしまった。夏油はそれを黙って聞いていて、無視するでも声をかけるでもなく、黙ってサンドバックに徹してくれた。
 それから、私が幾分か落ち着いて冷静を取り戻した頃に「帰ろうか」と一言。
 その時に、ああ、私の帰るべき場所は、欲しくてたまらなかった居場所はここにできたんだなって思った。差し出された手は忘れられない。温かくて硬い手のひらだった。
 
 その時はなんてキザなやつなんだと思ったけど、それと同時にその優しさが馬鹿みたいに身に染みて、何があっても夏油みたいな呪術師になろうと決意した。彼は私の憧れで目標になった。
 
 両親は。両親のことは嫌いじゃない。仲も良かったと思う。でも彼らと同じ世界は見れなかったし、彼らも私の世界に歩み寄ってくれようとはしなかった。
 夏油は、そばにいてくれた。程よい距離感で。同情や感傷で慰めようとはしなかったし、なんなら強くなるために鍛錬に誘ってくれた。
 それが私にとってひどく心に染み込んだ。心の底から安堵ができた。高専で初めて居場所ができた。いや、生まれて初めてできたかもしれない。
 
 じゃあ、同じことを非呪術師家系の七海や灰原にされたら、彼らの隣が私の居場所になっていたんじゃないかと想像してみたけど、うまくできなかった。
 うまく想像が繋がってできたこともあるけど、やっぱりあの時の夏油には敵わない。だって、夏油がそういう空気を読むのがすごぶる上手い。もちろん、彼らも誰かを思いやる気持ちは十二分に持ち合わせているけれど、夏油には敵わないのだ。
 
 :
 
「今から私と手合わせしない?」
 
 クリアな脳みそで素早く書き終えた報告書を提出した私に夏油が言った。
 もちろん私は二つ返事を返した。
 
 私はあの一件から、年齢が両手で数え切れるほど幼い頃の自分を救ってくれたような気に勝手になっていたので、一種の憧れに似た淡い感情は無事に育っていった。
 任務も一人ではなくいろんな呪術師の任務に同行させてもらって、戦い方を学んだ。
 そして何より変わったことといえば、同級生ときちんと同級生できるようになった。
 夏油の友だち発言がきっかけだったと思う。
 蜘蛛の上の人物だと思っていた五条はただの世間知らずの箱入り息子だったし、近寄り難いと思っていた家入は、ただの愛煙家の不健康優良児で、住む世界が違うと思っていた夏油は物腰が丁寧に見えるだけだった。なんら私と変わりない一〇代の多感な学生だった。ただ、やっぱり彼らはセンスと才能があって、どうしても私では追いつけないものがあったけど、彼らを頼って効率の良いトレーニングの仕方や祓い方を教えてもらうことで少しばかりは平凡から毛が生える程度に成長した。
 
 そして私は呪術師になるための意思を固める。
 夏油みたいな呪術師になるにはどうしたらいいだろうと考えた時、まずは目の前にあることを、与えられたことを精一杯やろうとした。夏油がしていることと同じことを私も胸を張ってできるようになりたいと思って。私の初めてできた居場所を守りたいと思って。確固たるものにしたいと願った。
 きっときっかけは夏油が初めて声をかけてくれたことに起因する。それから、夏油が救った少年。そして、四人で仲を深めたことによった確固たるものになった。なによりも、同じ一般家庭の出自である夏油に感化されたのが大きいだろう。
 私は私ができる唯一のこと。つまり、呪霊を目視し、祓うこと。それは呪術界にいればごく当たり前なことだけれど、私がいた世間ではあり得ないことだった。そして平凡な私が唯一社会のためのできることだ。
 弱きを助け強気を挫く。夏油に言われたこの言葉は私にとってまだまだ目標にするのには程遠く、身の程知らずと言われてしまうものだということは重々承知していたが、心に掲げて、目標とするのにはぴったりだった。
 夏油のような強い呪術師なりたい。身も心も。そう決めた。
 まだ入学して一年も経っていない頃、私はその言葉を胸に刻んで邁進していた。どんなに辛い任務があろうと、身近な死が迫ろうと、きつい、汚い、危険、この三つが重くのしかかろうとも、私ができる唯一を精一杯こなした。私がしている仕事は必要不可欠であると。
 憧れの夏油に近づくために。立派な呪術師になろうと。固めた決意が崩れそうになった時もなんとか慰めて立て直して、自分を奮い立たせて。今までやってきた。律儀に真面目に。
 
 それがどうだ。
 その信じてやまなかった夏油が。私の正義の指針をつくった夏油が。あんなにも呪術師として適任だった夏油が。誰よりも多くを救った夏油が。
 あろうことかその正義を紡いだこの唇から人を殺すための言葉を放った。私の目の前で。
 容易く人を殺した。
 
 確かに呪術師をしていれば人を殺すことだってある。でもその対象は呪詛師であって、しかも上からの度重なる審議を経た上で上層部が生かすか殺すか決めるのだ。
 私たち呪術師の意志はそこに介在しない。
 どんなに憎かろうが、どんなに惜しかろうが、どんな思いを抱いてようが、そこに私個人の感情と思想は反映されない。あくまで仕事の一環だ。
 だから、自分の意志で人を殺した夏油が私に与えた衝撃は凄まじかった。
 あの時の悲鳴がいまだに喉の奥にひっついて息がしづらいほどには。
 
 夏油についていきたい。呪詛師になってしまっても、これからもっと人を殺すことになっても、それでも夏油のそばにいたいと。
 何があっても夏油を裏切らず、否定もせず寄り添えるように、と。
 そう思っていたのに、いざ目の前で夏油の見ている現実を、感じている世界を、排除したい存在を見せつけられて脳みそが真っ白になる。良心が悲鳴をあげている。
 
 思考するのを放棄することを選ぼうと脳みそはするけれど、でも、それでも、夏油が人を殺しても、あの時の落ち込んだ私のそばにいてくれた夏油のことをどうしても忘れられなくて、人殺しの夏油は本当の彼ではないと思えてしまって、やっぱり私の夏油のそばにいようという決意は揺らがなかった。私も結局は、見たいものだけを見て信じたいものだけを信じている。
 人を殺した夏油と人々を救っていた夏油は紛れもなく同一人物だけれど、私は、その後者夏油の良心を馬鹿みたいに信じ切っているのだ。今も彼の根幹にはそれがあると。



 
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