「は、嘘だろ」
「うん。嘘だよ」
うわー、五条、騙されてやんのと戯けてみた。
「笑えない」
ぽつりと言った言葉は重かった。私だって笑えない冗談だというのは分かっていた。
でも、これから先、私は夏油についていくためにこの程度の嘘を言うぐらいで心痛めている場合じゃない。
もしかしたら、これからの私は非呪術師ひいては夏油にとって有害な人たちを殺すことになるかもしれない。自分の独断と偏見で。
だから五条が私の発言に対してどう思おうが関係がないのだ。私は呪術師を辞めるのだから。これからきっと関わることはなくなる。五条が私のことを見逃してくれたら。もし私が処刑対象になったとしても、五条がアサインされなければ。
「満には言ってなかったけど、新宿で傑にあった時、お前のこと任されてたんだ」
おでこに手のひらを当てて前髪を掴んだ五条は大きく息を吐いた。そして、続ける。
「満は思ったより寂しがりやで、でもそうは見せないように振る舞うのが上手だから気にかけてやってくれって。傑、それはいったい何の冗談だ? ってその時は思ってたけど、今ならその意味がわかる」
「どういう意味?」
五条が言いづらそうに言い淀むから、私は催促してみる。まさか夏油がそんなことを五条に言っていたなんて夢にも思わなかった。
「……」
「語彙力死んだ?」
「うるせえ」
五条は確信を得て、夏油が言った言葉の真意がわかったらしいが、いったいそれは本当だろうか。親友をやってたくせに、夏油が離反する可能性を考えていなかったのに。
それは私もだから同罪なのだけど。
夏油の真意や五条の辿り着いた答えは知らないけれど、私は、ただ私を救ってくれた夏油のそばにいて安心したいだけなのだ。そしてあわよくば支えになれたら、共に生きれたらと思っている。それは我儘じゃなくて寂しさだったんだろうか。今の私では到底わからない。
「呪詛師なんかになるな。呪術師続けようぜ」
「それ、夏油に言いたかった言葉?」
呪術師であれば私は人として正しくいられるだろう。失ったものより今いる仲間を大切にすればいい。そうしたら、両親にだって胸を張って親孝行できるし、社会にだって貢献できる。でも、それでも私は夏油と今まで大切にしてきたもの全てを天秤にかけて、夏油について行くことを選んだのだ。
それは、神経をすり減らし、体力を消耗し、精神が限界になる可能性の方が多いだろう。けれど、そういう未来が待っていたとしても夏油のそばにいたいのだ。
私の孤独を知ってわかってくれた初めての人だから。
夏油との過去だけではもう生きていけない。夏油との明日が欲しい。幸せでなくともいい。辛くてもいい。悲しくてもいい。肩を寄せあって、それでも生きていく。そのための明日が欲しい。
「図星で言葉が出ない?」
「わかんねぇ」
五条は家入と同じぐらい酷い隈を作っていた。いつの間にかサングラスを外して硬く瞼を閉じている。
「えーと、五条が私のことを大好きなのはわかったけど、私、五条より夏油の方が好きなんだよね。だからごめん」
「やめろよ。告白もしてないのに振られたみたいにするの」
ふふっ、と五条は鼻で笑った。
お通夜みたいな空気が少しは軽くなる。
「知ってる? 夏油って非呪術師とあまり関わらないようにしてるから外食なんてしないの。でも多忙だから、忙しい時は食を疎かにするんだ。精悍な顔って言えば聞こえはいいけどやつれちゃってるんだよね。私はそういう夏油が見るのが辛くてお腹いっぱい食べさせてあげたいと思う。あと、あんまり笑わなくなったんだ。でもね、私といる時に安心したような顔やちょっと気の緩んだ表情を見せてくれる時があって、そういう時は心の底から安心するの」
夏油、呪詛師向いてるけど向いてないんだよね、と続けて言えば、何だそりゃ、と笑い声混じりに返される。
「お願い五条。今だけこの一瞬だけ見逃してほしい」
酷い時は何も食べないみたいなの。双子に聞いたところ、どうしてもお腹が減った時は蕎麦を茹でて食べてるみたいだけど、そんなんじゃ栄養バランスが偏るでしょ? あんなに身長があるんだから、質も量も取らないといけないと思うでしょ。
「今は呪術師、次会った時は……呪詛師」
「うん」
「俺は満を躊躇いなく殺せる」
「うん。わかってる」
「お前はずるいよ」
「ごめんね」
五条は自分に言い聞かせるみたいにじっくり噛み砕くように言葉を発した。
私はその場を立って出入り口の歩みを進める。五条の方は振り返らない。次顔を合わせた時はどちらかが死ぬ時だ。とは言っても実力差的に私が死ぬことになる。
そうだ。久しぶりに実家に行こう。高専に入学したきり滅多に帰らなかった実家に。後ろめたかった嘘を真実にするために。
次五条と会った時、五条が本当に何の躊躇いもなく殺せるために。情けもかけることもできなくなるために。
:
「どうしてここにいる?」
「え?」
「悟とあったんだろう。スパイごっこも昨日で終わりだと思っていたんだが」
「いやいや、五条には別れの挨拶をしただけだよ」
「白々しいね」
目を細めて私を見下ろす夏油。昨日一緒に食卓を囲んだのが私の都合のいい妄想だったんじゃないかとすら思えるほど態度が冷たかった。
「どの面下げてのこのこ戻ってきたのやら。うまくもないスパイ活動を続ける意味があるのか? それとも殺されに帰ってきた?」
鼻で笑い、心底馬鹿にしたような声音で夏油は私を殺すと言った。
私は、夏油との明日が欲しい。どんなに辛くても苦しくても、それこそ死んだ方がマシだと思えても、それでも、そんな地獄を夏油となら生きたいと思った。
でも夏油はそんな気さらさらないどころか、目障りである私を殺す、と。
それもいいかもしれない。私の生まれて初めての心の底からの願いが叶わなくても、仕方がない。だって私の願いは夏油が許してくれなくては成立しない。許してくれなくても、この命絶たれて仕舞えば、一生叶う機会は失われる。ならば、いっそのこと夏油の手にかかった方が私自身の人生の幕引きとしては最高のものになるだろう。夏油のいない明日より、夏油の手で終わらせられた今日の方がいい。
でも、ちょっぴり未練がある。だからまだ悪あがきをさせてもらう。
「私強いし、ボロ雑巾みたいにズタズタに使い果たしてから殺した方が有益じゃない?」
だって、夏油のそばから離れる予定ないし、どうせなら有効活用した方がいいじゃん、と。
忌々しそうに眉を顰めると、踵を返しスタスタとどこかへ行ってしまった。
その背中を眺めていたらずっと息を潜めて様子を窺っていた双子が私の目の前に飛び出してきた。
「夏油様は本当に満のことを殺したいと思ってるわけじゃないと思う!」
「だって満は猿じゃないし! 料理だってうまい!」
「うん」
本当に殺す気であれば、殺すという前に殺されていただろう。そういう人だ夏油は。
それに、夏油は私の言葉に言い返すことなく去っていったということは、夏油も揺らいでいるのだと思う。いや、そう思いたい。
彼は優しい人間だ。慕ってくる人間を躊躇いもなく殺すことはまだしないだろう。
でも、表面だけの拒絶だったとしても辛いものがある。辛いけれど、これは私が選んだことだ。
「だって夏油様、満といるときちょっと雰囲気が柔らかくなるから!」
「どうしてあんなきつい言い方しちゃったのかわからないけど!」
「うん」
双子は私の袖を強く握りしめて、酷く焦って、夏油様は、夏油様は、違うの、違うから、と夏油を擁護する。
私だって知っている。夏油と一緒にいた期間は双子の方が長いかもしれない。でも、それでも、私は夏油がそんなことを思う人間だとはこれっぽっちも思っていないのだ。
夏油は取り繕うのが私の想像していたよりもうまかった。本当に私のことを忌々しいと思っているような雰囲気と態度に思わず辟易してしまうほど。
でも、それでも、私は夏油のそばにいたいのだ。夏油が今は頑なに私のことを拒絶しているけれど、私が本当に呪術師を辞めて呪詛師になったんだとわかれば、その冷たさも緩和されるとそう信じて。
しつこくしがみついていれば情に絆されてくれるかもしれないとも期待して。
けれど、それよりも、夏油の元に、そばにいられる。そのことが何よりも私の支えなのだ。
:
「もう嫌になっただろ。せっかく私についてきたのに。流石に後悔してるだろ。高専に帰りたいと思ってるんじゃないか?」
「どうして? 後悔はしてないし、しない。私は生きてる。生きて夏油のそばにいる。後悔する理由がない」
「ずっと監視されているのに? 自由がないのに?」
「私、呪詛師になちゃったし高専からは処刑対象だよ? それをわかってて匿ってるんでしょ?」
「……はは、おめでたい考えだな」
「私何があっても、どんなことが起こっても夏油のそばから離れないから。うざかったり、目障りに思ったら殺すしかないよ。私には夏油が殺すか五条に殺されるかしかもう跡がないあら」
「悟が?」
「うん。そういう約束をしてきた」
「……」
「私は夏油に殺されたいかな」
「満は猿じゃない」
苦々しく吐き出した夏油の顔をおそるおそる、やっとみたけれど、目線は合わなかった。
「殺す、理由がない」