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「お願い、みょうじさん!今日だけ!ね!?」
「…わかりました」
営業部長直々に頭を下げられて拒否できるほど、いち事務社員のわたしは偉くない。というか拒否権なんてそもそもない。
お願いの内容は今夜の接待に同行してほしい、ということだった。なんでわたしが…と思って話を聞くと、どうも得意先の社長がわたしのことを気に入っているらしく「受付にいるあの子も連れてきてよ」と言ってきたそうだ。正直断りたい気持ちしかない。しかし営業部長も担当の営業さんもいつも受付の前を通る時に「お疲れ様」と気さくに声をかけてくれて、出張のお土産をくれたりとすごく感じ良く接してくれる人たちだ。そんな人たちに頭を下げられてきっぱり断れるほどわたしも図太い神経を持ち合わせてはいなかったし、「普段はそんなことを言わない気の良い社長だから!セクハラとか絶対ないし、させないから!」と強く言われて渋々折れた。
『ごめん、今日は急な仕事で帰り遅くなりそう』
仕事の休憩中に送ったメールにはすぐ『わかりました。仕事頑張って』と返信が来た。いや、絶対今授業中でしょ…と思ったけれど、千冬くんからのメールだと思うとつい頬が緩む。いけないいけない。それにしても会えないと思っていた日に会えると3割増しで嬉しいけど、会えると思っていた日に会えないのは5割増しで辛いな。午後の仕事を乗り切るモチベーションを失ってしまった。
接待の相手は前もって聞いていたが、なんというか、色々と想定外だった。わたしのことを気に入っていたのは取引先の社長…ではなくその息子だった。高橋商事の高橋社長の息子の高橋さん。いや、ややこしいな。今は後継ぎとして勉強のために同じ会社で営業をしているらしい。わたしより5つ年上の笑顔が爽やかな男性だった。得意先だからと横柄な態度を取ることもなく、今日私を呼んだことをとても申し訳なさそうにしている。高橋社長自身も聞いていた通り気の良いおじさんという感じで「みょうじさん一人暮らしなの?それならもっと飲んで食べな?どうせ会社のお金なんだから」と笑っている。うん、いい人だ。
「本当にすいません、父が勝手にこんなところまでお呼びしてしまって」
「あ、いえ…」
しかし申し訳なさそうに笑う目の前に座る男性に、わたしはまずい、と思った。なにがまずいって、この人の声が千冬くんの声にそっくりなことだ。
「でもまさか本当に来てくださるとは思わなかったので、嬉しいです」
目の前で29歳イケメン御曹司が、大好きな千冬くんそっくりの声で控えめに笑っている。千冬くんもあと10年ぐらいしたらこんな感じに落ち着くのかなぁ、と思ってしまったわたしは多分相当失礼な奴だったし、そんな考えを誤魔化すように「これ美味しいですよ」と勧められた日本酒を口に運んだ。
「みょうじさんまで連れて来られたら断れないじゃないですか」
高橋さんは眉を下げて人の良さそうな笑顔で言った。どうやら商談はうまくまとまりそうな雰囲気だ。まさか本当にわたしが来ただけで商談が決まるなんてことはないと分かってはいるけれど、そんなふうに言われれば来た甲斐があったかなぁと思う。担当の営業さんは「ほんっとにありがとう!今度受付に差し入れ持って行きますね!」と何度も頭を下げて言ってくれた。
「みょうじさん」
「えっ」
部長たちに「お疲れ様です」と声をかけて駅へ向かおうとしたところで、さっきお店の前で見送ってとっくに帰ったと思っていた高橋さんに声をかけられた。
「家まで送らせてください」
「えっいや、大丈夫ですよ!まだ電車もありますし…」
まさか取引先の次期社長にそんなことをさせるわけにはいかないと思い断るも、高橋さんもなかなか引き下がってくれない。
「自分のせいで遅くまでみょうじさん付き合わせちゃったんで、これぐらいさせて下さい。ね?」
結局千冬くんそっくりの声でお願いされるとどうにも断り切れなくて、わたしは今一度気合を入れ直し高橋さんが停めたタクシーに乗り込んだ。
「みょうじさんのこと、いつも受付で見かけていいなって思ってたんです」
「ははは…それは、ありがとうございます」
タクシーで隣に座る高橋さんにそんなことを言われて思わずそわそわしてしまうのはこの人にときめいているからでは決してないんだけど、ものすごく千冬くんに悪いことをしている気分になってくるから困る。
「対応も感じ良いし、可愛らしい人だなって」
頼むから、酔っているときに千冬くんと似た声でそういうことを言わないで欲しい。
そわそわと落ち着かないわたしの態度がどうやら高橋さんを勘違いさせてしまったようで、そっと手を握られた。肩も触れてるしなんだか良い匂いするし、「みょうじさん」ってあぁ、もうその声ほんとやめてほしい。
「っ、すいません、その…」
高橋さんはわたしが困っていることに気付いてくれたようで、すぐに「すいません」と言って手を離してくれたけれど、なんだか居た堪れなくなってタクシーの隅で身を縮こまらせた。
「…恋人、とかいるんですか?」
「あ、はい…います、ね」
今ここでいません、と言えばこのあとどうなってしまうかなんてさすがのわたしでも想像できる。「そっか…それは残念だなぁ」と眉を下げて笑いながら、本当に残念そうにそう言う高橋さんが恋人がいようと関係なく迫ってくるような人じゃなくて良かったとホッとしたのと同時に、勘違いさせてしまうようなな態度をとってしまったことを申し訳なく思った。
「あの、すいません、ここで大丈夫です」
「え、っと、ここ、ですか?」
「はい、ここで」
自分の家からは離れた場所でタクシーを停めてもらうと、立ち並ぶ古い団地を見て高橋さんは少し驚いたような表情をしたけれど、多分すぐに察してくれた。重ね重ね申し訳ないことをしている自覚はある。
「送っていただいてありがとうございました」
「…また会社に伺った時は声かけてもいいですか?」
「あ、はい」
さすがに取引先の次期社長に「彼が嫌がるからそれは…」なんてことを言えるはずもなく、ここは素直に頷いておく。じゃあ、と言って走り出したタクシーが角を曲がるまで見送って、わたしは鞄から携帯を取り出した。最近ではすっかり見慣れた名前を呼び出して通話ボタンを押す。
『もしもし?』
「千冬くん、今家にいる?」
『いるけど…どうかした?』
「今ね、千冬くんのお家の下にいるよ」
『は?』
「えへへ、来ちゃった」
わたしがタクシーを降りた場所は自分の家の前ではなく、千冬くんが住む団地の前だった。電話を切ってすぐに出てきてくれた千冬くんの顔を見るとやけにホッとしてしまう。緊張の糸が途切れたように急に足の力が抜けた。
「なまえさん」
「ごめんね、こんな遅くに」
「いや、いいけど…なんかあった?」
何かあったかと言われればあったんだけど、千冬くんの顔を見たらそんなことはもうどうでも良くなって、わたしは「何にもないよ」と言って千冬くんに抱きついた。
「酔ってる?」
「ううん、酔ってない」
嘘、多分酔ってる。高いお酒って何であんなにグイグイ飲めちゃうんだろう。不思議だ。
「千冬くん、キスしたい」
「酔ってんじゃん。なまえさん、ここ外だけど…」
「誰もいないよ」
千冬くんの首に腕を回してキスをねだる。普段のわたしなら絶対こんなこと言わないから、やっぱり日本酒はやめとけば良かったかなぁ、でも獺祭美味しかったなぁ、また飲みたいなぁ、なんてことをぼーっとする頭で考えながら千冬くんからの甘いキスを受け止めた。
「めっちゃ酒の味する」
「あ、ごめん」
「いいけど、」
あんま俺のいないとこで飲みすぎないでって言ったらうざい?なんてそんなのうざいはずがないし、ぎゅうっと締め付けられた胸の奥が苦しくて仕方ない。でもその苦しさすらも心地良いと思えるほどにこの男の子が愛おしかった。
「家まで送る」
「ん、ありがとう」
誰もいない夜道を千冬くんと手を繋いで歩いた。外で手を繋いで歩けるってやっぱりいいなぁ、と思っていたら「外で手繋げるのいいね」って千冬くんが嬉しそうに笑ってくれて、同じことを考えていたことがどうしようもなく嬉しくて、繋いだ手をぎゅっと握り直した。
部屋に入ると、すぐに千冬くんが唇を重ねてきた。唇を押し付けたまま、ぬるりと入り込んだ舌にちゅ、ちゅ、と音を立てて吸われればわたしはすぐに立っていられなくなって座り込んでしまう。それでも唇は離れなくて、キスをしたまま玄関に押し倒されるような体勢になった。
「んっ、ふ…ぁ…」
「…はっ、酔ってるなまえさん初めて見た。なんかえろい」
わたしの頬を少しかさついた指先でなぞる千冬くんのその顔の方がよっぽど色っぽくてえろいと言ってやりたかったけど、今のわたしにはそんな余裕はなかった。千冬くんの手がするりとわたしの服の中に入ってきて、脇腹辺りをさする。
「ひゃ…ぁっ…」
「なまえさん、かわい」
名前を呼ばれて本日3回目のキスをされる。その間も手の動きは止まらなくて、ついに下着の上から胸に触れた。手のひらで全体を揉むようにして触ったかと思えば固く主張するそこをきゅっと摘まれる。
「ぁんっ…」
「もう固くなってる」
「ぁっ…ゃ…ぁ、ん…っ」
「…ごめん、なまえさんがちゃんと止めてくれないと俺止まれない」
「うん…はぁ…ぁっ」
止めなきゃ、と思うのにキスも胸を触る手も気持ち良くて抵抗なんて全然できないし、したくない。どうしよう、このまま流されてしまいたい。ていうか、気持ちいいのに、なんか、気持ち悪い…
「ぅ、ちふ、く…まっ、て…吐く…」
「え!?」
「ごめ、ぅっ…」
「ちょ、ちょっと待って!」
千冬くんが慌てて上から退いて、わたしは玄関横のトイレに駆け込んだ。
「ごめんね、千冬くん…」
「飲み過ぎて吐く人初めて見ました」
「だめな大人で本当に申し訳ない…」
本当に最悪だ。お酒を飲み過ぎて吐くなんて。しかもそれを彼氏に見られるなんて。しかもしかもあんなタイミングで。いや、まぁ結果流されずに済んだけど。
落ち込むわたしに、千冬くんが慣れた様子でウォーターサーバーで水を入れてくれた。この前まで「これどうやって使うの?」って言ってたのに、いつのまにかうちにあるものを当たり前に使う姿が嬉しくて、こんな時までいちいちきゅんとしてしまうわたしは千冬くんの前では本当にだめな大人になってしまうらしい。
「…だめななまえさん見てるとちょっとホッとするからいいよ」
「えっ」
「なまえさんて俺の親に気遣ったりさ、料理もできるし、いつもしっかりしてるから。こういうところ見るとちょっと安心する」
そう言って千冬くんはわたしの頭を優しく撫でてくれた。
「なんか俺ダサいね、ごめん」
「ううん」
ダサいなんて、思うはずがない。愛おしいという気持ちが次から次へと溢れてきて止まらない。千冬くんの胸に体を預けるようにして寄り添えば、ぎゅっと抱きしめてくれる。こんなにも誰かを愛おしいと思ったのは初めてだった。