私の目の前に音もなく現れた夏油は酷い顔をしていた。
この世の醜悪に耐えきれないような、身から溢れる増悪を抑えきれないような、けれどそれを微塵も感じさせないように、おくびにださないよう努めているちぐはぐで不安定な様子だった。
一挙一動は滑らかで、余裕を感じさせたが、とてもそういうふうには見えなかった。
ただそれは私がそう思っているせいかもしれない。実際には本当に風一つない水面のように穏やかなのかもしれない。
「これが本当の私だよ。猿に手をかけるのに少しの良心も痛まない。それどころか、害虫を駆除するときのような心持ちだ。不快感がないと言えば嘘になる。けどそれは余計な手間が増えたことに関する苛立ちだ」
夏油が一歩踏み出し、頼りない月明かりに照らされた青白い顔は今しがた殺してきたであろう猿の返り血がついていた。
「考えていることはよくわかる。自分自身に言い聞かせているってことを」
呪詛師への一歩を踏み出した私がそうであるように、猿は醜悪だと、憎むべき必要悪で駆除すべきものであると、そう言い聞かせて止まないのだろう。そうでなければ、釣り合いが取れない。高専のときのあの優しく気にかけてくれたあの頃の夏油と今の夏油は。
「満に何がわかる」
夏油の声音は恐ろしいほど平坦だった。
「わかるよ。見てたもの。そばにいたもの」
「高専の時の私の方が全部嘘かもしれないよ。この世界では私は心の底から笑えなかった。今の私が今まで満が知らなかった本当の私だよ」
もう一歩夏油は私の方へ近づく。
冷や汗が吹き出しそうになるほどのプレッシャーを感じた。いや、ここで怖気付いてはいけない。夏油のことを少しでも疑ってはいけない。だって夏油は私のことをここから出ていって欲しいと思っているから、その思惑通りにさせてはいけない。
そばにいなくてはいけない。何があろうと。
目を夏油から逸らさない。憂いを孕んだような冷たい瞳は私の体に遠慮なく突き刺さる。
詰めていた息を吐いた時、夏油の五条袈裟は暗い赤色に染められていることに気がついた。夏油がここにくる前に殺してきた人数及び凄惨な現場だったんだろうと想像するに容易い。
血は似合わない。そう思ったら、手が自然と夏油の頬に伸びていた。
辿り着く前にその手は払い除けられる。パシッと乾いた音がした。その夏油の手も血で赤かった。
「酷い顔だよ。お風呂に入ってゆっくりした方がいいよ。それよりちゃんとご飯食べてる? ぐっすり眠れてる?」
「……」
夏油は黙って目を逸らした。
私は諦めず再度夏油の頬に手を伸ばし、返り血を拭おうとしたけれど、時間が経っているみたいでかわいていて、うまく拭えなかった。
「やめてくれ、もうやめてくれ……」
血で赤く染まった手で顔を覆った。その手は小さく震えている。
「頼むよ。耐えられないんだ。もう、もうこれ以上私に優しくしないでくれ。これ以上満に情けない姿を見られるのは……」
うわごとのように夏油の口からこぼれた。
「夏油」
「私たちは出会うべきではなかった。満は私についてくるべきではなかった」
夏油は血に染まった自身の手を見て私を拒絶した。
「出逢わなければよかったんだ」
ぽつり、とそんなことを言ってこの場を立ち去ろうとしたので、私は大慌てで、夏油にしがみついた。そしたら、思いのほか勢いをつけてしまっていたみたいで、ゴン、と鈍いとと共に地面に一緒に倒れ込んだ。きっと夏油は頭を打ちつけた。それを裏付けるかのように夏油は小さく唸り声を上げた。
私はぎゅうぎゅうと、夏油にしがみつく。乾いた血の匂いがした気がした。
「私が夏油に会えてよかった。ついて来れてよかったと思ってる」
夏油に引き剥がされないようにぎゅうぎゅうと力を込める。
「私の幸せは夏油のそばにいることだよ」
「今の私は満を幸せになんかできない」
「いいよ。そばにいること自体が幸せなんだから、今のままでもいいの」
「行き着く先が地獄でも?」
夏油が呼吸をするたびに上下する胸に頭を寄せる。
「夏油とならどんな地獄でもいいよ」
ぱっと、地面に手をついて夏油の顔を見つめた。そこには困ったような、それでも何かに縋りたいような、なんとも言えない表情をしている夏油がいた。
「ね。だからお願い。そばにいさせて。ずっと。じゃないと呪うから」
「満」
夏油が私の名前を呼んだ。その声が優しかったから、嬉しくなった。今まで呼ばれた中で一番穏やかだったかもしれない。
それから少し困ったように眉を下げて、続きを言おうとしていたけれど、口を閉ざして、腕で顔を覆った。
もしかして、泣いてるの? なんて無粋なことは聞けなかった。
代わりに労るように優しく夏油の体に手を回した。
「……満の呪いはよく効きそうだ」
「やったね! 特級呪詛師のお墨付きだ」
夏油はククっと喉の奥で笑って上半身を起こした。私もつられて体を起こす。
そのまま立ち上がるかと思ったけれど、座った姿勢のままで夏油の手は私の腰にまわった。
夏油の顔をひさしぶりにきちんと見た。やっぱり顔色は良くないし、目の下に隈もある。でも、瞳の奥は先ほどまでの冷たさはなく、よく知っているものだった。
「もうこの地獄からは逃げ出せないよ」
「それって夏油に永久就職ってこと?」
豆鉄砲を喰らったように目を丸くしてから、くしゃり、と破顔した。大きな声を立てて夏油が笑う。
腰にあった手は背中にまわされていて、先程のお返しだとばかりにぎゅぎゅっと抱き締められた。
「そう解釈してもいいよ」
私も首に両手を回してより夏油に近づく。
「実は、墓場まで持っていこうと思ってたことがあるんだ。この際だから聞いてくれる?」
「待って。死ぬ気じゃないよね? 私と朝日見てくれるよね?」
縁起でもない例え話をしようとしないで欲しいけれど、夏油の言葉を聞かなければまた後悔するかもしれないと思うと、止めれずにはいられなかった。
「朝日も一緒に見るし、朝ごはんも一緒に作ろう。私は料理上手な満の手料理が食べられるのを楽しみにしてるんだから」
私が心から切望した明日が来る。夏油と一緒に迎える明日だ。しかも、一緒に食卓も囲んでくれるらしい。頬がだらしなく緩む。
夏油の秘めた思いとはいったいなんなんだろう。私にだけ教えてくれるなんて、身に余る思いだ。
「私も満のこと好きだった」
「え」
一体いつから? 嫌われていはいないと思っていたけど、好きだっただなんてそんな奇跡みたいなこと。信じられない。
「好きな子の前ではカッコつけたかったんだ。今の私では全然カッコつかないけれどね」
仰天した。まさに青天の霹靂。
「満と出会えてよかった」
「私も夏油に出会えなかった人生なんて考えられない」
「大袈裟だな」
呆れたようにため息をつく夏油に、神妙にいかにも重大なんですと言う表情を作って抗議する。
「これだけは、どうしてもこれだけ聞かせて欲しい」
「なに?」
夏油は打ちつけた後頭部に手をやり瘤ができていないかを確認していた。
「どうして連れていってくれなかったの?」
「それは……私とここ暫く一緒にいてわかっただろ」
夏油は長く息を吐いて、それから強い力で私の身を掻き抱いた。
「これからはどこに行くのにもついてきてもらうことにするよ」
しんみりと言った夏油に、小さく相槌を返す。その気配を感じて夏油は私の名前を呟いた。
「そばにいてくれ」
懇願する夏油に私はもちろん、と是を返した