天内理子の任務にはどうしてもついていきたかった。でもついていけなかった。
それは上が夏油と五条で十分だと判断したからだ。彼らは行ってしまった。もう教室にいない。
私が教室に入ったときには彼らの姿はなく、どうしたのかと尋ねて、担任から天元様の依頼で任務に行ったそう言われたとき、自分の髪の毛を全て毟ってしまいたかった。
そろそろそういう時期が来るとわかっていたのに油断していた。今すぐ腹を切ってしまいたい。夏油を生かすために生きてるんだろう私。夏油が生きるためには彼の心の澱をできるだけ排除しようと決めたのに。
でも落ち着くんだ。大丈夫だ。天内理子が死ぬのは夏油が呪術師のあり方を考え悩むきっかけに過ぎない。数あるきっかけのひとつ。クソみたいな小さな絶望を繰り返すことで心が壊れてしまうなら、今後積み重なる予定のクソを取り除けばいい。そうでしょ。
しかも彼らは高専の戻ってきてから禪院甚爾に襲撃される。大丈夫。
禪院甚爾が襲撃に来たときに私が駆けつければいい。天内理子を守れたらいい。
守れたらいいなんてそんなに簡単に考えるけど、天内理子を守れるか分からない。だって禪院甚爾はあまりにも強すぎる。私ごときの末端の呪術師では手も足も出ないかもしれない。でも、高専内には家入もいるし、死にかけても死なない。禪院甚爾の狙いは天内理子なのだし、私は天内理子の盾になればいい。でも死ぬ気はない。
ここで私が死んだら灰原はどうなる。夏油が九十九由基の話を聞いてしまう。その二つだけは阻止しなくてはいけない。
だから死ねない。
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禪院甚爾が部外者だと知らなければ、高専内を我が物顔で歩く彼を見かけたとき、私は気にもとめずに彼の存在を無視してしまっただろう。
これから人を殺しに行くというのに自然体すぎるその動作は、感動すら覚える。殺意がない。きっと彼はこれぐらいの仕事は赤子の手をひねるようなものなのだろう。
鳥肌が立った。
以前夏油に言われたこともあって、私は呪具を持ち歩くようになった。そのうちのひとつを使って禪院甚爾に奇襲をかける。
夏油と五条を見つけるよりも前に禪院甚爾を見つけられたのは上上かもしれない。
腰にさしていた拳銃を取り出し、引き金を三回引く。きっと彼は悠々とかわすしてくるに違いない。怪我を与えられる自信も力量も私にはない。
隙が一瞬でもできたら術式を使う。
でなければ勝機はない。夏油を生かせない。天内理子が死んでしまう。
引き金を引き終わると同時に彼に向かって駆ける。次は腰に下げた刀を抜いて振りかざす。これも避けられた。
避けられるのもわかり切っているので、袖の下に仕込んでおいたナイフを手に握る。
隙がない。さすが天与呪縛の賜物。化け物め。くそくそ。ナイフは彼の服を擦りはするだろうか。強く握りしめる。
強く握ったはずだった。
気がついたときには、ナイフは前方遥か彼方に落ちていたし、私は腹側と背部が熱くなっていたことに意識がいく。
そちらに視線を向けると、禪院甚爾の太い腕が私の腹にのめり込んでいた。
咽せる。そして口から何か飛び出したが、それが私の血だというのはわかりきっていた。見るまでもない。確認するまでもない。
くそったれ。強すぎる。勝てっこない。
禪院甚爾が腕を引き抜いた衝撃で、私の体は地面に崩れ落ちる。意識は茫然とあるが身体がいうことを聞かない。
禪院甚爾の顔を下から睨めつけてみたが、彼はうっすらと笑っていただけだった。
伝えなくては。禪院甚爾がいることに。
高専内は安全じゃないって。伝えなくちゃ。
誰に。五条に。
五条に無限を解くなと言わなくちゃ。油断するなと。言わなくては。
びっくりするほど震える手でポケットに入れていた携帯を取り出す。
ワンタッチキーに登録している五条の番号を押した。
きっと、五条が電話に出てくれても私は話せない。でも、初めて私から電話をかけたから何かしらの異変だと思ってくれないだろうか。
お願い五条。気づいて。
「…もしもし」
願いが届いたのか奇跡的に五条はワンコールで電話に出てくれた。
でも、グジャ、バキッと音がしてそれからどうなったか分からなかった。意識が途切れた。
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目が覚めるとやっぱりよく知った天井があってよく知った消毒液の匂いが充満していた。
飛び起きる。
天内理子はどうなった? 禪院甚爾はもう死んだのか? 五条は覚醒したのか? 一体どうなった?
医務室から飛び出したときに家入の声が聞こえた気がするが、そんなこと今はどうだっていいのだ。
夏油は。夏油は今なにを考えてる。今どこにいる。どういう気持ちを抱いてる。そればかりが気になって、キリキリと痛む腹部を押さえつけながら、走る。
医務室にいないってことは、薨星宮にいるのか。でも、薨星宮の行き方なんてしらないし、一体どうすればいいんだ。
それかもう手遅れで、天内理子はもう死んでしまっていて、夏油は盤星教にいるのだろうか。
どうしよう。気絶なんかしてる場合じゃなかった。私が弱いばっかりに。
ひゅーひゅーと耳障りな呼吸がする。
早く夏油を見つけないと。
あそこの廊下を曲がれば外に繋がる扉だ。外に出たらすぐに盤星教に向かおう。そこで夏油と合流しようか。それとも、盤星教の信徒全てを皆殺しにして、あの気持ち悪い笑みを夏油に見せないようにしようか。そっちの方がいいかもしれない。そっちの方がリスクも難易度も低い。私の術式も有効活用できる。
扉の取手をつかもうとしたら、扉がひとりでに動き出して、人影が現れる。
私は扉に体当たりをして開けるつもりだったから、勢いが殺せず人影にぶつかってしまった。
「ごめんなさい」
勢い殺せず、人影を巻き込んで押し倒してしまうかと思ったが、存外体幹がしっかりしている人物だったみたいで、相手は数歩よろけただけだった。よかった。そりゃ幸いとばかりに、相手に寄りかかる体勢を直しその場を離れようとしたが相手に肩を掴まれた。離せと左腕を回す。
「伊吹!」
「え、あ、げとう…」
夏油は鼻血も出してなかったし口の切り傷もない。顔に傷がないどころか、汚れもない。制服もどこも破けていなくて、綺麗。
夏油が歩けてるということは、家入の治療後で、盤星教に行った後か。
長い間気絶してしまっていたみたいで自分自身に腹が立つ。
「血が出てる…」
夏油が弱々しくそう呟く。どこから。と思って夏油の視線の先を辿ると、私がキリキリ痛いと思って腹を押さえつけていた右手が真っ赤だった。腹部の傷が開いたらしい。
意識した途端に足元がふらつく感覚が襲ってきて悔しかった。なんと弱くて脆い体だろう。
立ち竦む私を夏油は軽々しく抱き上げると、医務室に戻るための道を歩く。
「伊吹!」
少し離れたところで家入の怒鳴り声がした。
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医務室のベットに括り付けられた私は、夏油がすぐ側で林檎をすり下ろしているのを眺めていた。
別に風邪じゃないんだからすり下ろし林檎なんてそんな手間のかかるもの用意してくれなくていい。とは思うが、彼の大きな手でせっせとすり下ろされる林檎を見ていると、愛おしさが湧いてくる。
夏油が家庭的なことをしているぞと、自慢したくなる。
コンビニとかでレトルトのお粥を買っ来てくれたらいいのに。胃を含めた諸々の臓器を家入に反転術式で治してもらったから、消化に優しいものをと思ってやってくれているんだろうけど、申し訳なくなる。
「どうしてあのとき私じゃなくて悟に電話した?」
擦り下ろされた林檎は、夏油の手によって私の口元に運ばれる。
私はベットから飛び出さないように肢体をベルトでベットに括り付けられているので、甘んじてそれを受け入れるしかなかった。
「五条と電話をしたことがなかったから、緊急事態だと思ってくれるかと思って」
夏油ははぁ、と長いため息をつく。
「伊吹、君さ、私に電話してきてくれたこともないよ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
はて、私は夏油と携帯電話を通して会話した記憶がある。
でも私から夏油に電話をかけたことがないらしい。それに関しては記憶がない。そう言ったら、夏油が自分の着信履歴を私に見せてきて、それで納得した。
でも五条から電話がかかってきたことは今まで一度もなかったので、やっぱり緊急性を伝えるにあたっては五条で正解だったと思う。
「私は頼りない?」
「そんなことない。夏油は強いよ。…ほんと。…誰より頼りにしてる」
強いよと伝えたとき、苦しそうな顔をしたように見えた。だから思わず、余計な二言まで加えてしまったが、夏油は緩く微笑んだだけだった。
夏油は強い。優しい。かっこいい。そんなことはわかりきってる。だからこそ死んで欲しくない。やっぱり天内理子が死んだことは夏油に大きな影を落としたみたいだったけど、これぐらいの心の挫折は呪術師はみんな通る道だとして受け入れて欲しかった。
じゃないと、夏油が死んでしまうから。
「今度からは何かあったら夏油に連絡する」
「そうしてくれると嬉しいよ。もちろん何もなくても連絡して」
夏油は絶対だからね、と言った。私は素直にうなづいておいた。
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あれから、自分から電話をかけることは数ヶ月経ってもしなかったが、頻繁に夏油から連絡が来るようになった。
それはもうたわいのない会話ばかりで、穏やかだった。
その穏やかな時間は、夏油が最強の呪術師ではなくて、等身大の男子高校生に感じたから、思わす声も上ずるというもの。
夏油はかっこいいけど、ちょっとかわいいな。魅力的な推しだなと想いは募る。
今のところこの感情を共有できるのは灰原しかいない。でも募りに募らせ拗らせた夏油に対する感情を赤裸々に語ってしまったら、いくら度量の広い灰原でも引いてしまうかもしれない。
だから、灰原が夏油のことを一〇話したら私は一話すようにしてバランスを保とうとしていた。
自分から見た推しはもちろんのこと、同担から見た推しというのも興味深くてついつい灰原に、夏油の話をねだってしまう迷惑な先輩となってしまったのだけど、灰原は嫌な顔せず生き生きとした表情で夏油のことを教えてくれた。
ありがたい限りである。灰原にはもう足を向けて寝れない。
灰原との会話が盛り上がっているとき、最高潮なときに限って夏油からの電話とか、本人が現れたりするから、興奮を抑えるのにいっぱいいっぱいで、できるだけ冷静な声音を出す。そしたら灰原に、情緒の緩急がすごいですね。と言われた。
彼は褒めたつもりらしく、私も切り替えが上手いと褒められたと受け取ったのだが、隣ににいた七海からは、信じられないという目を向けられた。なにに対して?
七海は信じられないという表情をしていたし、小さく「信じられない…」とも溢していたので、よっぽど信じられないことがあったんだろうな。思わず顔と声に出てしまうぐらいに。
「夏油さんのこと、好きなんですよね?」
「もちろん」
灰原と盛り上がる私の姿を見てよくそんなことが言えるな。もう好きも好き。大好きだよ。だから絶対死んで欲しくないし私のエゴのために生きてほしいんだよ。
夏油は優しいしかっこいいし強いし、生きるべき人間国宝じゃないか。
この持て余すほどの熱いパッションが七海には伝わらなかったのだろうか。
「今の切り替わり方、夏油さんのこと心底どうでもいいと思ってるような声音で正直引きました」
さっき夏油からの電話はコンビニ行くけど何かついでに買おうか? というもので、私は夏油が買ってきてくれるならなんでも嬉しいから、「べつに、なんでも」と答えて電話を切った。
それが七海にはわからなかったらしい。
「この世の言葉では言い表せないぐらい大切に思ってる」
七海の目をまっすぐ見て、私は本気の本気なんだぞという気合いを込めて告白した。
言ってから、ちょっと大胆だったかなと、顔がほてる。
七海は手を顔面に押し当てて深いため息をついて、夏油さんに同情します、とうなだれた。
灰原は横で大胆ですね! と興奮していた。