容易く運命


 春になると新しい何かが起こる、そんな予感がする。
 空気が僅かに冷たさを残している春の朝。トーマは足に馴染み切っていない新しいスニーカーを履いた足で、桜並木が生み出す木漏れ日の下を歩いていた。
 思わず見とれてしまうような美しい景色に奪われかけた意識を、目の前に繋ぎ止める。
 今日から三年間、高校生活という新しい環境に身を置くことになるのだ。ただ学園生活と青春を謳歌するだけならば、堅苦しい考えは必要ないのかもしれないが、すでに成人を迎えているトーマが高校生活を送る理由はただ一つ。ポニーテールを揺らしながら目の前を歩いている少女――神里綾華の護衛を陰ながら務めるためである。
 綾華はふと足を止めると、くるりと振り返った。

「いよいよ今日から高校生活の始まりですね。少しドキドキしてしまいます」
「大丈夫ですよ、お嬢。何かあってもオレが必ず守りますから」
「もう、トーマ。私はそのような意味でドキドキしていると言っているのではありません。その……お友達ができるのか、とか、部活動をやってみたい、とか……そういう期待の意味でのドキドキです」
「ああ、そういうことでしたか。でもオレは、新しい環境に身を置くお嬢が事件や事故に巻き込まれないように、若から護衛の任務を仰せつかっています。常に気を引き締めておかないと」

 綾華は神里家の令嬢である。兄の綾人は若くして父が遺した会社を継ぎ、社長として幅広い分野で活躍をしている。両親を亡くし、たった二人だけの肉親になってしまった綾人と綾華は互いを最も大切な存在として支えあいながら生きているが、特に綾人は妹の綾華に対して少々過保護なところがある。容姿端麗、成績優秀、名家令嬢の三拍子が揃った綾華が、今まで誘拐されそうになった回数は数えきれない。護身術として剣術を習得してはいるものの、それだけで綾人の心配は解消されなかった。
 そこで、トーマに白羽の矢が立ったのだ。
 両親を亡くし神里家に養子という形で迎え入れられたトーマは、その恩を返すために綾人にずっと仕えてきた。今回『高校に進学する綾華を護衛するために、一緒に高校生活を送ってほしい』という綾人からの願いにも、二つ返事で頷いた。それはあくまでも綾華を守るためであり、自身が高校生活を楽しむためではない。トーマはそう思っていた。

「確かに、お兄様はトーマに、私の護衛を命じました。なぜ、トーマが選ばれたと思いますか?」
「えっと、オレはお嬢と歳が近いし、高校生に紛れ込んでも違和感が少ないから……?」
「ふふっ。お兄様はこう仰っていました。『ずっと神里家に仕えてくれているトーマにも、学生生活を楽しんでほしいから』と」
「っ、若……」
「トーマは中等部を卒業して高等部には進学せず、ずっと神里家に尽力してくれました。だからこれは、お兄様の願いであり、私の願いでもあります」

 綾華はトーマに向かって右手を差し出すと、華が綻ぶように微笑んだ。

「私の初めての友人になって、一緒に高校生活を楽しんでください。敬語もやめてくださいね。だって、友人なのですから」
「……ハハッ! 命令じゃなくとも、喜んで」

 トーマは噛みしめるように綾華の右手を握り返した。
 このあたたかくて優しい兄妹の想いを、無下にしてはいけない。綾華を守るということは第一に考えるべきことだが、もう少し肩の力を抜いてもいいのかもしれない。高校生という人生で一度きりの貴重な三年間を、楽しみながら大切に過ごそう。そう思いながら、お守り代わりに首から下げているネックレスに触れた。

「でも、いくら友人として同じ高校に通えるといっても、オレは男だ。体育の授業や、部活は男女別というところが多いだろう? オレが四六時中傍にいられるわけじゃあない。そういうときに、お嬢に危険が生じたら……」
「ご安心ください。私を護衛してくださるのはトーマだけではありませんから」
「と、いうと?」
「神里家に代々仕えてくださっている月下つきのした家のお嬢さんが、一緒に入学してくださることになっています。昔、会食などで何度かお会いしたことがありますが、とても真面目でお優しい方です。その方が一緒ですから、トーマも安心してください」
「なるほど。ということは、オレとお嬢とその人の三人で過ごすことが多くなりそうだね」
「そうなりますね。確か、私より少し年上でトーマより年下だったような……あ、あちらの方です」

 綾華が手を差しだした方向へと顔を向けると、柔らかな春風が桜の花びらをのせて通り抜けていった。
 風が揺らす青みがかった長い黒髪は、まるで星のない夜空に浸したような宵色だ。綾華と同じ制服から伸びる手足は驚くほど白く、彼女の黒髪が余計に映える。何よりも印象的だったのは、瞳だ。蒼色にも、薄い紫色にも、黄色にも見えるような不思議な色は、例えるならば月光の色によく似ている。まるで宵という概念が人の形を成したかのような、嫋やかな少女。
 少女はトーマと綾華の存在に気付くと、揺れる髪を耳元で押さえながら微笑んだ。

「初めまして。月下せつなと申します」

 風に流される桜の花びらと一緒に消えてしまいそうだ。思わずそう感じてしまうくらい、美しく、儚い微笑みに、落雷に打たれたかのような衝撃がトーマの全身を駆け巡った。
 たぶんこれが、一目惚れというものなのだ。



(「初めまして」/春風/一目惚れ)2023.07.07





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