高専のよく通る道。
そこから少し外れた建物と建物の間が気になって、導かれるように、足が赴くままに進む。
風はないがむっと鼻につくような嗅ぎ慣れた匂いがして胸騒ぎがする。
なんの匂いだったっけ、頻繁に嗅いでいる気がするけど、思い出せない。あまりよくない匂いということはなんとなくだがわかっていた。

一度も立ち止まることなく、淀みなく進んだ先、正面の細い路地に夏油が立っていた。
長い髪は下ろされていて、左手で右腕が生えていた場所を押さえていた。額からは血が滴っていた。
目眩がする。足の感覚は消えていた。
嗅ぎ慣れた嫌な匂いは血の匂いだったみたいだ。

先日私と教室で話した時にお揃いのリングが輝いていた右手どころか右腕は跡も形もなかった。
夏油は足元に向けていた目線を上げた。私と確かに目があったのだが、そのまま壁を背に座り込んだ。
額から流れた血が顔面を滑り落ちている。
夏油の青白い顔に赤い血がよく映えた。
私は息苦しくて、呼吸がままならなくて、震える脚を叱咤して近づいた。
一歩一歩、確実に。

やっと夏油に手を伸ばせば触れられる距離に近づいた時には夏油は瞼を閉じていて、開く様子はなかった。
地面が揺れてるんじゃないかと思うほど震えだす全身をどう落ち着かせたらいいのかわからなくて、利き腕でそっと夏油の頬に触れた。温かった。
でも、目の前の夏油はきっともう2度と目を覚さない。それはわかった。温かいのに。寝ているみたいなのに。

どうして、頑張ったのに。
頑張って頑張って何度も何度も死ぬ思いをしたのに、結局私は夏油を救えなかったのか。やはり私じゃダメだったんだ。弱い私じゃ。
もう体が言うことを聞かなくて、立っていられなかった。膝から崩れ落ちるように地面に座る。

「げとう…」

夏油に手を伸ばすことも怖くて、夏油がいない世界じゃ生きている意味がなくて、私じゃ夏油を生かすことができなくて、もう何もかもがわからなくて。
もう夏油と言葉を交わせない。夏油はもう笑わないし、もう夏油の隣を歩けないし、ケーキも一緒に食べれないし、4人で仲良く集まって青春することもできない。どうすればいいんだろう。この胸にのしかかる痛みを。酷い痛みだ。一体どうしたらいいんだろう。

…この場で死ぬにはどうすればいいんだろう。そうだ、舌を噛み切って窒息死すればいいんだ。まて、それよりも確実に早く死ねる方法がある。
夏油が以前アドバイスしてくれて持ち歩くようになった拳銃がある。それで自分の頭を撃ち抜ければ問題なく絶命できる。
死ぬのは勇気がいるし、苦しいと思う、怖いとも思ってる。でも夏油がいない苦しみと恐怖に勝るものなんかない。
私は慣れた手つきでホルスターから拳銃を取り出して、狙いを外さないために口に咥える。延髄を損傷させて確実に死ぬためだ。

神様がいるとしたら、どうして優しい人を先に連れて行ってしまうんだろう。
不思議に思っていたけれど、生きていることが地獄であればあるほど一刻も早くその地獄から解放させてあげたいと思う。私だって、そうしてあげたい。夏油だって解放されたいなんてそう思ったこともあっただろう。
でも、でもそれが嫌で、どうしても嫌で、生きてほしいと思ったのに。夏油には生きていて欲しいと強く願って、酷いエゴを押しつけて、押し通して。そして、許されたのに。
死んで欲しくないから頑張ったのに、夏油に生きて欲しいから生きてきたのに。
やっとわかったのだ。死そのものが神様の優しさなんだってことが。
理解はしたが納得はしていないし、できなかったけど、それが唯一の救いなんだって。
でも、優しい人の周りにいた人は地獄に取り残されて、優しい人の良心によって生かされていた私たちは神様にさらなる地獄を与えられる。不平等な世の中なのだ。
不平等な世の中だけど、死は万物にとって全てに与えられた権利であり、それが悲しい出来事だなんて私たちが勝手に決めて勝手に怯えて勝手に震えて勝手に忌避してるだけにすぎない。

カチャリと引き金を引いた。
躊躇いは一切なかった。


:


目が覚めると暗闇だった。目元が温かくて手の甲で拭うと濡れていた。寝ながら泣いていたらしい。
夏油が無事か気になって、あまりにも夢が生々しくて、怖くて携帯を探して、数回コールを鳴らして切った。
冷静になった。
だって、画面に映った時間が、あまりにも非常識すぎる時間だったから。
それにあれは私のただの夢だ。現実に起こるはずがない。強い夏油が死ぬわけがない。そんなことありえない。
ただこのままもう一眠りするのはできなかった。
あの夢の続きをみてしまったらどうしよう。
私が死ぬのに失敗して、家入に綺麗に治してもらって、棺桶に入った片腕がない夏油にお花を詰めるのは嫌だった。何がなんでも嫌だった。
汗と涙で体は不快で、喉はからからだった。冷蔵庫からペットボトルを取り出して一気に飲み干した。

そうだ、と夢で見た場所にふらふらと向かってみる。
夢とは違って探り探り、こっちだったかも、あっちだったかも、と頼りない記憶を元に、それらしい、夢に出てきたのと似たような道を選んで進む。
いないのはわかっているが夏油がそこで倒れてないか確認したかった。
夢の中の出来事なのは、わかってはいる。
けど、実際に見て納得したかった。
夏油がそこにいないのは知っている。
今頃ベッドでゆっくり体を休めているんだろう。
わかっている。
でも、実際に今私が起きている現実で、生きている世界で確認しないと怖かった。
恐怖に押し潰されそうで、今にも途切れそうな気持ちを繋ぎ止めておくために安心が欲しかった。

歩いて歩いて、さらに歩いて、今まで来たこともない足を踏み入れたこともないような場所に、夢でみたのに似た細い路地があって、しずしずと足が、吸い込まれるように向かう。
夏油がもたれていた壁に私ももたれて、夢で私がきた道をそこから見た。視線の先は夢と違って私が通れるような道はなく建物の壁面だった。やっぱり夢と違うな、と少しだけ安心した。


:


「伊吹!」

声が聞こえる。焦った声だ。これも聞いたことがある。好きな声だ。

「伊吹! 起きろ!」

寒くて全身が縮こまっている。こわごわとしか動かせない首をゆっくりあげて、夏油をみた。
安心してしまってそこでうたた寝してしまったみたいだった。
夏油が白い息をたくさん吐きながら、着ていたジャケットを私に被せた。外気が入らないようにギュッと前を閉じる。

「…心配したよ」

多分非常識な時間に電話したこととか、わざわざ寒い高専内を探させる羽目になったこととかに対しての怒りはあったと思う。
怒りの言葉や呆れの言葉を言いたかったのかもしれないが、一旦それを全て飲み込んで心配したなんていってくれる夏油はやっぱり優しい。

「何かあった?」

「べつに」

べつにただの夢に感化されただけ。
私にとって都合の良くない悪い夢を見ただけ。
夏油にとっても私にとっても縁起でもない悪夢。
夏油は私がみたクソみたいな夢のことは知らなくていい。

「そうか。…寮に戻ろう」

夏油から差し出された手をぼんやり見つめる。きちんと右手にリングをはめていた。
それだけの小さな事実が私を安堵させる。
自身の胸元にかけてあるリングの存在を上着の上から確かめた。うん。きちんとある。私の胸元に。
再度夏油を見る。私はこの手を取ってもいいのだろうか。
その権利があるだろうか。
彼女でもなんでもないのに深夜に電話をかけて心配をかけた挙句迎えにきてもらって。
そんな迷惑極まりない私が夏油の優しさを掴むのは躊躇われた。

「はぁ」

夏油は息を吐くと私の脇腹に腕を差し込んで、無理やり立たせた。

「痛いところは? 怪我はしてない? 寮まで歩ける?」

高専の中を夏油の呪霊を使って移動できない決まりになっているから、歩ける? なんて私の体を労ってくれて、夏油の優しさをひしひしと感じる。
怪我はしてないし、痛いところもない。歩こうと思えば寮まで歩ける。凍えた体のせいで時間はかかるかもしれないけど。
体の状態をチェックして、概ね大丈夫なので、うん、と返事を返した。
まだ朝日も登きっていない早朝、薄暗くあたりはまだぼんやりしている。だから、夏油は足元気を付けて、と言って手を優しく握ってくれた。
私は夏油の掌から伝わる、夢で感じたのとは別の力強い温かさに心が締め付けられた。
ぎゅっと握り返すと優しく握り返してくれた。生きてる。いやそれは当たり前なのだけど。


:


優しい夏油は私のノロノロした歩幅に合わせて、辛抱強くゆっくり歩いてくれた。
寒さでカチコチだった体が温まるまで、昔に受けたもうすっかり綺麗に治った古傷が痛んだ気がした。
夏油は何も言わなかった。
電話のこととか、わざわざ睡眠時間を削って私を探しにくるハメになったこととか、怒ってもいいのに、怒るどころか、ぎゅぎゅっと手を握り返してくれて、肩をぴったりと合わせて体温を分け与えてくれた。
その優しさがどうしようもなく好きで、好きでたまらなかった。

私は夏油に相応しくないと思う。料理もできないし、インテリアセンスはないし、不器用だし、戦うことばかりをしてきて、強くなる努力だけを積み重ねて、夏油を死なせないことばかりを考えて生きてきた。
夏油にどうしても生きて欲しいと強く願って、それを実現させることが私の全てだった。
でも、欲がでた。欲が出てしまった。

同級生から仲間になって、その次に、恋人にまでなりたいと思ってしまった。
全然相応しくない。私は夏油の隣に立てるほどの人物ではない。
優しくてかっこよくて強くて素敵で、例をあげると、夏油のいいところは言い出すとキリがない。そんな夏油の彼女になってみたいななんて思ってしまったし、夏油の笑顔を、優しさを独り占めしてしまいたいとも思ってしまった。
この繋いだ夏油の大きな掌をずっと握っていたいと願ってしまった。


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