「夏油? どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。帰ろう」
あれ、少し前に電話した夏油が今目の前にいる。どうしてだろう。
電話していたときには長野にいることに心底驚いていたのに、一体どうして目の前にいるんだろうか。
しかも私を迎えに来ただなんて。
電話口で暫く帰らないと伝えておいたはずなのに。おかしいな。
でも夏油はやっぱり最高だな。
長野という長閑な場所でも夏油のかっこよさが霞まない。似合う。農家のコマーシャルに引っ張りだこになるかもしれない。
蕎麦畑を耕してほしいかも。きっと似合うと思う。いや、確実に似合うと思う。これは事実だ。
「帰れないよ。まだ包丁握って2日目だから」
「いいよ! 蕎麦職人になんかならなくて! 職人になるために修行なんかしなくていい! 私のそばにいて。目の届く範囲にいて」
えへへ、私のそばにいて、だって。
すごい嬉しいことを言ってくれる。さすが夏油だな。最高。私の喜ぶことを分かりきっている。
夏油とありがたいことに恋人になれた日から、いつも以上に私に取って嬉しい言葉をかけてくれるようになった。
その度に、はっとしてじわじわと嬉しさを感じて、ちょっと恥ずかしくなって、でも堪らなく幸せで、夏油にはいつもだらしのない顔を見せてしまう。
だって今も口元が自分の意思関係なしに緩んでしまっている。
でも、だめだ。嬉しいけど、だめだ。蕎麦職人になることは譲れない。私はどうしても蕎麦職人にならなくちゃいけない。本当にどうしても。夏油のために。
「ダメ。包丁3日、のし3ヶ月、木鉢3年だから3年3ヶ月と3日間は修行しないと」
「えっ! 3年も帰ってこないつもりだった?!」
「うん。修行ってそういうものだから」
「どうして?」
思惟する。
どうしてって、そりゃ決まってる夏油のためだから。私の行動理由に夏油以外のことがあったことはない。
いつも夏油のことを1番に思っている自負がある。
「どうして修行したいの?」
「夏油は蕎麦が好きだよね。そして私は料理ができない」
「うん?」
「だからせめて夏油の好きなものだけは美味しく作れるようになりたいと思った」
呪術師兼蕎麦職人になったら達成感があると思う。夏油のために呪霊も祓えるし蕎麦も作れる。いいこと尽くしだ。
修行するから少しの間夏油と離れてしまうことになると思うけど、その期間が過ぎれば、夏油にとびきりの蕎麦をいつでも作ってあげられるようになるし、必要な時間だと思う。
それに、クソみたいな呪霊の味を自身の好物を食べることによって少しでも緩和させることができたらな、なんて思う。
そんなことはできないとわかってる。私の自己満足なこともわかってる。
でもせっかく食べるなら、夏油には好きなものを胸を張って美味しいと言ってもらえるようなものが作れるようになりたい。
夏油はこれからもっと呪霊を取り込むだろう。これは夏油の術式だからやむを得ない。だから、少しでも食べることが嬉しい時間があれば、いいな、なんて、浅い思考で思いついていたりする。
夏油は両手を膝について大きく息を吐き出した。
「伊吹の気持ちはすごく嬉しい。でも、私は伊吹が3年も修行して蕎麦職人になって、美味しい蕎麦を作ってくれるよりも、一緒に蕎麦を食べたり、一緒に出かけたり、一緒に任務に行ったりすることの方がずっと嬉しい」
「うん」
「伊吹と一緒の思い出が増える方が私にとって喜ばしいことだから、一緒に高専に帰ろう」
「わかった」
夏油のお願いに対する返事は肯定しかないので、数日だけだがお世話になった人たちにお礼を述べて荷物をまとめて、夏油と手を繋いでスーパーあずさに乗り込んだ。
本来ならば東京まで3時間弱という決して短くない時間だけど、夏油と並んでご当地の駅弁を食べながら、車窓から見えるまだ雪がかかっている富士山を眺めた。
行きは特に感動しなかった富士山も、夏油と一緒に見れば一等素敵なものに感じて、夏油の言ってることがよくわかった。
やっぱり夏油は私の世界を鮮やかにする。
「綺麗だね」
「そうだね」
綺麗だなんてそんな単純な感想を夏油は微笑んで肯定してくれた。
嬉しいな。やっぱり本当に大好き。
蕎麦職人になるために3年も夏油から離れていても大丈夫だ、なんて思い込んでいたけど、隣にいる夏油の顔を見ると、それはできなかったかも、と思った。
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「伊吹、いきなり音信不通になるな。絶対だからな」
「うん?」
「伊吹と連絡が取れないと私のタバコが不味くなる」
「?」
連絡することとタバコが不味くなることに一体なんの関係があるんだろうか。
家入は本当に時々不思議なことを言う。
「伊吹が側にいないとクズの治安がさらに悪くなる」
「夏油のこと?」
「夏油以外誰がいるんだよ。お前ら恋人だろ。頼むから夏油にはマメに連絡して」
第三者から肯定される恋人という響きに未だなれない。
少しむず痒くなるというか、照れてしまう。
そうそう。私と夏油は恋人なのだ。誰がなんと言おうと。釣り合わないなどと外野が叫んだところで、私と夏油が恋人なのは紛れもない真実だ。大変嬉しいことだ。
「意識してみる」
「意識するな。無意識でしろ」
「努力する」
家入から胡乱な視線を向けられた。
ニコチンが切れてイライラしてるんだろうか。たしかに今、タバコを持っていないし。
家入はタバコでストレスを発散しているところがあるし、毎日毎日怪我人が酷いんだろう。目の下のクマも濃くなっているし。
そんな家入に対して私は、どうすることもできない。タバコを1カートン渡すぐらいしか方法が思いつかないので、今から買いに行こうと思った。
「無理ならずっと夏油の隣に立ってて欲しい」
「? もちろん」
「あー、はいはい」