胸占め


 私立テイワット学園高等部にせつなが入学してから一週間が経った。月下家が代々仕えている神里家の令嬢、綾華が安全な学園生活を送るための護衛という体での高校生活だが、実際のところ警備が行き届いている学園において護衛を意識しなければならないのは登下校のときくらいだった。その登下校さえも車での送迎があれば護衛は不要なのかもしれないが「なるべく普通の高校生と同じような学園生活を送らせてあげたい」という綾人の兄心で、綾華はトーマと共に神里屋敷から歩いて登校している。せつなはその途中で合流し、三人で学校へ向かうことが毎朝の日課になっていた。
 せつながいつもの場所で二人を待っていると、いつもの時間に賑やかな声が聞こえてきた。綾華とトーマはせつなに気が付くと、歩調を少し速めてせつなの前で歩みを止めた。

「おはようございます、せつなさん」
「おはよう、せつな」
「綾華さま。トーマさま。おはようございます」

 せつなが丁寧に頭を下げると、ふたりは困ったように眉を下げて笑った。

「せつなさん。口調が元に戻っていますよ」
「えっ? あ、ごめんなさい! 神里家のご令嬢と接すると思うとつい……」
「せつなさんが私の護衛を務めてくださるお気持ちは大変嬉しいです。しかし、それ以上に私はせつなさんとお友達になって学園生活を楽しく過ごしたいのです。ですから、どうか他の同級生と同じように接してください」
「は、はい」

 せつながぎこちなく頷くと、じ、と薄氷色の瞳が不満そうに見上げてくる。慌てて口元を抑えて、咳払いをひとつ。

「コホン。……おはよう、綾華ちゃん」
「はい。おはようございます」
「綾華ちゃんは……敬語を崩すわけにはいかない、のかな?」
「私はこの喋り方が一番お話ししやすいので」
「せつな! オレにもお嬢と同じように頼むよ!」

 せつなが綾華との距離を縮めていると、人懐っこい声が降ってきた。トーマの眼差しには期待が込められて、どこか輝いているように見えた。その若草色の瞳の中に自分の姿が映っていることに気が付き、なぜが気恥ずかしさがこみ上げてきてせつなは視線を落とした。

「お、おはようございます。……トーマさん」
「うーん、崩せたのは呼び方だけかぁ」
「同級生ではありますけど、実際のところトーマさんは年上ですし、あの、少しずつ慣れるようにしますから……」
「アハハッ! せつなは真面目な子なんだね。仕方ない。今はさん付けで呼んでくれるようになっただけ良しとしよう」

 ふわり、とトーマの手のひらが頭を撫でた。まるで風が吹いたように、触れるか触れないかの柔らかさで。
 明るく友好的なトーマのことだ。これもスキンシップの一貫で、それ以上の意味もそれ以下の意味も持たない。それでも、人見知りぎみな性格に加えて異性と接した経験が少ないせつなにとっては、その一瞬がどうしても特別なもののように思えてしまった。

(入学してから……ううん。トーマさんと出逢ってから、なんだかわたし、変)

 綾華を挟み、三人で話しながら歩いていると学校までの道のりはあっという間だった。昇降口で上履きに履き替えて、二階に上がり教室に入る。すでに登校していたクラスメイトたちに挨拶をしながら窓側の席へと向かうと、クラスの中でも一際目立つ金の髪の二人組が綾華に話しかけてきた。

「あっ、綾華!」
「おはよう」
「おはようございます。空さん、蛍さん」
「宿題やった?」
「もちろんです」

 窓際の後ろから二番目の席に座る綾華の隣の席にいるのが空。そして綾華の前の席にいるのが蛍。双子の兄妹だ。入学初日から綾華は二人と友達になり、学校にいる間はトーマやせつなと一緒にいる以上の時間を彼らと過ごすようになっていた。

「綾華ちゃんにお友達ができてよかった」
「ああ。学校で友達を作ることはお嬢が一番望んでいたことだったからね。それに、彼らなら信頼できそうだ」

 綾華の後ろの席に座り、通学バッグから教科書を取り出す手を止めて、せつなは隣の席のトーマを見やった。
 トーマのことは、神里家の当主である綾人が最も信頼している使用人だと聞いていたが、どうやらその認識通りで間違いないらしい。トーマはこの一週間の間でも、綾華と関わる人物に目を配り見定めていたのだから。

「……わたしもしっかりしなきゃ」
「うん?」
「いえ、なんでもありません! あ、先生がきたみたい」
「一限目は古典か……げっ」
「どうしたのですか?」
「……教科書を忘れちゃったみたいだ。せつな、ごめん! よかったら見せてくれない?」
「ええ。もちろん大丈夫ですよ」
「本当かい? ありがとう、助かった! じゃあ失礼するよ」

 ガタン、と小さく席が揺れた。トーマの席とせつなの席が、ぴたりと隙間なくくっつく。一緒に教科書をのぞき込めば、肩が触れ合ってしまいそうな距離感を意識せずにはいられなかった。
 「古典って退屈な授業だよな」と言うクラスメイトもいたが、せつなはどちらかというと好きな授業だった。それなのに授業が始まっても、古典教師の声が遠くに聞こえて頭に入ってこないし、ノートは真っ白なままだ。

(しっかりしなきゃって、思ったばかりなのに)

 どうして、頬が熱い。
 胸を占めるこの感情の名前を、せつなはまだ知らない。



(隣の席/退屈な授業/真っ白)2023.07.13





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