永遠を纏う香り


「お誕生日おめでとう。白朮」

 瑞香は璃月港の片隅に佇んでいる小さな平屋で暮らしている。今日はその一室で、恋人の誕生日をささやかに祝福していた。瑞香の恋人――白朮は縦に長い瞳孔を持った金色の瞳を細め、赤い紐がかけられた木箱を受け取った。

「ありがとうございます。毎年楽しみにしているのですよ。さて、今年はどのような香りでしょうか」
「ふふっ。開けてみて」

 赤紐を解き、木箱の蓋を開ける。中には棒状になっているお香が敷き詰められている。まだ火をつけていないというのに、薄紅色のお香からは花の香りが漂ってきた。
 毎年、瑞香は白朮の誕生日に決まってお香を贈る。香りはその年によって様々だが、今年の香りは――。

「桜、ですか」
「そう。白朮が生まれたこの季節にピッタリでしょう?」

 瑞香は棚から香炉を持ってくると、円卓の上に置いた。蓋を取ると、すでに新しい香炉灰が入れられている。白朮は木箱からお香を一本手に取ると、香炉灰の真ん中にそっと突き立てた。お香の先端に火を灯し、しっかり燃えていることを確認したら、手でそっと扇いで火を消し、燻らせる。瑞香の部屋の中はすぐに桜の花の香りでいっぱいになった。

「甘くて優しい香りがしますね。ありがとうございます、瑞香さん。しかし、いい香りだからと使い過ぎてはすぐになくなってしまいそうですね。残りは持ち帰って、じっくり楽しみながら使うことにしましょう」
「気に入ってくれたのならよかった。……参考までに聞きたいのだけど、今までに贈った香りの中で何が一番好きだった?」
「……そうですね」
「あっ、やっぱりいいわ。どんな香りだったかなんて、覚えていないわよね」
「いいえ。覚えていますよ。……二年前の誕生日にいただいた沈丁花の香り、でしょうか。あれが一番好きだったかもしれません。香り豊かですが匂いに酔うということはなく、むしろ精神を和らげてくれるような、そんな香りだったことを覚えています」

 まさか、と思った。香りの名前や、どのような効能があるかだけではなく、贈った時期まで的確に口にされたものだから、返す言葉が見つからなかったのだ。
 急に口を噤んでしまった瑞香を、白朮は不思議そうに見つめる。

「どうかしましたか?」
「あっ……ううん。ビックリしちゃって。お香ってなくなってしまうものなのに、そこまで詳しく覚えているとは思わなかったの」

 すると、白朮は少しだけバツが悪そうに笑った。

「実は今までいただいたお香の箱を全て自室に保管しているのですよ」
「えっ?」
「せっかく瑞香さんからいただいた贈り物なのに、何も手元に残らないのは少し寂しいので。……女々しいと言われるかもしれませんが」

 女々しいとか、そういう些細な問題ではない。記憶に残らないようにと、そう思っていたのに。
 秒針が時を刻む音が響く。白朮の瞳が瑞香を見据えて離さない。まるで、瑞香の心の奥に隠しているものを暴くように。

「何か不都合でも?」
「……いいえ」
「では、質問を変えましょう。なぜ毎年お香を贈ってくれるのか……いえ、手元に残らず消えてしまうものを贈り物として選ぶのか、教えていただけますか?」
「それは」
「ああ、すみません。贈り物が不満というわけではありません。お香や香水などを好まれる瑞香さんが選んで贈ってくださるものですから、むしろとても嬉しいのです。ただ……さっきも言ったように、手元に残らないのは少し寂しいと思っただけです」

 探るような言葉は、次第に本心へと変わっていく。心を曝け出してくれたのだから、同じように返さなければ。ふたりは対等な存在で、恋人同士なのだから。

「私は……いつか、永遠を手に入れる貴方の枷にならないようにしていたつもりだったの。形に残るものだと、貴方をいつまでも縛り付けてしまう。捨ててしまってもいいけれど、それも貴方は胸を痛ませるでしょう。だから」
「なるほど。だから香りとして私の元に残らないものを、と」

 白朮は自分自身と、今この場にはいない仙獣の長生を救うために、不死を追求している。それが叶えば、人間の身である瑞香とはいつしか永遠の別れが訪れることになる。
 だから、別れが訪れたあと、少しでも早く自分という存在を忘れられるようにと、そんな気持ちでお香を贈り続けていた。至って真剣な理由だった。
 それなのに、白朮の肩は震えている。口元を隠し、笑いを堪えている。この反応は瑞香にとっても想定外だった。

「ふ、ふふっ……」
「ど、どうして笑うの!? 私は真剣に……!」
「ふふふ、すみません。ですが……ご存じないのですが? 香りというものは人間の五感の中でも最も記憶に残りやすいと言われているのですよ」

 目をまん丸に見開いてかたまってしまった瑞香に対して、白朮は懇切丁寧に説明を始めた。
 それはプルースト効果と呼ばれるもので、特定の香りをかぐと関連する記憶が呼び起こされる現象のことをいうらしい。嗅覚は人間の記憶を司る海馬に直接働きかけるため、香りをかいだ瞬間に記憶や感情を思い出すことができるのだ。

「私が不老不死となり、いつか死がふたりを分かつときが来ても、沈丁花の香りをかぐたびに私はあなたを思い出すのでしょう。……とても幸せなことですね」

 まさか、と瑞香は顔を手で覆い隠した。あまりにも恥ずかしすぎる。白朮のことを想って、いつか自分を忘れられるようにとやっていたことが、自分自身の存在を刻みつける行為だったとは。

「そ、そんなつもりじゃ……」
「おや? 瑞香さんはてっきりご存知だとばかり思っていました」
「……初耳よ」

 ちらり。瑞香は指の隙間から白朮を盗み見た。瞳を細め、眼差しから滲み出る愛おしさを隠そうともしていない。
 白朮はこういう男だ。一見すると誠実であるように見えるし、実際のところそうなのだが、同時にしたたかな男でもある。璃月という国そのものと赤縄の契りを結んだ瑞香が、それでも今の生では白朮自身を選んだという、想いの深さをよく知っている。
 瑞香は頬を染めたまま呟いた。

「来年からはお香以外のものを贈るわ」
「それは残念。では、形に残るものをリクエストしておきましょう」
「……考えておく」

 まったく残念がっていない様子で白朮は笑った。
 さて、来年は何を贈ろうか。手についている職を生かし、揃いの指輪を作って贈ってもいいかもしれない。もちろん、沈丁花のお香を添えることも忘れずに。
 そうすれば、涼しい顔をしている恋人の頬に朱を散らすことくらいはできるだろうから。



2024.04.25



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