■ ■ ■

「おはようございまーす」

もう16時なのにこの挨拶はどうなんだろうとは思うけれど、社会人は『そういうもの』らしい。大学3年生になってから始めたアルバイト。オフィス街のまぁまぁ大きいビルのワンフロアにあるそこそこな規模のペットフードやペット用品を取り扱う会社で週3日、16時から20時まで3ヶ月程前から事務のバイトをしている。前は大学生らしくファミレスでバイトをしていたけれど、まぁ色々と理由があって接客以外のバイトを探していたときにちょうど見つけたのがこの会社でのバイトだった。

「あ、ミョウジちゃん来た!」
「嘘、もうそんな時間なの!?」
「来てすぐでごめんね。この伝票入力お願いしていい?」
「わかりました!」

社員さんから書類を受け取って、わたし用に用意されているデスクで早速伝票の処理に取り掛かる。最初は普通の会社にこんな時間から来て何をすることがあるんだろうと思っていたけれど、16時頃になるとお子さんのお迎えで帰ってしまう人がいたり、夕方は翌日の受注が集中する時間帯だったりで、これが意外と助かるらしい。

「ごめん、それ終わったらこっちもお願い」
「はーい」

フレックスタイム制を取り入れている会社だから早い時間から出社している人たちは帰ってしまうけど、それでも20時まではそこそこ人がいる。人がまばらになったオフィスで黙々と割振られた単純作業をこなしていく。ここでバイトするまでは、就職するなら絶対総合職!せっかくそこそこの四大まで行ったのに事務職なんてありえない!なんてことを思っていたけれど、これがまぁ自分に合っているというか、自分の社会に対する視野の狭さを知ったというか。接客のバイトも好きだったけど1人で黙々と作業するのも意外と嫌いじゃないかも、と思いながら手を進めていく。


「時間過ぎてるじゃん!ミョウジちゃんもういいよ、ありがとね」
「お疲れさまです」
「はーい、帰り気をつけてね」

20時を少しすぎた頃に退勤してビルを出ると外は雨だった。会社から駅まではそう遠くはないけれど、傘無しで歩くには少し距離がある。はぁ、とひとつ溜息を吐いて鞄に入れっぱなしにしていた折り畳み傘を取り出した。折り畳み傘は仕舞うのが苦手だからなるべく使いたくないけれど仕方ない。駅のホームで電車を待つ間スマホで音楽を聴きながらボーッとしていると、いつのまにかわたしの後ろには列ができていた。雨だからか、いつもよりホームに人が多い気がする。

運良く座れた電車内で、わたしの前の吊り革に掴まって立っている人がバイト先の会社の営業さんだと気が付いた。名前は、確か場地さん。申し訳ないけど下の名前は思い出せなかった。これは挨拶するべき、なんだろうか…。他の営業さんたちは何かと声をかけてくれるけど、場地さんとは初日に挨拶をしたぐらいで、これまでまともに話したことはない。なんならわたしのことを認識してくれているのかもよく分からない。キツめの目付きとか低い声が少し怖くてなんとなく近寄り難い人だな、と思っていた。

気付かれる前に声をかけるべきか、それとも気付いていないフリをしてやり過ごすべきか。でも同じ電車ってことは多分家が同じ路線なんだろうな。今後も会うことがあるかもしれない。できれば今のバイトは大学生のうちは続けたいし、職場の人にも良い印象を持たれたい。外で会っても挨拶しないヤツ、なんて思われるのは避けたい。

「あの…」

挨拶しようと顔を上げると、場地さんは目を瞑っていた。どうやら吊り革につかまって立ったまま寝ているらしい。…器用だな。ていうかちゃんと顔を見たのって初めてだけど、よく見ると場地さんってめちゃくちゃイケメン、なのでは。切長の目尻とか、少し厚めの形の良い唇とか、顔にかかる長めの前髪とか。見れば見るほど顔が良い、というか大人の色気みたいなものを感じる。つい場地さんの顔をまじまじと見つめていると、電車がキィィーーーーっと鳴って急停車した。

「…っぶね…すんません」

ガタン、と大きく電車が揺れたその瞬間目の前に場地さんの顔があって、口から心臓が飛び出るかと思った。体勢を崩した場地さんがわたしの座っているシートに手をついたからだ。

「ってあれ、ミョウジ…さん?」
「あ、はい…お疲れ様です…」

悪い、と言いながら再び吊革に掴まって立った場地さんがわたしの名前を覚えていたことに驚きつつも、ようやく挨拶できたことに小さく安堵した。まだばくばくと心臓が鳴っている。

「悪い、寝てたみたいで」
「お疲れなんですね」
「あー、まぁ…」
「…席代わりましょうか?」

どうせ次で降りるし、そう思って言えば「いや、次で降りるしいいわ」と返ってきた。まさか最寄り駅まで同じなんて。

「ミョウジ…さんはどこで降りんの?」
「あ、わたしも次で…あの、呼び捨てでいいですよ」

明らかに慣れていなさそうな『さん』付けに思わずクスリと笑ってしまった。会社ではそんな感じしないのに。すると場地さんは少しだけで恥ずかしそうな顔をして「笑うなって」と言って、その顔になぜか心臓がきゅん、と小さな音を立てた。おかしいな、さっきまで近寄り難い人だと思っていたはずなのに。

「つーか最寄り一緒かよ。今まで全然気付かなかったわ」
「わたしもです」

意外と普通に話せるなぁ、ていうか場地さんて思ったよりも話しやすいかも、なんて思っていたときに、再び電車がキィィーーーっと音を立てて停車した。場地さんは今度はしっかり吊革を掴んでいたようで、わたしの方へ倒れてくることはなかった。なんとなくそのまま流れで一緒に電車を降りて一緒に改札へ向かって駅を出る。会社を出るときに降っていた雨はもう止んでいた。

「あの、わたしそこのスーパー寄って帰るんで」

このまま一緒に帰る、というのはさすがに気不味いかなと思って、駅構内にあるスーパーを指差してそう言うと一歩前を歩いていた場地さんが「あ、そうなん?」と小さく振り返った。

「じゃあ、えっと、お疲れ様です」
「おー、じゃあまたな」

気を付けて帰れよ、と手を上げた場地さんが笑って、チラリと見えた八重歯が可愛くて、また胸の奥が小さな音を立てる。

わたしの家と同じ方向へ歩き出した場地さんの背中を見つめながら、明日のバイトで場地さんに話しかけるきっかけを必死に考えていた。



「おはようございます」
「あ、ミョウジちゃん!お願いが!!」

出社してすぐに社員さんから「今日ってちょっっっとだけ残業とかできる!?」と食い気味に尋ねられた。もちろんこの日はバイト以外に予定はなかったから、わたしは何も考えずに頷いたワケだけども。まさかちょっっっとだけと言われて付き合った残業が、終電ギリギリまで及ぶとは思わなかったのだ。

「ま、にあった…!」

駆け込み乗車で飛び乗った終電、乗り込んだ直後『駆け込み乗車は大変危険ですのでおやめ下さい』というアナウンスが流れた。電車内の視線がわたしに集まるのを感じて、たまらず顔を伏せて空いている席にそそくさと座った。

「お疲れ」
「えっ?」

腰を下ろしふぅ、と一息ついたときに隣から笑い混じりのお疲れ、という低い声が聞こえて、わたしは慌てて顔を上げた。

「え、あ、場地さん…!?」
「駆け込み乗車は危ねーからやめろよ」
「う、すいません…」

まさか場地さんに会えると思っていなかったのと、駆け込み乗車しているところを見られていたのが恥ずかしくて、頬がじわじわと熱を持ちはじめる。それを誤魔化すようにパタパタと手で顔を扇いだ。

「こんな時間まで残業付き合わされてんのかよ」
「…場地さんこそ」
「俺は社員だからいーんだよ。ミョウジはバイトだろ」
「バイトだから働いたら働いただけお金もらえるんでいいんです」

なんとなく隣にいる場地さんの顔が見れなくて、ずっと鞄を持つ手を見ながら話していた。終電まで残業して良かったな、なんて思いながら。


前に最寄り駅が一緒だと判明して以来、会社内でもたまに話すようになった。話しかけるのはいつもわたしからだけど。それまでほとんど関わりのなかった場地さんに急に話しかけるようになったせいで、仲の良い事務の社員さんにはいつもニヤニヤされてしまう。しかし良いのか悪いのか、場地さんは周りからのそんな視線には全く気付いていないみたいだった。わたしの指導係でもある事務の渡辺さんが、「場地くんかー、ミョウジちゃん意外と面食いだね」と面白そうに笑って、その言葉に顔をカァッと赤くしたわたしを見て渡辺さんは更に笑った。

「そ、そんなんじゃ…」
「ふーん。じゃあ場地くんが今彼女いるかどうか、知らなくていいんだ」
「あ、う…それは…教えて欲しいです…」
「あはは、素直でよろしい」

佐藤くんにリサーチしとくね、と言われ、わたしの恋心は佐藤さんにも知られてしまうことになった。佐藤さんは場地さんよりひとつ年下の後輩の営業さんだ。

「ミョウジちゃんマジで!?えっ場地さんなの!?」
「ちょ、佐藤さん声大きいです…!」
「いやー、でも分かるよ!場地さんかっこいいもんなー顔っていうか中身が?イケメンだもんな!」
「あの、本当に声!抑えてください!」

佐藤さんからの情報によると、場地さんは今彼女はいないらしい。ついでに誕生日や血液型なんかも聞いてもらって、そしてちゃっかり場地さんの名刺も手に入れた。下の名前が圭介さんだというのはこのとき初めて知った。『場地圭介』という名刺に並んだ漢字4文字にすらときめいてしまうわたしは多分かなり痛い奴だ。でも佐藤さん経由で手に入れた場地さんの名刺は、大事にパスケースに仕舞っておいた。いつも20時で退勤するわたしより場地さんの方が早かったり遅かったり、営業先から直帰することもあるらしく、帰りの電車が一緒になるのはこれが2度目だった。特に意味のないような、他愛も無い話をしているとわたしたちの最寄駅にはあっという間に着いてしまう。場地さんが「最近佐藤が俺のことニヤニヤしながら見てくんだよな」と言ったときには思わず背中に嫌な汗が流れた。佐藤さんはどうやら顔にも出やすいらしい。この前は「俺、口堅いから!」と爽やかに笑っていたけれど、その言葉の信憑性がかなり薄れつつある。どうか佐藤さんが余計なことを言いませんように、と心の中で全力で祈った。

この前と同じようにそのまま改札を通り駅を出た。前に場地さんが帰って行った方向からして、多分帰り道は途中までは一緒のはず。途中まででもいいから、今日は一緒に帰れたらいいなぁ、なんて。

「あの、場地さん、」
「ミョウジって家どっち?」

勇気を振り絞り、きゅっと手を握りしめる。しかし一緒に帰りませんか、と言おうとしたわたしの声を場地さんが遮った。

「え?あ、あっちです」
「うちと一緒じゃん」

場地さんが「じゃあ行くぞ」と言って歩き出した。

「えっ、えっ?」
「早くしろよ」

固まるわたしに、置いてくぞ、と振り返った場地さんの背中を慌てて追いかける。これは一緒に帰ってくれる、ということで良いんだろうか。慌てて並んだ場地さんの隣で、にやけそうになる口元を思わず手で押さえた。終電まで残業してほんっとうに良かった。よく考えれば同じ方向なんだから途中まで一緒に帰るのなんて、場地さんにとっては当たり前のことだったのかもしれない。それでもわたしはどうしようもなく嬉しくて仕方なくて、隣を歩く場地さんの横顔をちらりと盗み見ては高鳴る心臓を落ち着かせるのに必死だった。

「あ、うちここです」
「へー、学生の割に良いとこ住んでんじゃん」
「中は狭いですけどね」

駅から10分弱歩いて着いた一人暮らしのマンションはこの春に引っ越してきたばかりだ。まだ築浅でもちろんオートロックも付いている。自分でも大学の友人たちと比べて良いマンションに住んでいる方だとは思う。

「つーか俺ん家とめっちゃ近ぇわ」
「えっ」
「うち、そこの角曲がったとこ」
「えぇっ!?」

夜中にも関わらず思わず大きな声が出てしまい「うるせーよ」と場地さんに頭を小突かれてしまった。慌てて口を押さえてすいません…と小さな声で謝ったけれど、今はそれどころではない。場地さんが指差した角はうちから徒歩30秒ほどで、恐らく生活圏内はほぼ一緒だ。ということはつまり今後家の近くでばったり会えてしまったりするんじゃないだろうか。

「じゃあな」
「あ、はい、お疲れ様でした…」
「おー、おやすみ」

半分放心状態で、なんとか軽く頭を下げて角を曲がる場地さんを見送る。のろのろと部屋に入ると、そのままベッドにダイブした。目を閉じて浮かんでくるのはおやすみって笑った場地さんの顔で、やっぱり八重歯が可愛くて、ていうかおやすみって、その言葉だけで破壊力抜群すぎた。

「好き、だなぁ…」

ぽつりと零れ出たひとりごと。

目を細めて笑う顔も、耳に心地よく馴染む低い声も、苦手だと思っていたはずなのに。今ではすっかり恋愛フィルターが働いている。笑ったときにちらりと見える八重歯も、黒くて綺麗な少し長めの髪も、もう全部好き。

好きです、場地さん。
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