逃げた猫と爪痕






「シャトンがいなくなったの」

僕の部屋に入るなり言い放った彼女の一言に 僕は溜息をつく。

「…またぁ?」

目の前の、ベルは飼い猫が彼女の前から姿を 消す度に僕に「依頼」をしに来る。…依頼と言 っても、未だ彼女からきちんと「お願い」と 頼まれた事は一度も無いけど。

「…いつから」

「1週間くらい前」

1週間。自分の飼猫が逃げたならもう少し焦 ってもいいもんなのに。そういえば彼女はい つも平然としてる。

可愛がってないじゃ無いみたいだけど、あま りにも淡泊で、どうにも逃げた猫が憐れだ。 そりゃあ逃げたくなるよねぇ。

辟易しつつも毎度のように僕は頷く。 頼まれた訳でもない。なのに僕は毎回、彼女 の猫を捜す。

僕は猫が好きな訳でもないし、困った人間を 放っておけないお人よしでもない。 ならばなぜ、って。決まっている。 彼女が、ベルが僕を頼って来たから、だよ。

ただそれだけ。 それだけの理由で僕は重い腰を上げるんだ。

「私、リビングにいるから」

彼女はそれだけ言うと、黒い装丁の本を猫の 代わりに抱き抱えて部屋を出て行った。 バタン。

ドアが閉まった瞬間、僕は再度溜息をついて 煙草を灰皿に押し付けた。

「ほら、商店街の路地にいたよ」

首根っこを掴んだ黒猫を、彼女の鼻先に突き 出すと至極当然のように彼女は猫を抱き抱え た。

どこに行ってたの、探したのよ、なんて、普 通はかけるはずの言葉ではなく彼女が発した のは「貴方の手触りが、好き」。

ベルが慈しむような手つきでベルベットのよ うな黒猫の背を撫でると猫は喉を鳴らし、彼 女に擦り寄った。

そう、猫はベルが嫌いな訳じゃない。 むしろ、かなり懐いている。

じゃあ、何故この猫は逃げるんだろう。 それだけがいつも謎なんだ。 だってこの気位の高い黒猫はいつも、まるで 見つけ出して下さいとでも言わんばかりにわ かりやすい場所で佇んでいる。じっと僕を見 据えながら。

決して甘えた声など上げず、擦り寄る事もせ ず、ただ観念したように僕におとなしく抱き 抱えられて彼女の元に運ばれるんだ。 僕はそいつ―――抱えられた猫を見た。毛並み は綺麗だし、一般的に見てかなり可愛い姿を している。 だからこそ彼女の元から逃げても毎回誰かが こいつの面倒を見てくれてるし、可愛がられ ている。現にさっきまで猫がいた商店街の魚 屋はこの猫を僕が連れて行くのを渋ったくら いだ。

だからわざわざ彼女の元に戻らなくたって、 もっと可愛がってくれる人はいるはず。

なのに。

なんで。 毎回猫を捜す度に腹に溜まっていく疑問。な んで猫はベルの元から逃げ、そしてまた帰っ てくるのか。

それから、なんで、ベルは毎回僕に頼るのか 。…彼女を慕う他の男達じゃなくて。

わざわざ、僕を頼るってことは、

『もしかして――――』

そんな淡い期待が胸の奥で燻る。

溜まった靄を吐き出すように、とうとう僕は 溜息と共に彼女に疑問を投げかけた。

「…ていうか、さ…いつも思うんだけど…なん で僕に頼むのさ。」

言った瞬間、ごく、と喉が鳴った。 だけど僕のそんな微かな希望は無惨にも打ち 砕かれた。

「あぁ、だってシャトンと貴方仲がいいんだ もの。この子男の人嫌いなのに、貴方は全然 、引っ掻かれないでしょ?」

「え…でも昔はKKに頼んでたじゃんか。僕よ りもあの人の方が適任なのに、さ?」

「ああ、ふふ。だってこの子、KKさん嫌い なんだもの。すぐ引っ掻いちゃって。あの人 の手、傷だらけになっちゃったのよ。」

ベルが無邪気に笑って猫の前足を持ってつい ついと招き猫のように動かすと、猫は機嫌よ く喉を鳴らした。

「……………………あぁ…そう…」

一気に燻っていた胸が冷えていく。

…馬鹿だ僕は。 僕でなくてもよかった。僕は、単なる代わり だった。 …いや、普通に考えれば解る事だったんだ。だ けど僕の茹だった脳じゃあ少なからず彼女が 僕を好きでいるから、なんて。

お笑いだね!穴があったら入りたいよ。僕はあ まりに自分が情けなくて顔を伏せた。

「それにね、スマイル」

彼女は言葉を続ける。もういい。充分わかっ たからやめてよ。

「シャトンは…彼はヤキモチ妬きだから」

その言葉に思わず顔を上げて彼女の猫を見た 。 猫も僕を見つめていた。その視線。

――――ああ、僕が君に向けるものと同じ、か 。

やっと君が僕には爪を立てない理由が解った よ。

「爪を立てるのは、彼女に相手にされている 男だけ、かぁ」

猫にまで同情され僕は自嘲気味に一人ごちた 。 そんな僕の独白なんて気にも止めず、彼女は 踵を反す。

「ありがとう。じゃあ」

ホント、酷い女。 人の気持ちも知らないで―――いや、解ってて やってるのか、知らないけど――――人を弄ん で掻き乱して、突き放す。

「待って」

バン。

木製のドアが閉じる乾いた音。

ベルがドアノブを回し、出て行こうとしたド アを、彼女の背後から手で抑えて無理矢理閉 じた。

「スマイル?」

ドアと僕の間に挟まれたベルは全く動じない 、だけど疑問符の浮かぶ瞳で僕を見上げた。

君は、僕が無害だと信じてるんだね。でも、

僕はドアを閉めた手はそのままに、彼女の目 線まで屈んで碧の瞳を見つめた。

ああ、どこまでも澄んだエメラルドのような 碧色だ。でも、その瞳は僕を映さない。

「狡いよ、君は」

僕は自棄気味に彼女の柔らかい頬に唇を押し 付けた。 ロマンチックさの欠片もない、ただ子供の駄 々のような行為だ。

「スマイル」今まで一番近い距離で響く彼女 の声はとても透き通っていて。でも僕が彼女 の首筋にもう一度キスをした後に呟かれた僕 の名前には動揺が滲んでた。

動揺、か。ようやくわかったかい?僕がどん なに君に―――

その途端、彼女の腕の中の猫が怒りの声を上 げる。そのベルベットが逆立ち磨がれた爪が 空を切るのを聞いた。

「――っ」

威嚇が聞こえた瞬間、肩に鋭い痛みが走った 。

思わず怯んで彼女から身を引くと、猫は見た 事もない、怒りを浮かべた顔で僕を威嚇して いた。

しかし、それより信じられない光景が僕の前 に現れた。


ベルの、驚いた顔。

目を疑った。 だって彼女はいつもの淡泊な表情ではなくて 、真っ赤だったんだ。

よほど驚いたのか、右手を頬に当てて俯いて る。

………ざまあみろ。 なんて、性格の悪い事を考える僕。 思い知った?僕がどんなに君に狂ってるか。

「悪いけど、次からは猫探しは無理だよ」

猫に嫌われちゃったからね。笑うとベルは俯 いていた顔を上げて、何かを言おうとしたの か薄く開けられた唇は、だがしかしまた閉じ られた。

「だからもう逃げないようにちゃんと見てな よ。わかったね?」

ベルは僕を見た後猫を見て、こくりと頷いた 。

ねぇ、今君は何を考えているんだい?

彼女に触れようとして腕を動かすと、肩にぴ り、と痛みが走った。

関節付近を見ると、3センチ程の引っ掻き傷 に血が滲んでいた。 しかも包帯の隙間、肌の現れた部分を狙って 引っ掻かれてる。 …嫌な猫。主人に似て。

猫を宥めるベルの腕の中でソイツは未だ僕を 睨み付けていた。

『ご主人様には手を出すな』とでも言うよう に。 でもさ、ごめんね。 それは出来ないよ。だって、もう嫉妬深い君 の為の便利な配達員でいる気はないし。 君の主人と温い友人ごっこをする気もない。

「ねぇ、ベル、気づいてる?君が好きだよ」

ベルは猫を宥めようと背を撫でる手を止めて 、僕を見上げた。

まさか。そう言いたげな表情で。

「だから君なんて、嫌な女が好きな僕が嫌い だ」

そう言うとベルは目を丸くして、ぷっと噴き 出した。でもその後慌てて口を指で押さえ、 『いけない』というような仕種をしてみせる 。

その仕種が可愛く見えるなんて、本当、末期 だと思いながら僕はつられて笑う。

ずきずきと響く肩の痛みが何故か、勲章のよ うに誇らしかった。

猫はきっともう逃げないはず。 だって自分を捜す都合のいい奴もいなくなる し。 めでたく危険人物に認定された僕を監視しな くちゃいけないだろうし。

あぁ、僕は危険人物らしく君の主人の周りを うろつかせてもらうよ。

僕は他の男と違って君からどんなに引っ掻か れようと懲りないから。

そういう気持ちをこめてにっこり笑いかけて やると、猫は彼女の腕から飛び出した。

「シャトン!」

彼女の叫びと同時に、8つの爪が僕の顔面を 滑りおりた。勲章があと8つ、増えた。




END

性格の悪いベルが好き

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