うたかた


目が覚めたら保健室は薄暗く、保健室の窓から見える外の景色はうっすらと紫ががっている。日が暮れ始めていた。放課後だった。別にこのところ夜更かしが続いたわけではないのに、疲れが溜まっていたんだろうか、と幾分かすっきりした気持ちで体を起こす。

保健室の掛け時計で時間を確認すると、ほとんどの部活動が片付けをし始めている時間帯で、ゾッとした。今までぼんやりとしていた脳みそにスイッチが入る。
今日の放課後は体育館の裏に行かなくちゃいけなかったのに、と急いでベッドから起き上がり、上履きの踵は踏みつけて、とりあえず手櫛で髪を解き、保健医の先生に挨拶をして飛び出した。

飛び出したはいいが、壁にぶつかってその場でタタラを踏む。後ろに倒れそうになったのは誰かが腕を引いて阻止してくれた。

ぶつけた鼻を押さえながら、こんなところに壁なんてあったっけ、何の壁にぶつかったのかと顔を上げると、深津くんだった。壁ではなかった。そういえば壁より弾力があったような、と思い返してみたが何せ一瞬のことだったのですっかり思い出せない。
転びそうになったのを支えてくれたのも深津くんの手だった。私が倒れないのを確認するとその熱は静かに離れて行った。

「俺が代わりに断っといたピョン」

「え? うん?」

言葉の要領を得ないので、なにを? と続ける。

「放課後の告白ピョン」

「なんで?」

なんで深津くんが? 私の代わりに。
その戸惑いが顔に書かれていたのだろう、モテモテすぎて困ってるって言ってたピョン、と。
それは確かに事実だけれど、深津くんには関係がないはずだ。

「まさか、付き合うつもりだったピョン?」

深津くんが口をへの字に曲げた、ように見えた。

「それはないけど」

私は高校生活では誰とも付き合う気がないのだ。どれだけ熱い気持ちを伝えられようが、泣き落としにかかられようが、体育館で深津くんのをみる時間が減ってしまうのであれば。忘れ物をして借りに行ける人物が女友達、次に深津くんから、女友達、彼氏、深津くん、と順位が下がってしまうようなら、それなら彼氏なんていらない。

「なら俺が断っても問題ないピョン」

「そうかな……」

「そうだピョン」

むしろ断るのが当然だと、さもありなんというふうに自信たっぷりにいうので少しおかしくなった。

「それもそうだね。ありがとう」

それから、助かったよ、と一言添えた。
放課後の彼のことは何があっても断るつもりだった。私に彼と付き合うつもりがないことは朝の手紙を見て思わずついたため息で深津くんには十分伝わっていたらしい。
多忙なバスケ部のキャプテンにそんな雑用をさせてしまって申し訳ないけれど、実際とても助かったのは事実だ。
一日に何度も何度も誰かの好意をちぎっては投げちぎっては投げ、とするのは流石に少なくとも良心が痛む。
彼らの切羽詰まった言葉や、息づかい、行き場のない手、落ち着きのない様子、意を決して想いを伝えたはいいが、とりつく島もなくバッサリと切り捨てられたときの悲壮感。
告白する方も大変だと思うけど、される方も大変なのだ。良心がチクチクと痛むのだから。
けれど、モテモテでいいじゃん、なんてきょとりと疑問に思われるのがもっぱらで、そこのところがあまりわかってもらえないのが難点すぎた。

「俺と付き合うピョン?」

耳を疑う言葉が聞こえた気がして、深津くんを見た。
いや、そんなまさか、いやいや。
きっとまた冗談だ。そうに決まっている。
とわかってはいるけれど、ここで肯定の返事を返せば本当に私は深津くんの彼女になれるだろうか。降って湧いたチャンスにしがみついたほうがいいのだろうか。

深津くんは今までの告白してきた男子と違って声も震えていないし、挙動も不審じゃない、顔も赤くなっていないし、いつものおしゃべりの延長みたいにいつも通りだった。
なんだ、やっぱりそうだ。
けれど、私はいつまで経っても返事ができずにいた。
ゆめ、なのだろうか。すっかり目が覚めて保健室を出たと思っていたけれど、まだ夢の中なのかもしれない。

「俺と付き合って欲しいピョン」

なんだ夢か、と片付けようとした私にもう一度耳を疑う言葉が聞こえた。
すごい夢だ。なんて願望丸出しなんだ、とだんだんおかしくなって笑いが込み上げてきた、けれど、お腹の奥がグッと重くなる感覚も這い上がってきて苦しくなった。
もう、なんだかよくわからなくなって、しのび笑いが溢れた。

「俺を虫除けにすればいいピョン」

「……なるほど」

この上なく私にとってありがたい申し出だ。けれど、深津くんはいいのだろうか。彼は高校生活で彼女を作る気は本当に全くないということなのだろうか。
でも、そうでなければただの女友達にこんなこと言ってくれる訳がない。

「深津くんは本当にいいの?」

「ピョン」

この時ばかりは彼の語尾の真意が掴めずに、ヤキモキしたけれど、それでも、この提案に乗らない手はなかった。

「よろしくお願いします」

「じゃあ一緒に帰るピョン」

「あ、荷物取りに行かなくちゃ。教室しまっちゃってるかな」

職員室に寄らなきゃ、と未だに向かい合ったままの深津くんの横を通り過ぎようとして、再度腕を取られる。それにつられて立ち止まると、静かに手は離れていった。
今日の深津くんは気安く触れてくるものだから気が気がじゃなかった。どうしたんだろう、本当に。私を動揺させるのには効果は抜群だ。動揺が伝わらないように、精一杯いつも通りの振る舞いを意識がける。
持ってきてるピョン、と私のカバンを持ち上げられて、驚いた。
深津くんが私の教室に入って荷物を詰めている様子を想像したかったのに、うまくできなかった。

:

結局私の荷物は深津くんが持ってくれてたままで、私は手持ち無沙汰で校門を出た。
深津くんが住んでいる寮と学校の最寄駅が方向が違う。だから、ここからどうするのだろう、と深津くんを見たときには、手が差し出されていた。深津くんの大きな手のひらを見つめる。

「手、繋いでいいピョン?」

「うん」

えぇ! と内心は動揺の嵐だったけれど、そんなことは一切言葉には出なかった。
いつものように私も返事を返して、深津くんの手のひらに自分の手を重ねる。
深津くんの手はやっぱり大きく、部活後だからか少ししっとりとしていた。そっと差し出した手を深津くんはギュッと握ってくれて、悲鳴が出そうになった。思わず反対側の手で拳を作って胸元に持っていっていく。体の一部に力を入れていないと、爪が食い込むほど強く握っておかないと平静を保てなかった。
もう遅いから、と深津くんは私を最寄駅まで送ってくれたが、その帰り道は高校生活で1番ドキドキしていた。いや、今までの人生で1番かもしれない。
最寄駅に着いたあと「明日も調子が悪かったら休むピョン」と気遣いの言葉をかけてくれたが「でも明日も会いたいピョン」なんて言われてしまったので、私は熱を出してその場で倒れてしまうんじゃないかと思った。街灯はチカチカとついたり消えたりを繰り返していて、とうとう切れてしまったのは真っ赤な顔をまじまじと見られずに済むことになり少しだけ救いだった。

:

中間テスト前はいくら山王バスケ部といえども練習は休みになる。そうはいってもテスト勉強せずに自主練する部員が多いのは多くの先生も生徒も知っていた。
深津くんは、自主練をしたり、時には私のテスト勉強に付き合ったりと自分の中でスケジュールを立てているらしかった。
今日は私と勉強をしてくれる日だったので、私の教室に顔を出した深津くんをみるや否や、鞄を引っ掴んで深津くんの元に駆けた。
深津くんは私の顔をまじまじと見つめた後、必ず手を差し出してくれるので、それにそっと手を重ねて歩き出す。
私たちは側から見るときちんとカップルをできているようだった。私は以前のようにたくさんの告白されることは無くなった。ただ、一方的な想いを伝えられることはあった。けれど、気持ちを伝えたかっただけだから、と話を聞くだけで返事も何もしなくていいのは、以前と比べて随分とありがたい変化だといえた。
深津くんは深津くんで、いろいろ突かれているらしいというのはアンちゃんから教えてもらった。
ーー3年バスケ部主将深津、どうやって高嶺の花であるみょうじさんと付き合えたのか!
というゴシップ記事が出回っていることも教えてくれた。やっぱり新聞部は相当に暇らしい。

図書館では静かに、というのがルールだが小声で勉強を教え合うには許されていたのでささやかな話し声は黙認されていた。

「深津くんはやっぱりスポーツ推薦?」

「今までの功績のおかげで都内の大学推薦は確定だピョン」

「へぇー、すごいね」

深津くんは高校生活のほとんど全てをバスケに捧げてきた。だからその結果、大学推薦がもらえるのだ。大学推薦を貰うためにバスケに勤しんでいたわけではないが、というかそんな下心だけであれば山王バスケ部のスタメンなんて、キャプテンなんてできっこないけれど。

「みょうじさんも推薦もらって一緒に都内の大学に行くピョン」

「え?」

ん? と深津くんは教科書を捲る手を止めた。私を彼女にしてくれているのは工業高校で告白されるのが日常になっている私を気遣ってくれたからだ。だから、そんな、卒業してからもお付き合いが続いているようなニュアンスで話を切り出されて、咄嗟に反応できるわけがない。

「推薦もらえないほど成績やばいピョン?」

「いや、そんなことはないけど」

「頑張って欲しいピョン」

「うん」

深津くんは今度はシャーペンを持ちノートに数字を書き始める。
あぁ、そうか。
周りは私の虫除けのために深津くんと付き合っていることは知らないから、普通の彼氏彼女の会話として大学の話を出したにすぎない。順調に交際していますよアピールをすることで、私に一方的に好意を伝えてくる人も減ることを深津くんは知っているのだ。
そこまで考えた上の発言か、とわかるとそうだった、深津くんってすごく気がつく人だったと改めて思い知らされた。

期間限定、仮初のカップルの私たちは本当に健全なお付き合いをしていた。まあ、まだ付き合い始めて2ヶ月も経っていないから、まだ手を繋いだことしかないのはおかしなことじゃない。
深津くんの部活がなければ一緒に登校して、お昼ご飯は一緒に食べる。放課後は私は図書館に行って深津くんは部活へ。部活が終わる頃に私が体育館をのぞいたり、深津くんが図書館に迎えにきてくれたりと、実にお手本そのものだった。
アンちゃんからはもうちょっとイチャイチャしてもいいのに、と言われるが、これ以上深津くんと一緒にいて、その上物理的な距離まで近づいてしまったら心臓がもたないので、今の距離感で一杯一杯だった。
これ以上何かがあるとときめきで倒れてしまいそうだ。

「週末どこか出かけない?」

「もちろんだピョン。嬉しいピョン」

深津くんは私の顔を見てもニコリともしない。いつものように静かな瞳をこちらに向けるだけだ。けれど、深津くんがそういう人だと知っているので目があったことに嬉しくなって微笑みを返す。
しかしいくら私が深津くんのことが好きであろうとも、ときめきで倒れることがあっても、この関係は期間限定だ。だから私は深津くんの彼女という関係を最大限利用して期限までに思い出を作ろうと深津くんのバスケ以外の時間を貰おうといつも考えていた。

:

「とりあえず卒業するまでピョン」

ちなみに、虫除けはいつまで? と付き合った次の日の登校時、恐る恐る聞いた返事はこれだった。
だから、後半年はめいいっぱい彼女の特権を享受しようと強く思った。握った手に力をこめると、深津くんは何を思ったのか、ぎゅぎゅっと手を握り返してくれたので、やっぱりずるい、と思ってしまったのだ。

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