「新宿で期間限定で出店してるケーキ美味しかったよ」
「うん」
「地方からの出展らしくて、ポップアップは初めてなんだって」
「そう」
「ホールケーキも売ってるし、メッセージプレートも書いてくれるんだって」
「よかったね」
五条が発した言葉に相槌を打つ藤原は一年生の教室に向かう最中だった。
任務に行かなくてはいけなくなった五条の代理である。前日五条からは今日一年に教える範囲を伝えられ、そのあとみんなが元気そうであれば実践訓練だと称してグラウンドで程々に転がしておけばいいと軽い引き継ぎを受けていた。
だから、代理を頼んだはずの五条は本来ならばこの時間この場所にいないはずである。任務の日時が変更になったのであれば、代理は必要ないと連絡が来るはずなのだが、それもなく。当の本人はなにを考えているかわからない顔で藤原の横を歩いていた。
引き継ぎで言い忘れたことを言いにきたのではない様子で、ただ新宿に出店しているケーキが美味しかった、とただそれだけしか口にしない。
「ちょっと、伊吹、今日何の日か忘れてる?」
「五条が任務だからその代理を務める日だったと記憶している」
「まあ、そうなんだけど。ちがうちがう! もっと大切なこと」
「出張してた傑が帰ってくる日」
「惜しい!」
アイマスク越しの五条は眉をひそめていて、本当にわからないの? と口を尖らせている。
「今日は11月22日だよ!?」
「うん」
「いやもっと別の返事があるでしょ!」
「そろそろ11月下旬だ」
「違うでしょ!」
はぁ、と深く息を吐き出しておでこを抱える五条は察しの悪すぎる藤原に頭痛が起こりそうだった。長い指で入念に眉間を揉み解す。
「いい夫婦の日でしょ……」
「じゃあ、私はこっちだから」
藤原は自分の進行方向を指差して、五条はあっちでしょ、と車庫の方を指した。
五条は一瞬なにを言われたか理解できず立ち止まる。
「いい、夫婦、の、日! なんだけど!」
「うん」
五条はうめいた後言葉を細かく切ってはっきりと発音した。それに対して藤原は聞こえている、という意味の返事を返す。
五条が再度言い直したのは、藤原が聞き取れなかったからかもしれない、という親切心からではなくいい夫婦の日という一種の記念日にはなにをするのか、という返事が欲しかったのだ。それを皆まで言わなければならないほど藤原の察しは悪い方ではないはずなのに。
「いい夫婦の日って記念日でしょ?! 記念日のケーキの候補を伝えたつもりだったんだけど?!」
「うん。伝わってた」
「なに? もうケーキも注文済みで準備バッチリなわけ?」
多忙に挟まれている呪術師ではあるが夏油のこととなると多忙なことは時間抽出するためのさしたる問題ではないという藤原にはもう関係のない話だったかもしれない。そうならそうと言えば良いのに、いつも言葉が足りない、と五条はため息をついた。
「やっぱり2人で盛大に祝うの?」
五条は別に人の記念日だとかそういったものには興味がない。全くない。
けれど、学生時代からの付き合いで今もなお五条を楽しませてくれるものとして藤原のことは気にかけていた。
「知らない」
「?」
記念日の内容を2人だけのものにしたいから秘密、とか五条の質問をはぐらかしたい返事というものではなかった。
そこに違和感を感じた五条は突っ込まずに引き下がるという性格はしていない。あの藤原が記念日に記念日の祝いをしないなんて。そんなことはあってはならないのだ。学生時代からの唯一無二のエンタメに暗い影など必要がないのだから。
「伊吹、どういうこと?」
自身が思ったより低い声が出たが、藤原は気にしなかったようだ。伊地知がいたらきっと冷や汗ぐらいかいていただろう圧があった。
「私はなにもしないから」
「は?」
あの藤原がなにもしないだって。五条はアイマスクをあげて自身の双眸で藤原の顔を確かめた。
笑えない冗談を言っているのであれば、ふざけるな、笑えねーよ、と一蹴できたけれど、藤原の顔はいつもと変わらないように見える。真顔で夏油以外には振り撒く愛想がほとんどないという顔だ。
呪力は揺らいでいないし、後ろめたさや悲しさがあるわけでもない。物事の終盤にある独特の形容し難い雰囲気があるわけでもない。
ただ藤原は真実を伝えているだけらしかった。
「ウッワ! あぶねー! 藤原先生! ゆっくり来て! 俺が教室着いてからで良いよ!」
始業のチャイムの音とともに2人の間を駆けていったのは虎杖だった。姿を確認する前に見えなくなったので、声かけがなければ視界の端に濃紺と赤色のマダラな塊が通りすぎたような気がしたな、と朝から幻覚を見たかもしれないと思うところだった。
あの速さであれば虎杖はチャイムが鳴り終わる前に着席できるだろう。
「時間だから」
五条は虎杖が通り過ぎたことによっていささか冷静さを取り戻す。それに藤原の一言で痺れを切らしている伊地知をこれ以上待たせるのも限界だろうと我に返った。結構ギリギリどころか随分な遅刻だ。いつも許されていた微妙な時間ではもうなかった。
「手」
「え、あぁ、うん」
藤原が視線を落とし五条の左手を凝視していた。五条は自分が無意識で手を掴んだこと信じられず、パッと手を離した。
藤原は首を傾げ、一年の教室の方へ向かっていく。五条はその後ろ姿を見つめた後踵を返し、伊地知が冷や汗をかいて待っているであろう車庫へ歩みを進める。
ポケットからスマホを取り出し伊地知からの着信があったことを確認して、心の中で軽く謝罪をしてから親友の名前を探す。
今の時間帯ではあちらも絶賛任務に取り掛かっている最中かもしれない。けれど特級呪術師である我々にとって骨のある任務などなに一つとして存在しない。
帳の中に入っていないことを願って通話ボタンを押した。
「なにかあった?」
ワンコールで電話を受けた相手に思わずよかった! と言ってしまった五条への返事である。
「あったあった! 今日いい夫婦の日なのに伊吹なにもしないんだって」
夏油は予想外のことを言われて二の次が告げないのだろう、すこし沈黙があった。
「そうだね、彼女は何もしないね」
「は?」
夏油はそれが何か問題でも? それが当たり前だと言わんばかりに冷たい声だった。五条はいよいよ冷や汗をかく。
いや、まさか、学生時代から知っている2人にいつの間にか亀裂が入っていたのだろうか。自分に知らぬ間に記念日を祝わなくなり、ケーキも遠ざけるほどになってしまったのだろうか。
「なんで?」
「忙しいから切るよ。今日は呪霊がらみの緊急事態以外連絡しないでくれ」
五条の質問にかぶさるように焦ったような早口で夏油は告げ、そのまま電話を切った。
電話が切れた冷たい音と、通話終了と表示されている画面をみて五条は天を仰ぎ見た。
あの藤原が記念日のケーキの準備をしておらず、夏油に関しては任務で忙しくしている。
藤原なんてなにもない日でも夏油の笑顔が眩しかった記念日などという意味不明の記念日を作って毎日を祝うレベルであったのに、いい夫婦の日という無条件に与えられた記念日には興味を抱かないなんてことがあってはならない。
つい先日、家入の誕生日では「家入がいてくれたから私も傑も五体満足で今まで生きてこられた。本当にありがとう」とアルコールで上気した顔で家入の両手を掴みお礼を言っていたのに(ちなみに毎年言っている)。2週間やそこらで気持ちが変わってしまったのだろうか。
藤原が学生時代から今までずっと夏油にぞっこんだったのは誰しもが周知の事実だけれど、流石に気持ちに変化があったかもしれない。人の心は不変ではないのだし。
五条は動悸を抑えられなかった。藤原の口ぶりも夏油の素っ気なさも全てが嫌な方へを想像を膨らませた。
「まじか」
思わすこぼれた五条の不安は誰にも聞かれることはなかった。
:
出発の時間を大幅にすぎてやってきた五条に一言、苦情でも申し立てた方がいいかもしれないと思っていた伊地知は、五条のしょんぼりと下がった両肩をみて引っ込めた。
遅れた、と小さく一言いうと静かに後部座先に静かに乗り込む。
伊地知は気の抜けた返事をしてから、五条を責めることなく車を発進させることにした。
任務に向かう道中静かに車に揺られている五条を不気味に思ったけれど、たまには静かな時があったほうがいいだろう。もしかしたら遅刻したことを気に病んでいる可能性もあるのだし。今まではそんなことはなかったが、あともう少しで年を重ねる五条は大人になったかもしれないのだし。
いつもの調子じゃない五条にいつもこうであればいいのに、と少し思ってしまったことは内緒だ。
見るからに気落ちしている五条だったが筒がなく任務を終えた。遅刻した時間分を取り戻す勢いでどんどん祓って、祓い終わった後、やっぱり静かに後部座席に大きな体を押し込めた。
「伊吹、何にも準備してないんだって。いい夫婦の日なのに」
「はい、そうですね?」
腕を組み神妙な口ぶりで告げられた言葉に伊地知は虚を突かれた。哀愁を漂わせる原因が親友夫婦だったことが意外だったのだ。
「盛大な記念日を開くのにはぴったりな日じゃん」
こぼれた言葉は頼りなかった。
「そこまで気にしなくてもいいのでは? あの藤原さんと夏油さんですよ」
「……」
五条は伊地知の楽観的なものの言い方に口を閉ざすしかなかった。
伊地知も在学中から藤原も夏油も知っているし、彼女が頻繁に記念日を開催していることは知らないはずないだろう。
それなのに、藤原が記念日の準備をしていないという事実をそう軽く受け取ってしまうなんて。絶対に2人には何かあるに違いない、いや何かあったからこそ準備をしないに違いない。
この状況のゆゆしさを正しく把握できているのは己のみなのだと五条は理解し、どうにかしなくてはいけないという義務感を呼び起こさせた。
当初の任務終了時刻より少し遅くに高専に戻った五条は焦っていた。高専に戻る道中、頼りにならない伊地知に話しかけるのはやめて、藤原が記念日を夏油とともに笑顔で迎えるにはどうすればいいかを悶々と考えた。考えた末に最適だと思える案は閃かず、とりあえずケーキを買って藤原に夏油と食べるように押し付ければ記念日という形骸だけは取ることができるだろうと、ケーキ屋に寄ろうと思いついたはいいが営業時間が終了していて、じゃあ、百貨店に、と伊地知に指示を出したはいいものの、近道のために選んだ道は交通整備のせいで混雑しており結局間に合わなかった。
五条が得たものは徒労のみだった。
やるせない気持ちでいっぱいの中、夏油から今日は高専に戻ってくるのか、というメッセージがきていて、肯定の返事を送った。夏油の今日の忙しさはひと段落したのだろう。文面的にも高専にいるのかもしれない。
あとできることは、ぼんやりと信号待ちをしている最中、親友から悲しく残酷な報告をされても気丈に振る舞える準備だけだった。
:
伊地知の安全運転で高専についた五条は応接室に向かう。夏油から時間があれば寄るようにと追加のメッセージがあったからだ。
重たい体と心を引きずって一歩一歩確実に踏み締めて向かう。
何を言われても大丈夫なように。準備は済ませたはずだ。悲しいことはさっさと済ませたいはずなのに、応接室がひどく遠く感じた。
けれど、五条の長い足では歩幅を狭くしても限界があるため、すぐに着いてしまう。
五条は息を吐き意を決して応接室の扉を開いた。
眼前に広がる景色に五条が驚いたのは一瞬で、すぐさま状況の把握に努めた。
カラフルでポップな風船が浮かぶ室内に、パーティーハットを被った夏油と藤原がいた。夏油は肉にかぶりついており、藤原は紙皿を持っていた。
2人は本日の主役というタスキをかけていたのには面を食らってしまった。
テーブルの上には有名な店でデリバリーしたのか豪華なオードブルが敷き詰められていて、隙間を縫うようにアルコールの瓶が立っていた。
家入が機嫌良さそうにワイングラスを揺らし、ローストビーフに手を伸ばす。
「五条さん、入らないんですか?」
入り口に立ち尽くす五条の背後から声をかけたのは灰原で、振り返ると灰原の後ろに紙袋を下げた七海もいた。
それに気がついた3人がこちらを向く。来てたなら声かけてよ、と夏油がいい、五条はあぁ、うん、と生返事を返した。灰原はそんな五条を室内に進むように声をかけて、最後に入ってきた七海は夏油さん、これを、と紙袋をスッと差し出した。
「いや、悪いね。出張帰りにお使いさせてしまって」
七海が夏油に差し出したマチのある紙袋は五条が今朝藤原にお薦めした新宿のポップアップショップの店名が書かれていた。
けれど、その紙袋はポップアップショップので売っているホールケーキを入れるにしては大きすぎる。店でも取り扱っている大きさの紙袋ではなかったと記憶している。
「七海の出張先に本店が近くてよかったよ。新宿の期間限定のお店じゃみんなで分けるのには小さいからね」
「私も本店に併設されているブーランジェリーが気になっていましたから」
パン似合うお酒も勧められたので、それも是非一緒に、と七海が言うと夏油は感嘆の声を上げて嬉しそうに開けようかと微笑んだ。
灰原は夏油とのやりとりを見て僕も手土産持ってこればよかったですね、と苦笑する。
「いやいや、突然の誘いに来てくれるだけで嬉しいよ。こうやってみんなが揃えるなんて思ってもいなかったしね。たくさん食べてたくさん飲んでたくさんおしゃべりをしよう。それが1番嬉しいよ」
夏油の言葉に藤原は深く頷く。
五条はそろりと藤原に近づいて記念日しないんじゃなかったの? と困惑しきった声で尋ねた。
「うん。私は何もしない。毎年傑が準備してくれるのから」
夏油の笑顔を眩しそうに、愛おしそうに見つめる藤原の横顔を見て五条は肩の荷が降りた思いだった。
「私はしない、ってそういう……」